交通遺産をめぐる

関西を中心に隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

鹿瀬洞【後編】(2021. 9. 5.)

前編より続く.

 

明治熊野街道「津木回り新道」の鹿瀬洞 (鹿ヶ瀬隧道) に通じる旧道のうち,東側 (大阪側) を前編でレポートした.続いて,西側 (熊野側) にアプローチする.鹿瀬洞は封鎖されていて通り抜けできないので,新トンネルで反対側に回り込む.

目次

新鹿ヶ瀬トンネル

新トンネルは平成のトンネルであるから特段の面白みはなく,車だとあっという間に通過してしまう.この日は写真も撮らなかった.以下は別日に再訪し,歩いて通り抜けたときの写真.

内部の景.線形は曲線となっている.

 

東口付近の振返り.

 

内部には町境であることを示す看板.ここは明治時代から有田郡と日高郡の境界であった.

 

西口付近.

 

脱出して振返り.新鹿ヶ瀬トンネル (西口),平成11年 (1999年) 竣工.意匠は東口と同様.

 

西口付近で野生の鹿を見付けた.文字通りの意味でも「鹿ヶ瀬」と言えるのかもしれない.どうでもいいことだが.

 

なお,新トンネル西口から150mほどのところで,路肩の下に不思議な光景が見える.

写真は振返って撮影した.いま通過してきたトンネルは奥の山塊を貫いているが,そこに向かう現道に,舗装と白線を有する新しげな道路が踏みつけられている.

 

現地では正体がわからなかったが,おなじみ「旧道俱樂部」1 さまの記事を見てみると,2006年当時はまだ現道が「未完成」で,西側 (写真より手前) から峠道を登ってくると,

新トンネルへのおかしな道形ーーー2車線トンネルを抜けて陸橋を渡る計画らしいのだが、それがまだ出来ていないためにトンネル前まで「下らなければ」ならない

といった状況だったらしい.踏みつけられているのは,おそらく当時の「おかしな道形」か,そこから分岐する道の一部だったのだろう.

鹿瀬洞・西口

前置きが長くなったが,続いて本題の鹿瀬洞の西側にアプローチする.現在地は新トンネル西口を出て200mの場所.

ここで左から旧道が合流する.もちろん私はその旧道に入り,東に戻る.しかし,どこまで車で進めるのかについては把握していなかった.

 

とりあえず行けるところまで行こう,と思って旧道に入った次の瞬間,急停止.

旧道は入口からチェーンで封鎖されていた.スピードを落としていたので停止できたが,危うく突っ込んでしまうところだった.そんなことになったら目も当てられない.

 

仕方がないのでここで車を降りて徒歩に切り替える.後から考えればこんな入口ど真ん中に駐車したのはまずかったと思っている.たまたま特に問題にならなかったが,車を離れている間に関係者が来る可能性を考え,もっと邪魔にならない場所に動かしておくべきだった.反省.

 

また東側のようなジャングルが現れるのではないかとヒヤヒヤしながら進む.こちら側の旧道は距離が長い上に,沿道に集落も農地もなさそうなので,もっと荒れている可能性があると思っていた.

 

だが,それは杞憂だった.

どれだけ歩いても舗装は途切れず,地図通りの一本道が続いていた.ところどころ落ち葉が積もっていたり,舗装の割れ目から草が顔を出していたりはしたものの,徒歩進軍に支障を及ぼすものはない.チェーンゲートさえなければ車を乗り入れることも可能だったはずだ.

 

旧道に入ってから5分足らずで所謂「ヘキサ」が現れた.先人の記録で予習していた通りである.

 

この「ヘキサ」の脇に,真新しい現在地標識が寝かされている.

これと同じものは新トンネルの東口にも設置されていた (写真).しかしストリートビューを見ると,新トンネル脇の標識は,2014年1月時点では設置されていない.したがって旧道上の標識が置かれたのもそれより後と思われるが,既に隧道は封鎖され,旧道の通り抜けはできなくなっていたはずだ.どうしてそんな旧道上に設置したのだろう?まさか旧道を復活させる機運でもあったのだろうか?寝かせてあることも含めて意味深だが,事情は定かではない.

 

「ヘキサ」から50mも行かないうちに……

鹿瀬洞,西口である.東口と違って呆気なく到達した.しかし日当たりが良すぎるのだろう,坑門全体がクズ藪に覆われてしまっている.

 

見上げて.扁額もあるように見えるのだが,内容の読み取りはもはや不可能だ.

 

ピラスター下部の水切り.この部分のみ辛うじて立派な石積みを視認できる.

 

例によって坑口はフェンスで塞がれている.仕方がないのでその隙間から中を望む.

坑口付近の煉瓦巻き区間は東側よりも長く,なかなか壮観だ.

鹿瀬洞・内部探索

さてさて,フェンスで封鎖されているからこれ以上探索の余地はない.そう思っていたのだが,左下を見てみると…?

ん?

 

入口から見える範囲に崩落はない.歩くのが困難なほどの水たまりもない.照明は落下したり落ちかけたりしているが,真下に立たないように気を付ければ大丈夫だろう.浮浪者や熊のような「住人」が居る気配もないし,蜂の巣もなさそうだ.というわけで,無事に脱出できると確信した上で,縦横それぞれ50cmくらいの開口部から失礼させていだいた.

 

それにしても何の扉だったのだろう?フェンスの破れを塞ぐための金網ならば,四隅を留めて固定すればよいはずだが,そうはなっていなかった.人の出入りが想定されていたことは確かだと思う.たまには点検が入っているのだろうか?先ほどの「現在地」の標識と合わせて考えると,一度は隧道を復活させる機運があって,その調査や整備のために入口を設けたのではないか,という楽しい想像もできる.まぁ,趣味者が勝手に穴を開けた可能性もあるが….

 

しかし,この「扉」のおかげで内部探索ができたのだ.下手な詮索はやめることにしよう.藪蛇になるのも好ましくない.

 

外から見た通り,しばらく煉瓦アーチが続く.側壁から拱頂部に至るまで煉瓦の欠けや補修痕は認められない.照明器具だけは床に落ちているが,これは後付けなので,隧道そのものの状態とは無関係だ.

 

外からは判然としなかったが,こちらも坑口の拱頂部に美しい要石が掲げられている.

 

アーチは長手積み,側壁はイギリス積みとなっている.同じ和歌山県内の煉瓦隧道である由良洞 (明治22年竣工) や (旧) 池田隧道 (明治19年竣工) は,側壁も含めて長手積みであった.イギリス積みは奥行き方向の嚙み合わせが生じる分,長手積みよりも強度が優れるとされており (諸説あり),現存する煉瓦隧道のほとんどは,本隧道と同じくイギリス積みの側壁を有している.由良洞や (旧) 池田隧道の完成から本隧道が造られるまでのおよそ20年の間に,隧道技術のスタンダードが確立されたということであろう.

 

煉瓦区間の振返り.息を呑むほどに美しい光景だ.

 

※この先の写真には不快害虫 (主にカマドウマ) が写っています.私が気付いた限りでモザイク処理をしていますが,漏れもあるかもしれません.ご注意願います.

 

再び正面を向く.しばらく進むと煉瓦巻きが途切れ,モルタルの吹付けられた素掘りとなる.

ここはまだ外光が届く.午後の日差しが素掘りの模様をくっきり浮かび上がらせた.

 

煉瓦区間と素掘り区間の「継ぎ目」も注目に値する.

煉瓦部分の末端を振り返って撮影した.巻き厚は3層.前編で見た通り,東側坑口付近は4層巻きであったので,地質に応じてよく研究・工夫されているということだ.覆工と岩盤の隙間は横積みの煉瓦で丁寧に埋められている.

 

側壁部分の境界は,煉瓦や素掘り岩盤のカドが出ないように,斜めに煉瓦を積んで凹みを埋めてある.おそらく人車,特に真っ暗な隧道を壁伝いに歩く歩行者が衝突するのを防ぐためだろう.あまり他所ではみかけない丁寧な仕事である.

 

さて,素掘り区間に進む.

こちらも崩落は認められない.先の注意書きにも書いたが,カマドウマは素掘り区間に集中しているようであった.スベスベの煉瓦よりゴツゴツした素掘りの方が居心地が良いのかもしれない.

 

先に進む.

ほどなく煉瓦巻立てが復活する.その先はまた素掘りとなる.隧道全体の覆工は (西口 ←) 煉瓦・素・煉瓦 (現在地)・素・煉瓦 (→ 東口) の構成となっている.

 

吹付けのモルタルが被っていてわかりにくいが,中央の煉瓦区間の巻き厚は1層だけである.ここは比較的地質が良かったということか.実際それで崩れていないのだから大した設計だ.

 

東に進むと再び素掘りとなる.東口はもうすぐだ.

これは中央の煉瓦区間と東側の素掘り区間の境界.例によって隙間が煉瓦で埋められている.側壁部分 (1枚目) はこの短い幅でもきちんとイギリス積みにしているのが律儀.

 

さらに進む.

東側の素掘り区間は,吹付工がかなり傷んでいる.前編で外から見たような著しい漏水の影響であろう.路面も濡れている.まだ崩落には至っていないが,隧道廃止の最大の要因かもしれない.

 

そして,最後の短い煉瓦区間と,約束された終点.

ここからは出られないが,フェンスの向こうは前編でみた景色である.ジャングルの中にポツンと立つカーブミラーには見覚えがある.

 

東口付近の煉瓦積み.

 

踏破完了の証として,フェンスにタッチして引き返した.上はその地点から振返っての景.もう一度真っ暗な隧道を通り,例の「扉」から無事脱出した.

おわりに

明治期に和歌山県道に指定された熊野街道.二度に渡る大改修の末に生まれた鹿瀬洞 (鹿ヶ瀬隧道) を訪ねた.明治39年 (1906年) に開通したこの隧道は,竣工から110年余,放棄されてから10年余を経た現在も,驚くほどに良好な状態を保っていた.内部には崩落も大きな補修痕も認められず,廃隧道にありがちな不法投棄も落書きも皆無だった.コウモリも蜂も居なかったし,カマドウマだけは居たけれど,壁にへばりついているだけだったので,特に害はなかった.

 

ところで,現在の西側坑門はこの写真のように藪に覆われ,本来の姿が想像困難となっていた.Web検索でヒットする現役時代の写真でも,既にそれに近い状態だったようだ.このことについて,大正初期の綺麗な状態の西口を撮影した古写真が「目で見る御坊・日高の100年」2 に掲載されているのを見つけたので,引用して報告の締めくくりとさせていただくことにする.

参考文献

  1. nagajis (2007) "旧道倶樂部活動報告書・鹿瀬洞" 2022年6月14日閲覧.
  2. 小山豊・監 (1993) "目で見る御坊・日高の100年" p. 46,郷土出版社.