交通遺産をめぐる

関西を中心に隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

由良洞 (2021. 9. 5. / 2022. 5. 29.)

鹿ヶ瀬峠越えに代わる明治熊野街道・由良回り新道のハイライト.現役最古級にして個性的な造りを留める煉瓦隧道を訪ねた.以前記事にした速報の正式版.

目次

歴史

開通の経緯

由良洞は,和歌山県由良町の切貫峠を潜る,国道42号の旧道の隧道である.

 

開通の経緯は鹿瀬洞の記事でも触れた.古くから和歌山市と熊野を結んでいた熊野街道 (熊野古道) は,廃藩置県ののち,県道「和歌山新宮線」に指定されたが,有田郡と日高郡の境に鹿ヶ瀬峠という難所を有しており,車両どころか人馬の通行すら困難なほど急峻狭隘な道であった.

鹿瀬洞の記事でも用いたこの図は「日本の廃道」150号 1 のp.100から引用させていただいている.図の黒色が県道指定当初,つまり藩政期から受け継がれてきた,鹿ヶ瀬峠を含む熊野街道である.

 

由良回り新道は,熊野街道に対する最初の近代的な道路改修として造られた,鹿ヶ瀬峠を迂回する道である.上図で赤色の線で描かれているように,広川で古道と別れて西に転進し,古くからの港町である由良を経由したのち, 南下して萩原村東光寺で古道と合流する 2熊野街道の通らない由良の人々が,地域の発展を願って熱心に運動した結果であるとされる.工事は明治20年 (1887) 5月23日に着手され,地元住民の奉仕や寄付もあって,明治22年 (1889) 1月に竣工,同年3月に開通式が挙行された 3.同年,県道和歌山新宮線はこの新道に移されることになる.

 

由良は南と東を山,北と西を海に囲まれた町であり,陸路で通過するにはどうしても2回の山越えが必要となる.由良回り新道は,由良の東で水越峠,南で切貫峠を通ることとなり,後者には新道のハイライトにして随一の難工事であった隧道・由良洞が造られた.

 

明治41年 (1908) 発行の「日高名勝記」4 に口絵として掲載された,当時の由良洞.解像度は粗いが,大きな扁額を有する立派な煉瓦坑門である.ただし後述のように,この姿は戦後の改築によって失われている.

開通後の変遷

大きな期待を背負った由良回り新道であったが,水越峠と由良洞周辺に急峻な坂路を有する遠回りの道であったため,地元住民はともかく通過交通には不向きであった.結局,明治39年 (1906) には津木村から鹿ヶ瀬峠の南隣の原坂峠を鹿瀬洞で越える津木回り新道が開かれ (上図の緑色の線),県道指定もそちらに移された.由良回り新道はわずか20年足らずで「廃道に近い」状態となったのである 2

 

大正期に入ると,由良洞は由良港へのアクセス路として再び脚光を浴びることとなる.大正8年 (1919) の道路法公布に際し,御坊町から東内原村,西内原村を経て由良に至る1里25町17間 (約6.69km) の和歌山県道「御坊由良線*1 の一部に認定されたのだ 2.この頃の御坊は,大川英太郎 (渋沢栄一の甥) が設立した日の出紡織をはじめとして,日高製材所,日高川水力電気株式会社などが軒を連ねる産業都市となっていた.そこと外港を結ぶ道路が必要とされたことは想像に難くない.御坊にも日高港という港があるが,昭和50年代に改修されるまでは水深が浅く,小型船しか入港できなかったそうだ.

 

戦争たけなわな昭和20年 (1945) 1月,津木・鹿瀬洞経由の県道和歌山新宮線は国道41号・和歌山松阪線に昇格した.さらに戦後の昭和33年 (1958) には一級国道となり,以降は国の手で道路拡幅や舗装などの改修工事が実施された.面白くないのは由良の人々で,その間,国道を由良回りに奪還するための誘致運動を活発におこなった.当然のごとく国道を有する日高町側は猛反対で,特に鹿瀬洞西口にあたる原谷地区では,「かつて水田を犠牲にしてまで熊野街道を通したのに」という声も上がったという.しかし,結果的には由良回りへの換線が認められることになり,昭和36年 (1961) 頃から測量と用地買収が開始され,38年に着工,40年に「由良バイパス」として開通した 2

 

新国道の由良バイパスは,基本的には由良洞経由の旧県道を拡幅・線形改良したものだが,かつて鹿瀬洞への換線のきっかけとなった水越峠,そして由良洞のある切貫峠は大規模に改築された.すなわち前者には水越隧道が,後者には里隧道と由良隧道が新たに造られた 2.これら3本の隧道を含む道が,現在の国道42号となっている.由良洞は再び旧道となり,現在に至る.

現状

鹿瀬洞と由良隧道によって「二度」旧道となった由良洞だが,引き続き地元の需要があるのか,和歌山県道23号御坊湯浅線に指定され,現在に至るまで現役で利用されている.現役の道路用煉瓦隧道としては最古級であり,土木学会による近代土木遺産調査ではA級の土木遺産に認定されている 5

 

しかしながら,本隧道は道路設備としての健全性も,土木遺産としての保存状態も,決して良好とは言い難い.次節から2021年9月5日および2022年5月29日の現地探訪の結果を報告するが,特に2度目の訪問時,隧道に好ましからざる大改築が施されていたことは速報で記した通りである.それでも,現役であること自体の価値は大きいし,洞内には,隧道建設の黎明期らしい造りを留めている.

第1次探訪 (2021. 9. 5.)

この日は午後から鹿瀬洞を初めて訪問したのち,県道176号を日高町側に下った.途中にある旧道上の荒滝橋が藪に埋もれていたのは当該記事で述べた通り.そこから麓まで下り,国道42号現道に合流する直前で右折すると,由良洞を擁する県道23号となる.

 

日高町池田の集落を抜ける.写真左のお宅の屋根が低い位置にあることからわかるように,既に上り坂が始まっている.

 

徐々に道が荒れてくる.勾配もややきついし幅員も狭い.この手の悪路に慣れておいてよかったと思う.

 

待避所はほとんどない.ところどころ広い部分もあるのだが,4輪車1台分の幅以外は落石に埋もれていたり舗装が剥がれていたりで,待避には使いにくい状況だった.とはいえ,二度にわたる訪問で他の車に出会うことは一度もなかった.

 

池田集落から上ることおよそ2km.

到着だ!

 

駐車するには微妙なスペースしかないが,後続車も対向車も来る気配もないので,いったん車を降りて観察.

由良洞明治22年 (1889) 竣工,延長138.4m,幅員3.35m,近代土木遺産Aランク 5.上部が草木によって破壊されかけているが,美しい煉瓦坑門を留めていた.

 

近景.坑門工は装飾的で,「日本の近代土木遺産5

全面に鳥居形の陽刻

と記されているように,全て煉瓦造りのピラスターと帯石・笠石が「⛩︎」のような形を成している.

 

アーチ環.巻き厚は3で,拱頂部には大きな白御影の要石を配する.

 

内部は煉瓦アーチ.後ほど詳述するが,側壁も長手積みで造られているのが珍しい.

 

坑口付近に大きな亀裂が確認できる.古い隧道,特に煉瓦や石などの組積アーチではよくあることとはいえ,不吉な兆候だ.

 

さすがに車で道を塞いだまま内部探索をする気にはなれなかったので,いったん車に戻り,反対側 (大阪側) に抜けることにする.

入洞直後,私はすこぶる残念な気持ちになった.写真奥に,不自然な水色が見えると思う.直視しがたいほど大規模な落書きである.100年以上前,大型重機もなく技術も確立されていない中で,何人もの先人が命がけの苦労の末に造り上げた構造物に対する破壊行為である.

 

洞内は場所によって煉瓦アーチであったり素掘りであったりする.地質によって素掘りと煉瓦を使い分ける構成は,後に鹿瀬洞でも採用されている.素掘り区間は,この時はまだ吹付けすらされておらず岩盤が露出していた.

 

通り抜けて車を停め,振返る.

由良洞北口.よく知られているように,北口 (大阪側) の坑門は昭和50年代に,味気ないコンクリートで改築されてしまっている 3

 

本来ならばここで洞内に戻って内部を観察すつもりだったのだが,落書きを目にしてすっかり心が沈んでしまった私は,結局上の写真だけ撮って現地を後にした.

第2次探訪 (2022. 5. 29.)

約8ヶ月が経過した翌年5月29日,再訪を果たした.前回と同じく熊野側から隘路を登っていった.相変わらず狭いなァと思いながら,最後の右カーブを曲がると……

 

 

 

 

えっ………

 

 

 

 

 

言葉を失った.既に速報記事で報告した通りだが,南口坑門は改築されていた.煉瓦積みも,「鳥居状の陽刻」も,立派な要石も失われ,一切の装飾を排した無機質なコンクリート壁だけがそこにあった.

 

改築の必要があったことには納得がゆく.長年に渡る地圧と草木の侵食によって,かつての坑門は崩れかけであった.危険を防止しながら現役で使い続けるには,見て見ぬ振りをするわけにはいかなかったのだろう.むしろ,廃止しなかったことをありがたく思うべきかもしれない.

 

しかし……この改築の仕方はどうなのか.日高郡のみならず和歌山県南部の近代化を支え続けてきた隧道であるとともに,明治20年代という,隧道の黎明期らしい凝った装飾を今に伝える土木遺産としての価値も高かったはずだ.コンクリート造りにするとしても,アーチ環や冠木門風の風格ある装飾を加えるとか,せめて煉瓦を模したタイルを貼るとか……税金の無駄と言われれば反論はできないが.しかし,現代でも旧隧道の意匠を受け継いだトンネルはあるのだから (代表例は鈴鹿隧道,後日レポート予定の北九州市の新桜トンネルなど),もう少し気を遣えなかったのかと思う.

 

もうひとつ残念なことがあった.坑口付近の水たまりである.前回も多少水は溜まっていたものの,路面の中央付近を歩けば問題ない程度だった.それが今回はこうだ.

写真ではわかりにくいが,目測5cm〜10cmほどの深さの水が,路面の左から右までなみなみと蓄えられていた.廃隧道が水没するのは珍しくないが,現役の隧道,それも県道でこんな状況を目にするとは思わなかった.車はともかく,ここを通ろうとする歩行者は困ったことになるはずだ.まァ歩行者など皆無な道ではあるのだが.

 

ちなみに前回見た坑口付近の亀裂がなくなっているが,坑門と一緒にその部分の煉瓦も剥がし,コンクリートで巻き立ててしまったようだった.

 

とりあえず車に戻って内部へ.水没区間の長さはおよそ10mほどだったので,車での突端は容易だった.例の落書きは残っており,また嫌な気分になった.ともかく北口に抜け,右手側の空き地に駐車させてもらう.前回は落書きのせいで気分が萎えてしまったが,今回はきちんと内部も観察する.

 

前回見たのと同じく改築されて久しい由良洞北口.かつての坑門にはこの写真のように「由良洞」と大書した題額が掲げられていたが,昭和50年代の改築の際に行方不明になったそうだ 3.勿体ないことこの上ない.どうにも保存に恵まれない隧道である.

 

なお,その「由良洞」を揮毫した人物は,「和歌山県の近代化遺産」3 は地元出身で,日本における馬車の先駆けとして知られる由良守応であったとしているが,「日高名勝記」4 には当時の和歌山県知事・松本鼎と記されている.

 

北口から内部へ.最初の1mほどは坑門と一体化したコンクリートアーチだが,その先は美しい煉瓦アーチが広がる.幸いこちら側にはさほど水は溜まっていない.

 

内部の煉瓦は側壁も含めて長手積み.本隧道に代わって造られた鹿瀬洞を含む大半の煉瓦隧道では,アーチはともかく側壁部分には強度に優れるとされるイギリス積み (長手の段と小口の段を交互に積む) を採用しているので珍しい.積み方としては長手積みの方が単純なので,スタンダードな技術が定着する前の黎明期らしいつくりと言えるかもしれない.いずれにしても,長手積みでも今まで崩れていないのだから,十分な強度を有していることは間違いない.

 

ちなみに,同じ和歌山県にあり,国内現存最古の道路用煉瓦隧道である (旧) 池田隧道 (後日レポート予定) も,アーチ環の下部から上部まで長手積みが採用されている.(旧) 池田隧道は本隧道の3年前である明治19年 (1886) に開通している.

 

もうひとつ面白いことに,北口付近の煉瓦積みでは,一番下の段が煉瓦ではなく切石となっている.強度を向上させるための工夫なのか,それとも美観的理由かはわからない.

 

礎石の端点.高さが煉瓦2個分なので,その先に煉瓦の芋目地が生じないように小口が挟まれている.

 

北口を振返って.美しいアーチ組積が続く.

 

北側の煉瓦区間の先は素掘り.モルタルが吹付けられているが,前回探訪時には素掘りの岩盤がそのまま露出していたので,南口ポータルの改築と同時に施工されたものと思われる.だったらついでに落書きも消しておいてくれればよかったのに.

 

煉瓦区間の振返り.境界部分にもモルタルが塗られ,巻き厚が確認できないようになってしまった.

 

素掘り区間の先は短い煉瓦巻立て.ここも吹付けモルタルが侵食しているせいで煉瓦の断面が視認できない.素掘りの吹付けでも,鹿瀬洞くらい丁寧に施工してくれれば巻き厚が確認できたのに.

 

続く素掘り区間の先で再び煉瓦が復活.ここに例の落書きがある.許しがたい破壊行為.

 

南口が見えてきた.

 

煉瓦区間の一部では,側壁と呼べるものがなく,煉瓦は岩盤の上に直接積まれている.少しでも煉瓦を節約したかったのか,それともどうしても岩盤が削れなかったのか.

 

ほどなく,例の水没区間.現役の道路トンネルに存在していい水たまりではないだろう.素掘り区間は吹付けがなされているので,漏水は煉瓦区間からと思われるが,だとすれば煉瓦区間もそのうち改築されてしまうかもしれない.

 

足を濡らしたくはなかったのでここで引き返した.到着から20分ほどが経過していたが,他の車は一度も現れなかった.現役の車道 (しかも県道) でありながら内部をこれほどゆっくり観察できる隧道はなかなかない.

まとめ

和歌山県道23号御坊湯浅線の由良洞を訪ねた.熊野街道の最難所たる鹿ヶ瀬峠に代わる「由良回り新道」の一部として,明治22年 (1889),由良の南に造られた隧道である.道路用としては最初期の煉瓦隧道であり,現役のものとしては最古級とされる.

 

実際に訪ねてみると,隧道内部の造りには興味深いものがあった.構造は両側坑口付近と中間付近が煉瓦アーチで,それ以外の2箇所が素掘りとなっていた.煉瓦区間には一般的なイギリス積みが用いられておらず,アーチ頂部から基部に至るまで単純な長手積みで,坑口付近では切石製の礎石が設けられていた.中間部の煉瓦区間には側壁と呼ぶべき部分がなく,岩盤の上に直接煉瓦が積まれていた.素掘り区間は,長らく岩盤がそのまま露出していたが,令和4年 (2022) 初頭にモルタル吹付けが施工された.

 

本隧道の保存状態は良好とは言い難い.隧道の「顔」と言うべき坑門は,北口 (大阪側) が昭和50年代に改築されており,その際に「由良洞」と刻んだ扁額も行方不明になったとされる.南口 (熊野側) は,草木の侵食によって半ば崩れかけながらも長らく原型を留めていたが,令和4年 (2022) 初頭頃,ついに改築されてしまった.結果として,現在の由良洞の坑門は,両側とも無機質・無個性な壁面と化してしまった.内部も漏水が多く,特に二度目の訪問時には,南口付近に徒歩での通り抜けを断念させるほど大きな水たまりができていた.また大変情けないことに,愚か者による落書きも目立つ.

 

由良回り新道は,本隧道付近と水越峠に急坂を有する遠回りの道であったため,およそ20年後,鹿瀬洞経由の「津木回り新道」に取って代わられた.当該記事で報告したように,鹿瀬洞は新トンネルの開通によって廃止・封鎖されたが,それゆえに保存状態は非常に良好であった.かたや由良洞は,現役であるがゆえに,美観を無視した改築や落書きの憂き目に遭っている.あまりに残酷な対比だと思う.

参考文献

  1. nagajis (2018) "由良洞と鹿瀬洞" 日本の廃道,第150号「定点観測」,pp. 99-147,日本の廃道編集部,2022年6月10日閲覧.
  2. 由良町編集委員会・編 (1991) "由良町誌" 通史編下巻,pp. 15-21,由良町
  3. 和歌山県教育庁・編 (2007) "和歌山県の近代化遺産 : 和歌山県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" p. 108,和歌山県教育庁
  4. 木村紫星・編 (1908) "日高名勝記" 口絵 / p. 22,廣文舍,2022年8月5日閲覧.
  5. 土木学会土木史研究委員会・編 (2006) "和歌山県 - 日本の近代土木遺産" 2022年8月5日閲覧.

*1:現在の主要地方道御坊由良線とは異なる.