交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

由良町の玉石橋 (2021. 9. 5.)

和歌山県由良町の古くからの集落に架かる,小規模ながら魅力ある旧橋を訪ねた.

 

由良洞の第1次探訪を終えたこの日,最後の目的地として,同じ由良町内に残る戦前架設の「玉石橋」を訪ねることにした.

 

由良洞を擁する旧道 (和歌山県道23号) から国道42号現道に抜け,湯浅方面へ.紀伊由良駅前を過ぎてから約1.5km地点の交差点を左折.この交差点の手前に「玉石信号」というバス停があるが,信号にはその名前は記されていなかった.道路管理上の名称ではなく通称ということか.ちなみに「玉石」は近くにある長谷寺という禅寺の伝説に由来するようだ.

3 長谷寺

禅宗妙心寺派のこの寺は、鎌倉時代法燈国師(覚心)が正応四年(一二九一年)に開基されたもので、国師が西方寺=興国寺で説法中、三日前に五戒を授けられた竜女がお礼に玉をこの地に降らしたといわれ、落ちた場所へ鎮守として、弁財天神を祀り、奈良の長谷寺と同形の観音像を本尊として寺を建立したいわれがあり、玉石と親しまれています。

「由良町文化財説明板所在地図」より.

 

その玉石信号から,コンクリート舗装された細道に入ると,ほどなくして集落内の小川を渡る.そこに架かる橋が玉石橋である.場所は [33.97569324039082, 135.14321000217743].

いったん東詰に抜け,少し先の三叉路で方向転換してから,橋の東詰の少し広い路肩に車を停めた.

 

東側からの景.単径間の短い橋である.

 

本橋を訪ねた理由のひとつはこの高欄.昭和初期に典型的な,アーチ形の窓を連ねた意匠が私は大好きだ.

 

そして,本橋で最も注目すべきは親柱である.

向かって左手 (南東側) には,朗々とした「昭和十年五月竣成」の額とともに,工事関係者一覧を刻んだ銘板が掲げられているのだ.

 

工事関係者

區長 笹裏榮藏

副區長 山口廣楠

村會議貟 小川雅一

仝    硲間好雄

區會議貟 中家弥七

仝    岡井熊二郎

仝    木下繁太郎

工事請負人 峐山松次郎

 

このような銘板は,大規模な土木工事を必要とする長大橋には時折みられるが (十三大橋など),本橋のような小規模な橋に取り付けられることは稀である.現代の感覚からすればありふれたコンクリート橋であっても,当時の地元集落にとっては非常に重要な存在であったことを示しているといえるだろう.また,「昭和十年五月竣成」の「竣成」の意味は「竣工」と同じだが,一部の辞書には「大規模な建築物などができ上がること」と記されている.こちらもやはり地区にとっての一大事業であったことを感じさせる.さらに,それら銘板が戦時中に供出されたりすることなく,綺麗な状態で現存していることにも大きな価値がある.

 

右 (北東側) の親柱には「たまいしばし」と刻んだ銘板を掲げる.

 

渡って対岸へ.

 

左 (北西側) の親柱には「由良川」.私など由良川と聞くと丹後地方の大河が思い浮かんでしまうが,この小さな川も由良川らしい.

 

こちらの親柱で注目に値するのは,路上側の面である.

なんとここには,寄附者芳名を刻んだ銘板が掲げてある.

寄附者芳名いろは順

 小浦喜多次

 西保仲吉

 東本美三郎

 森口直次郎

繰り返しになるが,この規模の橋でこうした銘板が取り付けられるのは異例のことだ.そもそも現代の感覚からすると,寄附が必要とは思えないほどの長さである.それが今から約90年前,道路が必ずしも当たり前には整備されていなかった時代ということだろうか.いずれにしても,自らの懐を痛めてまで永久橋を架けようと運動した地元住民がいたと想像すると,なかなか心に来るものがある.

 

残り1基は南西側だが,銘板は失われていた.他の3基の内容を考えると,「玉石橋」と刻まれていた可能性が高い.

 

横から見てみる.単径間のRC桁橋で,高欄も含めよく旧状を留めている.川幅の割にやや谷が深く,そのあたりが地区にとっての大事業となった要因のひとつかもしれない.

 

最後にちょっとした考察を.玉石橋は,以前荒滝橋の調査のために取り寄せた旧版地図の範囲に含まれていた.

左が最新の地理院地図,右が明治44年 (1911) 測量の五万分の一地形図「御坊」からの抜粋.明治44年時点で,現在の玉石橋と同じ位置に橋の記号が描かれており,初架の時期は遅くともそれ以前であったことがわかる.いずれも大通りと集落を結ぶ細道の上に位置するが,明治44年当時の「大通り」は由良洞に通じる旧熊野街道 (由良回り新道) で,それが拡幅・改修されて現在の国道42号となっている.

 

明治44年当時の橋の情報は現時点では得られていないが,時代を考えれば間違いなく木橋だったものと思う.それが流されたか老朽化したかで使い物にならなくなり,昭和10年 (1935) に永久橋として現在の玉石橋が架けられたということであろう.よくあるストーリーではあるのだが,地区にとっては一大事業で,地元住民が自らの懐を痛めるような場面もあったことは,現地の銘板に見た通りである.

 

なお,そんな一大事業であったはずの本橋だが,調べた限りでは,由良町誌をはじめとする郷土資料等では言及されていなかった.

 

本橋の状態は,管理者である由良町による平成28年 (2016) の点検結果では「健全」となっており,また幅員も前後の道路と比較して特段小さいわけでもない (狭いことは確かだが) ので,現在のところ架換えられる心配はなさそうだ.ただ,高欄は現行の基準 (歩行者も通行する部分なので「歩行者自転車用柵 」の1.1m以上) に照らせば低いものであり,改築されてしまう可能性は十分考えられる.その場合でも,工事関係者と寄附者の銘板を掲げる親柱だけは,地域の近代化を物語る生き証人として,残しておいてほしいと願う.