紀伊半島の山奥,悪路の先に鎮座する一級品の隧道を訪ねた.
目次
第一次探索 (2021. 8. 10.)
県土の8割を紀伊山地が占める和歌山県には,素晴らしい隧道が多数現存する.その中でも県南西部,白浜町と上富田町にまたがる山奥にある逸品が,今回レポートする (旧) 卒塔婆隧道だ.私にとってはこの趣味を始めた当初からの「憧れの存在」であり,満を持しての挑戦となった.
(旧) 卒塔婆隧道は旧道化した後も現役だが,そこに至る町道が旧県道とは思えないほど荒れているという噂であった.今回私は,カーシェアリングのハスラーを利用した.18cmの地上高を有し,少々の悪路なら越えられる軽自動車である.借り物の車で悪路に挑むのは褒められたことではないが,少しでも無理そうだと感じた時点で諦めようと決めていたし,実際に無傷で帰還できた.この日のために,相坂隧道や天辻隧道を訪ねた際にも同型の車を使っており,予行演習も万全だった.
車を借りた大阪府内から阪和道で南へ.お盆の帰省ラッシュに工事による車線規制が加わってひどく渋滞していた.上富田ICで流出.和歌山県に入ってから90km近く走ってきたのでさすがに遠い.朝来 (あっそ) バイパスのガソリンスタンドで念のため給油して,挑戦を開始した.
県道36号を東に進み,上富田町の字・生馬の東端近く,「篠原の水」の看板のところで旧道に入る.篠原の水というのはこの近くの湧水で,コイン式の給水器が設置されているらしい.
写真は旧道に入った直後の景.左の擁壁の上は現道だ.なぜか路面に砂利が散乱しているが,まだまだ悪路には程遠い.
旧道に入って300mほど進んだところに,分岐がある.
看板が示すように水汲み場は左.一方の旧県道は右である.直後に真新しい橋が見えるが,どうやら最近架換えられたらしい.2014年のストリートビューでは,同じ場所に低い高欄を有するいかにも古そうな橋が写っている.「生馬郷土史」1 によるとこの橋は篠原橋といい,旧橋は昭和4年 (1929年),私の目指す隧道に通じる道の建造と同時に架設されたものだった.もう少し早く訪ねていれば,と思わずにはいられない.
ともかく,その篠原橋を渡った先からが本格的な悪路となる.
まるで砂利道だが,一応舗装はされている.度重なる落石で砂利が積もり,それがきちんと掃除されていないのだ.
慎重に,慎重に車を進める.
写真では伝わりにくいが,曲がりくねった道を経てかなり高いところまで登ってきた.ガードレールや駒止めなどはないし,2014年のストリートビューとは違って,道路脇の杉林がすっかり伐採されていた.開放感はあるが,ハンドル操作を誤れば深い谷底まで真っ逆さまだ.
幅員は退避所を除けば,一番広いところでこのくらいだった.
ちょっと信じがたい話だが,昭和50年 (1975年) に (現) 卒塔婆隧道が開通するまで,ここをバスやトラックが行き交っていた.
旧道に入ってからおよそ15分が経過した.
気付けばこんなに高いところに居た.写真中央下に小さく写っているのが現道だ.
そして,最後の左カーブを曲がった先に……
私にとっての憧れの隧道が,静かに口を開けていた.
改めて,正対.
(旧) 卒塔婆隧道,昭和5年 (1930年) 竣工.コンクリートブロック (Cブロック) を丁寧に積んで造られた冠木門タイプの坑門が見事である.意匠自体は伝統的なものながら,Cブロック特有の明るいグレーの発色が美しい.
坑口付近で見上げて.
扁額には右書きの「卒塔婆隧道」に「昭和五年九月」の字が添えられている.アーチリングの最上部で目立たせてある要石風のブロックもまことに好ましい.
両脇には,
存在感たっぷりのピラスター.
さて,中に入ろう.
坑口付近は綺麗なCブロックアーチが続いている.坑道はまっすぐで,出口はすぐそこに見えている.
巻立てが終わると,
堅い岩盤をくり抜いた素掘りとなる.吹付けもなされておらず,豪快な印象だ.
反対側の坑口付近で,再び巻立てが復活する.
写真は振り返って撮影したもの.こちらもCブロックアーチである.
白浜町側に抜けたところが広くなっていたので,そこに車を停めて振り返り.
意匠は上富田側と同様だが,時期柄植生が激しく,全体を捉えにくい.
扁額には,
右書きで「百事得其道」.中国 (前漢) の説苑という説話集からの引用である.意味は考察するまでもないほど明瞭で,この隧道によって初めて開通した車道に対する期待の大きさが窺える.
旧道はこの先にも続き,山を下った先で現道と合流する.しかしこちら側は私の登ってきた上富田町側よりも段違いに荒れているという事前情報があったので,大人しく来た道を引き返した.慎重に慎重に坂を下り,現道に戻ってから「道の駅くちくまの」で休憩した.旧道に入ってから脱出するまで,一度たりとも対向車と出会わなかったのが幸いだった.
第二次探索 (2022. 1. 22.)
初訪問時から半年弱が過ぎた真冬のこの日,同じ車・同じルートで再訪した.道路状況に特段の変化はなかったように思う.相変わらず荒れていた.旧道入口から2.2kmの道のりを20分かかって登りきり,隧道を抜けた先に車を停めた.
改めて,正対.
(旧) 卒塔婆隧道,白浜町側坑門.前回よりはすっきりした印象の記録になったと思う.
扁額をアップで.
よく見ると「百事得其道」の左にも文字がある.「○○書」と読めるので揮毫した人物の署名に違いないが,肝心の名前は達筆すぎて私には判読が難しい.着工時の知事は友部泉蔵,竣工時の知事は蔵原敏捷だが,少なくとも両者の名前ではなさそうだ.だとすれば地元の村長だろうか.雅号などであればもっとわからない.
前回は主に坑門工に注目したが,今回は内部もしっかり観察するため,徒歩で入洞した.
坑口付近の巻立ては側壁が場所打ちコンクリート,アーチはCブロック.組積の部分も含めて大きな補修の跡もなく,保存状態は良好だ.
振り返ると,
ああ,美しい.
その先の素掘り区間も,見た目には堅牢で通行に不安はない.
岩盤の近景.
一枚岩と言って良いのかわからないが,いかにも堅そうだ.机上調査で述べるように,岩盤の掘削には火薬が用いられたそうだ.
吹付けも何もない,火薬で発破したままの歪な断面が続く景は圧巻の一言に尽きる.
続いて上富田町側の巻立て.
こちらも綺麗な姿を留めている.
断面を見てみると,
一番内側の層は普通に巻かれているのだが,その外側は岩盤との隙間を埋めるように縦に積んだり切り欠いたりしてある.意外と雑な印象だが,こういうものなのだろうか.
また,少し進んだところでは,ブロックの天井からの漏水が氷柱となっていた.
既に正午近くになっていたが,一向に溶ける気配はなかった.それほど標高の高い場所なのだ.路面が凍結していなかったのは幸いだったが,温暖な南紀地方だと侮ってノーマルタイヤで来たのは良くない選択だったのかもしれぬ.
そんなこんなで上富田町側に抜けて振り返り.
立派な姿は半年前と変わらない.
右を向くと,別の道が分岐している.
立地からは隧道以前の旧道が疑われるが,地形図を見ると山頂まで登ったところで途切れている.単なる作業道だろうか.
しばし堪能して車に戻った.帰り道は前回と同様,上富田町側に引き返すことにした.もう一度隧道を抜けて坂を下り始めたところで,登ってきた軽トラと鉢合わせした.こちらが素早くバックして,1枚上の写真にあった隧道手前の脇道に逃げると,相手は短くクラクションを鳴らして隧道の中に消えていった.(現) 卒塔婆隧道が開通してからおよそ50年が経つが,旧隧道は今でも地元の人々に必要とされている.そのことがわかって嬉しかった.
机上調査
朝来 (あっそ) から生馬を経て山奥の市鹿野 (川添村→日置川町→白浜町) に至る道筋は市鹿野往来と呼ばれ,古くから紀伊半島南西部の中心地である田辺と,西牟婁の奥地との間の人馬や物資の行き来に利用されてきた.近代になると,地元の生馬村・川添村によってこの往来を車道として改修する動きが運動が出始め,大正元年 (1912年) には生馬地内において牛車が通うようになった 2.この間,明治35年 (1902年) には往来が県道に編入されるも,同39年にはその資格が失われてしまい,村は住民から戸数割,地租割だけでなく荒地の反別割まで徴収して道の補修・改修に努めた 1.
一方,生馬より東の往来は
狭小な歩道で、橋もなく、飛石伝いに谷間を縫い、尾根を越えて、点在する部落を結んでいたもので、一度雨が降るとたちまち通行壮絶の状態
だった 1.特に村境を越えて隣の川添村玉伝に至る区間には,卒塔婆峠越えという難所が控えていた.峠名の由来は定かではないが,卒塔婆のように直立した険しい道という意味かもしれない.いずれにしても,峠道の改修は地元の努力だけではどうにもならず,物資の輸送は引き続き困難を極めていた.
大正9年 (1920年) の道路法施行により,道路は国道・県道・郡道・市道・町村道に区分されることとなった.これを受けて同11年,生馬・朝来・川添の三村長が連名で,市鹿野往来 (田辺川添線) を府県道に認定するよう県に請願し,翌12年に昇格が認められた 2.さらに13年には卒塔婆峠に車道を通すため,隧道を貫くことを再度請願した 2.
昭和に入ると,田辺川添線は産業道路として改修されることとなり,卒塔婆隧道の開鑿も決定した 2.昭和3年 (1928年),生馬村鳥渕から峠まで1200間 (約2.18km) の新道が建設された 2.これは今回私が辿った旧道部分に一致する.続いて卒塔婆峠の20m下を貫く卒塔婆隧道が昭和5年 (1930年) 3月1日に起工,同年9月30日に竣工した 3, 4.総工費は2万1431円,そのうち約6割にあたる1万2641円は火薬を用いた掘削が占めた 4.引き続き隧道南口から川原谷・小房地区の道路改修も行われ,市鹿野までの道路改修が完了をみた 2.
卒塔婆隧道を含む新道は,市鹿野・川添から朝来を経由して田辺に至る唯一の車道として,地域の近代化に資した.昭和8年 (1933年) に省線の延伸によって朝来駅が開業すると,駅へ貨物を運ぶ往還としての役割も担うようになった.市鹿野で江戸時代から生産の続く川添茶も,卒塔婆隧道を通って運ばれたものと思われる.旅客輸送に目を向けてみると,昭和33年 (1958年) 発行の「明光バス三十年史」5 に掲載のバス路線図に,市鹿野と朝来・田辺を結ぶ路線が描かれている (メイリオおよび矢印の注釈は私が加えたものである).
路線開設の時期は不明だが,遅くとも昭和30年代には,卒塔婆隧道をバスが走り抜けていたことがわかる.今は普通車でもおっかなびっくりなあの道を,町へ出かける人々を乗せたバスが行き交っていたのだ.なお,この路線は後に廃止されることになるが,現在も現道経由で白浜町コミュニティバスが運行されている 6.
そんな新道も,モータリゼーションの波には耐えきれず,昭和40年代からバイパス道路の建設が進められた.特に隧道前後の約5kmに渡る急坂を解消するため,昭和48年 (1973年) には新隧道すなわち (現) 卒塔婆隧道の工事が着手され,同50年6月に開通をみた 1.これによって60年3月,旧隧道を含む旧道は県道指定を解除され,上富田町道・白浜町道に移管されることとなる 7.しかし,その後も地元の人に利用されているのは現地で見た通りであるし,町による最低限の整備は続けられてきた.上富田町議会の会議録 7 には「台風、大雨が来るたびあそこへ重機を持って走っている」という話も出てくる.「険」な道であることは間違いないが,決して廃道と化してはいないのだ.
(旧) 卒塔婆隧道は格調高い意匠を有するだけでなく,和歌山県下において現役で利用されるCブロック隧道としての価値も高い.そもそもCブロックが隧道に利用されたのは,煉瓦や石のアーチによる隧道が造られた明治・大正期より後,覆工にも現場打ちコンクリートが用いられ始める昭和初期より前という短い期間に限られている.さらに,県下のCブロック隧道は廃止・封鎖が進んでおり (水呑隧道,滝原洞など),現役の小野坂隧道や湯崎隧道などについても,近年内壁をすっぽり覆うような改修がなされたことで,Cブロックをひとつひとつ積んだ跡は見る影もなくなってしまっている.そんな中で (旧) 卒塔婆隧道は,町道という地位ゆえか,美しいCブロックアーチとCブロックによる坑門工を留めたままで供用されている.昭和初期の技術を今に伝える土木遺産として,ぜひとも末永い保存・活用が望まれる.
参考文献
- 生馬郷土史小学校百年史編輯委員会・編 (1980) "生馬郷土史小学校百年史" pp. 321-329,生馬小学校百年祭実行委員会.
- 上富田町史編さん委員会・編 (1998) "上富田町史" 通史編,pp. 740-741,上富田町.
- 和歌山県教育庁・編 (2007) "和歌山県の近代化遺産:和歌山県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" p. 110.和歌山県教育庁.
- 内務省土木試験所・編 (1941) "本邦道路隧道輯覧" p. 101,内務省土木試験所,2022年2月10日閲覧 (土木学会附属土木図書館によるアーカイブ).
- 湯川宗城 (1958) "明光バス三十年史" p. 93,明光バス.
- 白浜町 (2021) "白浜町コミュニティバス【川添線】" 2022年2月12日閲覧.
- 上富田町 (2016) "平成28年第2回上富田町議会定例会会議録" 2022年2月10日閲覧.