交通遺産をめぐる

関西を中心に隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

和歌山県日高町の荒滝橋 (2022. 1. 22. / 2022. 1. 28.)

鹿ヶ瀬隧道 (鹿瀬洞) への険しい登り上げの道中,誰からも見捨てられた旧橋を「発掘」した.

目次

はじめに

2021年9月5日,鹿瀬洞を訪ね終えた私は,同じ原坂峠に残る別の旧道を目指していた.

 

鹿瀬洞から日高町側 (熊野側) に下ると,700mほどのところで,道は急峻な地形を避けて「ひ」の字を描くように大きく迂回する.鹿ヶ瀬峠を越えてきた先代の熊野街道 (=熊野古道) と合流する直前である.

この地図だけでも,現道に絡みつくように何本もの旧道が残っていることがわかると思う *1.今回着目するのは,「ひ」の一番底,道が大きなカーブで進路を180°変える部分である.

地図の十字の部分だが,カーブの外と内に2本の道が描かれている.内側が2車線の現道で,外側は旧道である.それだけでなく,「青い線」すなわち河川をそれぞれの道が跨いでいる.ということは,旧橋の現存が期待される.

 

では,いったいどんな橋なのか.現地に赴く前,ストリートビューをチェックした.Googleカーは旧道には進入しなかったようだが,現道から旧道の姿を拝むことができた.そこで見たのが,次の光景だ.

おっ…!いい橋じゃないか!

 

若干蔦に覆われてはいるが,背の低い高欄は明らかに古い作である.ひし形の窓が設けてあるのも洒落ているではないか.これはぜひ行ってみたい.

 

期待を胸に,新鹿ヶ瀬トンネルから峠を下った.現道と何度も交差する旧道には,チェーンで塞がれている区間もあったが,件の橋は開放されていた.そして,いざ橋と対面してみると……

??????

 

全く橋らしくないが,これが,2021年9月5日時点での橋上の景である.

 

旧橋は藪に埋もれていた.カーブの途中ゆえに広く取られた路面は無事だが,高欄や親柱は完全に隠されている.もはやひし形の開口部など目にしようもない.先ほどのストリートビューは2014年1月撮影だったが,真冬にもかかわらず高欄が蔦に覆われていたのは,どうやら伏線だったらしい.その時点で既に管理が及ばなくなっていたのだろう.

 

廃道ならば理解できる.しかしこの旧道は封鎖されていなかったし,立入禁止の標示もなかった.橋の東側で農地 (みかん畑?) への細道が分岐するためであろう.実際に私は,後述の「発掘作戦」をおこなった2日間,この橋を通って農道へ向かう軽トラを何度か目にしている.交通量は少ないながらも一応は現役の橋にもかかわらず,この惨状なのだ.

 

ほとんど同じ時期 (2021年8月) に,Googleカーも当地を再走行していたらしく,最新の写真が後日公開された.これにより横からの景も確認できる.

これは……酷い.もはや旧道の存在すら窺えない.

 

草刈りの道具など持っていなかったこの日の私は,まだまだ暑いこの日に素手で格闘する気にはなれず,再訪を誓って現地を後にした.

 

ちなみに現道も川を跨ぐが,コンクリートのカルバートだった.

1枚目が上流 (旧橋) 側,2枚目が下流側.完成時期は不明だが,特に惹かれるものはなく,これ以外の写真も撮らなかった.

第1次発掘作戦 (2022. 1. 22.)

敗退から4ヶ月が経ったこの日.(旧) 卒塔婆隧道岡阪隧道の再訪を済ませたのち,午後になって当地に舞い戻ってきた.写真は橋の西側の旧道分岐からの景で,左が現道,右が旧道.こうして見ると現道もかなり急な曲線だ.

 

例によって旧道は塞がれていなかったので,そのまま進む.真冬ゆえ,多少は状況がマシになっているのではないかと思っていた.しかし……

マジか……

 

初訪時の写真と同じく対岸から.

何も変わってないじゃないか!!

 

まあいい.そうだろうとは思っていた.ここからが本題だ.何としても高欄を掘り起こして,「橋らしい」見た目にしてやろうじゃないか.作業用手袋を嵌め,剪定ばさみを片手に「発掘作戦」を開始した.

親柱

まずは橋の名称,それから願わくば完成時期を知るため,親柱を発掘することにした.4基の親柱 (があるはずの場所) を観察してみると,南西側がもっとも藪が薄かったので,そこから取り掛かった.

 

これが開始時の状況.ここからコンクリートの表面に絡みついた蔦をひとつひとつ剥がし,周囲の雑草を切ったり引っこ抜いたりすることおよそ5分.

出たぞッ!

 

あらたきはし.コンクリート製の親柱に,朗々と記されていた.まだ確定ではないが,十中八九「荒滝橋」であろう.

 

名称が判明したことに加えて,直接文字を刻むタイプの親柱であったことは,相当な僥倖だった.金属製の銘板を取り付けた橋では,大抵はその銘板が戦時中に供出されてしまっている.そうして正式名称が不明となり,自治体にも「無名橋」とか「○○ (地区名) 1号橋」といった適当な名前で管理されている橋はごまんとある.しかし,石やコンクリートに直接文字を刻む親柱では,親柱自体が失われたりしない限り,文字情報が残り続けるのだ.

 

続いて路面を挟んで反対側,北西の親柱に取り掛かる.

この左端の方に埋もれているはずだ.

 

まずは雑草を刈る.無心でザクザクと切りまくった.その奥は凶悪な灌木の海だった.上の写真でわさわさと茂っている緑色の葉っぱ,あれが全部灌木である.剪定ばさみだからある程度の枝は切断できるが,それでも三度四度とはさみを入れないと切れない太さのものもあった.

 

開始から10分.ようやく上の方が見えてきた.

「昭和二…」!完成時期だ!やっぱり古いぞ!!

 

気合で残りも刈り続け,全体像を露にした.

昭和二年九月竣功.昭和戦前期,それも元号が変わってから1年も経たない時期の作である.

 

後は同じ要領で,対岸の2基も発掘した.

素晴らしいことに両者とも残存し,南東に「大谷川」,北東に「荒瀧𣘺」とそれぞれ刻んでいた.

 

以上をまとめると,本橋は荒滝橋,あらたきはし,昭和2年 (1927年) 9月竣工,大谷川架設.親柱から得られる情報としては100点満点だ.橋名も納得のゆくものだった.橋の下の深い谷からは,常にドボドボと水の落ちる音が聞こえていたからだ.姿は見えないが,この滝が「荒滝」に違いない.

南側 (上流側) 高欄

続いて,高欄を掘り出す.比較的状況がマシな,南西 (左岸上流側) から着手した.

 

草を引っこ抜き,枝を刈る.作業はそれだけだが,年単位で放置された灌木は硬く,高密度に絡まり合っている.厄介なことこの上ない.全部チェーンソーか何かでぶった切ってやりたいが,そんなものは持っていない.ひとつひとつ剪定ばさみでチョキチョキしていった.

 

格闘すること15分.

南西の1パネルを発掘した!これだ,この高欄が見たかったのだッ!

 

気合でもう1パネル!

 

2パネルの発掘にかかった時間は30分以上.後ほど全景を載せるが,上流側・下流側それぞれの高欄は8パネルで構成されている.時刻は15時で,日没まで残り2時間ほどしかない.この時点で,当日中の作業完了は不可能だと悟った.

 

作業を続ける.一番厄介なのは,硬い灌木が高欄の上や開口部に縦横無尽に絡みついていることだ.もちろんそれらは橋の上ではなく,谷の両側の崖から生えてきているので,根元には手が届かない.無理に手を伸ばすと容易に転落する.高欄の高さが (この時代の橋としては標準的だが) 25寸 (≈76cm) ほどしかないからだ.転落すれば深い谷底の「荒滝」に呑まれることになる.

 

安全に気を付けてひとり黙々と格闘すること1時間半.

ようやく全体が露になりつつある.

 

未着手の北側高欄と比べると違いは歴然.左がbefore,右がafterである.

 

高欄意匠の詳細.各パネルにひし形の窓が設けられ,それぞれの周りをやや大きい八角形の縁取りが囲んでいる.唯一無二ではないかもしれないが,こだわりの感じられる意匠だ.そして,その高欄が竣工から95年を経て状態よく保存されている―――藪に埋もれてはいるが構造物としての破損はほとんどない―――ことも注目に値する.

 

南側から.確かに高欄は露になったが,橋の外側をクズ藪が覆い隠しているせいで,今一歩全貌は見渡せない.もう少し刈り進める必要がありそうだ.

 

時刻は17時.この日の作業はここまでとして家路についた.

第2次発掘作戦 (2022. 1. 28.)

翌週,再訪した.

 

前回は小型の剪定ばさみでチマチマと刈っていたが,中腰の姿勢が続いたために腰を痛めた.そこで今回は,1mから1.5mほどの長さに伸縮する大型の刈込鋏を事前に購入していた.刃渡りも大きいので,多少の効率改善にもなるはずだ.また,普通の作業用手袋では枝や雑草の棘が手に刺さりまくることもわかったので,薔薇などの手入れに使うらしい園芸用手袋も購入した.ついでに雑草の養分である土を除去するためのスコップも持参.前回は電車+カーシェアだったが,この装備で電車に乗ることはできないので,実家の車を借りて出向いた.

 

現地に到着したのは午前9時.日没までおよそ8時間.翌々日からは長崎県対馬への長期旅行を予定していたので,わだかまりを残さないよう,今日中に終わらせようと決心していた.

 

作業前の景.1枚目は西詰から,2枚目は東詰から.当たり前だが前回と状況に変わりはない.

 

今日はまず,前回未着手だった下流側を刈ってゆく.

 

高欄自体に傷をつけないように注意しつつ,地道に灌木地獄を刈ること1時間半.ここまで掘り出した.嬉しいことに,こちらの高欄も原型を留めている!

 

さらに格闘すること1時間強.11時40分時点で,高欄の全体を発掘した

 

西詰・東詰からの景.最初と比べると非常にすっきりしたぞ.

 

現道からの景.まだ床版より下の部分はしつこい藪に覆われており,橋の材料や構造が判然としない.

 

ここでいったん休憩.御坊市街まで出て昼食をとった.

 

午後1時,現地に戻って作業再開.作業内容は

  1. 高欄周辺に残った草の刈払い
  2. 雑草が育つ原因となる,路面上に積もった土の除去
  3. 崖から伸びる灌木を刈り,可能な限り「横からの見栄え」を改善

の3つに据えた.1, 2 は粛々とやるだけ (とはいえスコップ一つではかなり骨が折れた) だが,3 は橋上から身を乗り出して鋏を入れる必要があり,少々危険だった.私の持参した刈込鋏は目一杯伸ばしても1.5mほどの長さにしかならないので,限界もあった.

 

午後2時.上流側の枝刈りが進み,桁が露出した.

本橋は単径間RC桁橋であることがわかった.規模から考えれば妥当なところだが,まだ旧態依然の木橋が多く残っていた昭和2年,山深いこの場所に最新式の永久橋が架けられたことは注目に値する.

 

さらに地道にコツコツと刈り続けた.途中,しつこく絡まった枝葉をスコップで落とそうとして,誤ってスコップごと谷底に落としてしまったりもした.もちろん回収不可能で,しかも実家の倉庫から借りてきたスコップだったので,仕方なく市街地のホームセンターまで行って新しいものを買い求めたりした.そんな寄り道も挟みつつ,日没間近の17時を迎えた.

これでどうやッ!綺麗になったやろ!……と独りごちた.

 

横から.

RCの桁もだいぶ見えるようになった.2枚目に写っている下流側は,コンクリートが剥がれて鉄筋が露出しているなど,経年なりの傷みもみられる.

 

さらに30分ほどかけて,橋上に残っている雑草や堆積した土を可能な限り除去した.それと同時に,橋周辺に投棄されたゴミを拾った.いずれも業者ではなく個人のポイ捨てのようで,さほど多くはなかったのが幸いだった.そうしているうちに真っ暗になったので,荷物を全て片付けて車に戻った.時間があれば鹿瀬洞を再訪しようと思っていたが,それは叶わなかった.

調査

現地でみたように,荒滝橋は昭和2年 (1937) に竣工している.ただし原坂峠を越える車道自体は,明治39年 (1906) の鹿瀬洞によって開通したはずだ.では,昭和2年より前は,どのような道だったのか.郷土史等をあたってみたが,規模の小ささゆえか,本橋について言及している資料を見つけることはできなかった.仕方がないので,昭和2年の前後の地形図を取り寄せて調査した.

 

結論から先に書くと,荒滝橋から少し下流側の位置に先代の橋が存在した

上から順に,

  1. 昭和8年 (1933) 測量の五万分の一地形図「御坊」(内務省地理調査所発行)
  2. 明治44年 (1911) 測量の五万分の一地形図「御坊」 (大日本帝国陸地測量部発行)

からの抜粋である.今回発掘した荒滝橋の位置は1枚目に注釈を入れてある.

 

並べてみると,「ひ」の字で深い谷を迂回するという道筋はそのままだが,道の形状は大きく変わっている.昭和8年の道は谷沿いに長く東に下ったのち,荒滝橋で対岸に渡り,北西に登って峠道に差し掛かっている.一方,明治44年の道は最低限の迂回のみをし,早々に大谷川を渡って対岸の峠道に入っている.一瞬「地図のスケールが違うのか!?」と思ったが,どちらも五万分の一地形図であるし,道路以外の等高線はぴたりと一致するので,やはり道自体にこのような変化が生じたのだ.

 

道替えの要因は急峻な勾配と線形の問題であろう.大正末期以降の事業だから,自動車や軍用車両の通行を考慮していたことは間違いない.線形や勾配の改良が必要となって,今の県道ルートに近い,緩やかに登る旧道が造られたのだ.荒滝橋はその事業の一部として架けられたと考えられる.

 

また,明治44年の地形図にも大谷川に架かる橋が描かれており,上図では (旧) 荒滝橋の名称を付与している.おそらく木橋だったとは思うが,どのような橋だったのか,気になるところだ.

おわりに

和歌山県道176号井関御坊線の旧道上の荒滝橋を「発掘」した.1日半を費やしたが,なにぶん未経験者が一人で進めた作業なので,完璧には程遠い.たぶん5年後には元の木阿弥となっているだろう.要は自己満足である.

 

こちらは2022年5月末に再訪した際の写真.「発掘」から4ヶ月ほどしか経っていないが,すでに藪の侵食が始まっている.やはりこういう作業は素人普請では不十分だ.現役で使われている道なのだから,できれば道路管理者 (日高町?) にきちんと維持管理してもらいたい.

 

せっかく発掘したので採寸もしておいた.橋長は,高欄のひし形窓を囲む八角形の幅が27寸,それらの間隔が6寸,窓の数が8だったので,高欄全体の長さ (≈橋長) を計算すると258寸,すなわち約7.8mであった.幅員,これは私一人ではコンベックスが折れ曲がってしまうので正確な採寸が困難だったが,4~5mほどあるようだった.昭和2年という時代を考えると大きな幅員は,県道熊野街道の重要性と,前後を急カーブに挟まれていることによると思われる.ちなみに高欄の高さは25寸 (約76cm) で,当然ながら現行基準の1.1mよりも背が低い.

 

現道のボックスカルバート (写真) の開通時期は定かではないが,昭和51年 (1976年) の航空写真には写っていないため,それ以降であることは間違いない.2車線幅の新鹿ヶ瀬トンネル (平成11年開通) と同時期かもしれない.いずれにしても,旧橋が開通から半世紀以上にわたって熊野街道の交通を支え続けた橋であることは間違いない.小規模ながら近代化に貢献した土木遺産として,もう少し大事にしてあげてほしいと思う.もっとも,明治の鹿瀬洞ですらあの状態なのだから,望むべくもないのかもしれないが.

*1:ちなみに左上で北に伸びている白線道が鹿ヶ瀬峠に通じる古道である.