交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

岡阪隧道 (2021. 8. 10. / 2022. 1. 22.)

 

和歌山県田辺市上富田町.謎多き大正生まれの隧道を訪ねた.

目次

第一次探索 (2021. 8. 10.)

(旧) 卒塔婆隧道より続く.荒れた旧道から無事現道に戻った私は,生馬から朝来へと抜けて口熊野の道の駅で休憩をとった.時刻は16時.日没まではまだ2時間近くあるので,寄り道をしながら大阪まで帰ることにした.その最初に訪ねたのが,上富田町田辺市の境にある,大正生まれの岡阪隧道だった.

 

富田川に沿って国道311号を東進し,深見橋の東詰で左折.ここからは県道35号上富田南部線で,富田川支流の岡川に沿って北上する.主要地方道の名に恥じない二車線の快走路であった.2kmほど進み,岡坂橋の手前で右に分かれる旧道に入る.

現道に比べると狭いが,普通車なら余裕で通行可能である.離合困難な区間もほとんどない.何より路面に落石や落枝・落葉などの堆積物がないのが良い.生活道路として日常的に使われている道だから当たり前のことではあるのだが,(旧) 卒塔婆隧道に通じる荒れた旧道に挑んだ直後の私にとっては,大層ありがたく思われた.

 

緩やかな,しかし確かに登りの勾配で高度を上げてゆく.沿道は農地と竹林で,穏やかそのものだ.最後のカーブを過ぎた先は小集落.立派な石垣と瓦屋根が印象的であった.そして民家が途切れたところが,目的の隧道であった.

旧道に入ってからは5分足らずといったところ.

 

こちらの坑門にも注目すべき点があるのだが,上のような暗い写真しか撮り得なかった.実はこの直後,背後の民家から怒鳴るような声が聞こえてきた.何のトラブルかは判然としなかったが,怖ろしくなった私は,すぐに車に戻ってしまった.

 

後から考えてみれば,今回に限っては,私は特に後ろめたいことはしていない.邪魔にならぬように車を停め,現役の町道でひとり静かに写真を撮っていただけである.要は臆病を発動しただけだ.いずれにしてもそんなわけで,禄に観察もせずに車に戻り,前進を再開してしまった.

 

内部.

素掘りである.サラサラした地質で,いかにも脆そうだ.

 

西口に抜けて振り返り.

 

こちらは縦に長い煉瓦積み坑門で,大きな題額も備えている.

 

民家からの怒鳴り声は未だ聞こえており,この1枚だけ撮ってすぐ撤退してしまった.今思えば情けないことこの上ない.

第二次探索 (2022. 1. 22.)

一度目の探訪はあまりに中途半端な結果となってしまったので,日を改めて再訪した.前回レポートした (旧) 卒塔婆隧道再訪の直前である.今回は前回とは逆に,西側からのアプローチを採った.

 

阪和道を南紀田辺ICで流出.左会津川に沿って下万呂,中万呂,上万呂と東に進み,旧三栖村の区域に入る.岡阪隧道の施工を請け負った堀儀太郎はこの村の人であったという.川を渡ったところから峠越えが始まる.実はここに架かる橋も少々面白いのだが,そちらは補遺にてレポートする.

 

現道の「柿見橋」手前で右に分かれて旧道に入る.隧道に取って代わられた旧々道は,かつて柿見峠と呼ばれていたらしい 1.今では小字にすら現れない古い地名である.

 

ゆるやかな勾配で坂を登る.今私のいる隧道北側の旧道は南側よりやや距離が長く,狭隘な区間も多い.

とはいえ普通車や軽四ならば余裕で通り抜けられる.離合スペースも随所に設けられているし,時間帯によるのかもしれないが,交通量もわずかである.

 

旧道に入ってから600m足らずで隧道に達した.手前の広い離合スペースに車を停め,念のため耳を澄ましてみたが,ただ風の吹き抜ける音が響くのみで,人の気配は一切ない.これなら安心だ.前回とは打って変わって,落ち着いて観察を開始した.

 

改めて,正対.

岡阪隧道,大正4年 (1915年) 竣工,近代土木遺産Bランク 2.帯石と笠石の間が非常に広い縦長の煉瓦坑門と,力強い大きな題額が印象的だ.

 

近景.

煉瓦は長手の段と小口の段を交互に重ねるイギリス積み.標準的な組積である.帯石・迫石は小型の切石を並べたもので,迫石と壁面の間はセメントで埋められている.また,要石の真上のセメント塗りや帯石は,要石の形状に合わせるように頭部を尖らせてある.こだわりが感じられる意匠だ.

 

扁額.

朗々とした書体で「岡阪隧道」.その右には「大正二年施工」,左には「工事受負人 堀儀太郎」.

 

もうひとつ感心したのが,手前右側の擁壁だ.

笠石の高さまで積まれた見事な石垣である.経年を物語るように苔むしているのも良い.

 

さて,入洞する.

順に正面と振り返り.内部は素掘り.薄くセメントが塗られている?

 

内部に照明はないが,坑道は直線的で,出口の光は最初から見えている.歩いてゆくと,中間地点から少し上富田側のところに,

田辺市上富田町の境界を示すプレートがあった.前回気が付かなかったのが不思議だ.やはり横着して車で通り抜けてはいけない.

 

延長70mにも満たない短い隧道だから,あっという間に東口に達した.

見ると向こうの離合スペースに軽トラが停まっている.私がのんびり歩いている間待たせてしまったか,と思ったが無人であった.地元の方が停めていただけのようだ.

 

東口から出て振り返り.

 

あまりパッとしない見た目だが,煉瓦積みである.

 

こちらも,要石真上のセメントに小さな装飾がある.

ただ,西口よりは簡素なようにも見える.

 

それよりも特徴的なのは煉瓦の積み方で,

驚きの長手積みである.

 

一般的に,坑門には西口と同様にイギリス積みが用いられる.見た目が美しいとされるフランス積み,すなわち各段で長手と小口を交互に並べる組積が採用されることも稀にある.いずれも奥行き方向で煉瓦の噛み合わせが生じ,高い強度の壁を作ることができるとされる.しかし長手積みでは,奥行きは当然小口の長さ分にしかならず,単に縦に煉瓦を積んだだけのいかにも貧弱な壁となってしまう.その壁を奥行方向に並べることはできるが,芋目地が生じるので強度は期待できない.非常に奇妙な施工である.

 

組積の謎は置いておいて,少し手前に下がって右を見てみると,

こちらも小規模ながら,立派な石垣で土留めがなされている.

 

これにてようやく探索にケリをつけた.もう一度隧道を歩いて車に戻り,(旧) 卒塔婆隧道再訪のために生馬方面に向かった.

机上調査

前史

本隧道は,西牟婁郡旧三栖村の大字下三栖と旧岩田村の大字岡を結ぶ,岡往来 (田辺・三栖側から) および田辺往来 (岩田側から) と呼ばれる街道上に位置する.その歴史は古く,平安時代から鎌倉時代にかけての熊野街道であったとされる 1.ただし室町時代ごろからは,世界遺産にも登録された長尾坂・潮見峠経由の道が主に参詣路として選ばれるようになり,それ以降の岡往来は専ら生活道路としての役割を果たしてきた 3

明治期の道路改修

「三栖村郷土史1 によると,岡往来に対する近代的な道路改良は,明治13年 (1880年) 頃から企てられた.計画の中心となったのは三栖村下三栖の堀儀太郎.現地に「工事受負者」として刻まれていた彼であった.しかし,残念ながらその時点では着工に至らなかった.そのあたりの事情は郷土史も,

爾來諸種の事情は此道路をして開通を妨げ

としか記していない.ただ,同書によると,明治15年頃から熊野街道中辺路を県として整備することが企画されており,従来の長尾坂・潮見峠経由の道を改修するのか,それとも急坂を避けて古の岡往来経由とするのかという二案があり,それぞれの沿道に位置する上三栖地区と下三栖地区で村内が大いに対立していたそうである.中辺路街道は結局,上三栖側の激烈な運動によって潮見峠越えが選ばれることとなったが,いずれにしてもそうした「内紛」が,岡往来改修の萌芽を摘む一因となったことは間違いなさそうだ.

 

次に動きがあったのは明治30年代のことである.「郷土史1 によると,「岩田村区民は一大奮発をして」岡往来 (というよりは田辺往来と書いた方が正確か) の柿見峠に隧道を穿ち,三栖村に至る道路を計画した.この計画に三栖村,万呂村 (三栖の西隣) および田辺町も賛同し,4者の協力のもとで明治31年 (1898年) に隧道工事が着手された 3.しかし,地質不良と土木技術の未熟さから難工事となり,その間に請負人であった北富田村の佐藤某なる人物が死去したため,隧道は実現に至らなかった 1.以下,「郷土史1 からの引用.

隧道工事に着手したが其地所は岩質脆き頁岩より成り少し形を整ふれば崩れ又しても崩れ遂に崩壊防止の方策立たず偶々其の請負人北富田村の佐藤氏死した故全く事止みとなり折角企畫した本道路も止むを得ず中止の悲運となつた

このときの工費は2,420円であった.なお,「和歌山県の近代化遺産」4 には,明治34年 (1901年) に「トンネルの開通式」が挙行されたとあるが,これは道路としての開通ではなく導坑の貫通,あるいは巻立て等の前の掘削の完了を祝した式典であったと思われる.

隧道工事

その後は財政事情からなかなか進捗がみられなかったが,元号が大正に変わる頃,往来の増加によって荷馬車の通行できる道路の必要性が認められ,岩田村岡,三栖村,万呂村,田辺町の4者協議の結果,再び隧道開鑿に着手することが決定された 3.このうち三栖村について,本件に関する村会の決議内容が「三栖村郷土史1 に掲載されている.曰く,事業の総額は16,143円59銭5厘と見積もられ,そのうち岩田村岡が9,092円93銭1厘,三栖・万呂の両村がそれぞれ418円78銭2厘,田辺町と田辺実業協会が900円を負担することとなっている.岡の負担が大半を占めており,岡区民の隧道に対する意気込みの大きさが知れる.考えてみれば新道は,三栖や万呂,田辺の人々にとっては山向こうの村に通じる小路に過ぎないが,岡の人々にとっては南紀の中心地である田辺に至る唯一の車道だったのだ.

 

明治45年 (1912年) 6月に申請された事業は,同年 (大正元年) 12月27日に認可されて着工した.翌大正2年8月には,岡区民を中心とした長年の陳情が功を奏し,県費1,986円の補助を得ている.1年以上の工期を経て,大正3年5月,めでたく岡阪隧道が完成した.しかしながら

脆き岩質は風雨の度常に小潰を生じ、通行人をして危険を感ぜしむる

との理由から,同年度中に県費補助1,050円を得て改修が行われたことが記録されている 1大正4年12月10日に挙行された竣工式では,山本勘作・岩田村長が道路の延長は1,845間9分 (≈3.356km),総工費は18,569円であったと報告している 3

 

当地にとって初めての隧道 (省線は敷設前であった) ということで,竣工当初の写真が残されている.以下「三栖村郷土史1 から引用する.

キャプションには「隧道東口」とあるが,坑門に「岡坂隧道」と大書された額が写っているので,西口の誤植と思われる (もしも本当に東口ならば大発見であり,後年にわざわざ改造されたことになる).向かって左には急勾配で登ってゆく旧道が写っている.残念ながら,現在は旧道部分はごっそり削られ,車が何台も待避できる広い離合スペースになっている.

 

また,隧道による功績のひとつとして旅客輸送を考えてみると,(旧) 卒塔婆隧道の記事でも引用した「明光バス三十年史」5 の路線図に,田辺から岡阪隧道を越えて三川 (現在の田辺市合川の一部) に通じる路線が描かれている.

同書の発行は昭和33年 (1958年).現道の新岡坂トンネルが開通する平成8年 (1996年) よりもはるか昔であり,遅くとも昭和30年代には,岡阪隧道をバスが行き交っていたようだ.町に出かける人々や,ひょっとすると出征兵士なども通った道かもしれない.

堀儀太郎について

隧道工事を請け負った人物が下三栖の堀儀太郎であったことは,現地の題額に掲げられていた通りであるが,その堀について「三栖村郷土史1 は,「隧道工事と堀儀太郎氏」という特別の節を割いて紹介している.

 

曰く,堀は西牟婁郡における「土木請負業者の重鎮」として知られていた一方,岡往来の改修に向けて最初期から熱心に運動を続けていた.大正に入って隧道工事が決定された当時,このような事業は熊野地方ではほとんど経験のないことであったため,これを見込める業者は「忽ち大暴奪利の入札を試みた」.その中で堀は,「義侠的見積」によって他業者の半額の価格で入札し,結果として工事請負者に決定されたという.

 

現在のところ,私の手元にある堀の情報はこれだけだ.せめて生年月日か写真でもあれば良かったのだが.それに土木の重鎮であったなら,他の建造物の施工者として知られていてもよさそうなものなのに,そういったこともなさそうだ.ただし,堀が岡往来に車両を通すべく,明治初期から30年以上にわたって熱心に運動していたこと,また竣工から100年以上にわたって現役の隧道を造ったことは確かである.

長手積み坑門と大正3年度の改築の謎

本隧道の一番の謎は,西口坑門の煉瓦が標準的なイギリス積みであるのに対し,東口は強度の劣る長手積みとなっていることだ.岩質が非常に脆く崩れやすいとされる当地にあって,なぜそのような施工がなされたのか.

 

「三栖村郷土史1大正3年竣工当初の隧道について,

其幅九尺高さ一丈五尺長さ三十五間七分にして其の両口煉瓦を以て積し中央部木框に支えられたる

と記している.つまり,イギリス積みの西口坑門も,長手積みの東口坑門も,どちらも当初からのものとされている.西口については「大正二年」の額の存在から間違いなさそうだが,後者も本当に当初からの仕様なのだろうか.

 

郷土史」には続きがある.

脆き岩質は風雨の度常に小潰を生じ、通行人をして危険を感ぜしむるにより、大正三年度に入り之を完成せしむべく、縣費補助一千〇五十圓あり依て本工事は近く全部の煉瓦疊を施し完全なる隧道となさんとす

これまた気になる内容だ.「煉瓦畳」と言うと昔の道路や最近の遊歩道によくある煉瓦舗装が思い浮かぶが,それは路面の細工であって隧道自体の崩壊防止には与しないはず.なので,ここで言う「煉瓦疊」は煉瓦アーチによる覆工を指すと考えられる.しかし現地で見たのは素掘りトンネルで,煉瓦アーチなど見る影もなかった.これもまた新たな「謎」である.

 

なお,「郷土史」の発行は大正4年で,隧道に関する調査はそれより前,つまり大正3年の隧道完成の直後に行われたと考えられる.改築について「近く~完全なる隧道となさんとす」という記載となっているのはそのためだ.ちなみに同書をベースとした「郷土調査」6 には,年度内に改築が完了したと記されている.また「上富田町史」3 も改築に言及し,大正4年12月には竣工式が開かれたと記しているから,改築があったこと自体は事実だと思われる.

 

確かなことはわからないが,個人的には「大正3~4年の改築で長手摘み坑門が生まれた」という説を推したい.当初は素掘り+西側の煉瓦坑門のみであった (あるいは東側も簡易な坑門は備えていたかもしれないが) 隧道に小崩落が続いたので,東側にも煉瓦の坑門を新設することになった,というものだ.これは「郷土史」や「郷土調査」とは矛盾する想像だが,いずれも土木の専門家が著した書ではないので,多少なりとも不正確な記述は含まれている可能性がある.

 

自説を続けさせてもらうと,その改築には,堀儀太郎の関与がなかったのかもしれない.岡往来の改修が提起された明治初期の時点で「土木業者の重鎮」であったということは,30年以上が経過した大正期にはそれなりの高齢であったはずで,岡阪隧道を最後に現役を退いていた可能性も十分にあるし,ひょっとしたら改築時点でこの世を去っていたかもしれない.地元住民が西側の見様見真似で工作した結果,いかにも素人普請な長手積み坑門ができあがったのではないか……などと,乱暴な想像もできる.

 

とはいえ,大正初期に施工・改築されてから今に至るまで100年以上にわたって現役で利用されているのだから,長手積みであっても十分な強度を有していることに疑いの余地はない.あまり野暮な議論をすべきではなかろう.

補遺: 隧道橋

田辺側から来た県道は峠越えが始まる直前,左会津川の右岸から左岸に渡る.そこに架かるのは見た目は何の変哲もない橋であり,最初は私も気にせずに通り過ぎた.直後が交差点となっており,そこで初めて橋名を知った.

 

なんと,先ほどの橋は「隧道橋」だったという.なかなか強烈な名称である.

 

少し離れた場所に車を停めて寄り道した.親柱には,

隧道橋,ずいどうはし,昭和四十四年三月完成,左会津川.

 

横から見ると,

 

さすがに昭和40年代の鋼桁橋ということでさほど面白くはない.しかし,よく見ると橋台の横に,

空積みの石垣が控えている.旧橋の遺構と思われる.

 

初代・隧道橋はその名から推察されるように,岡阪隧道の取付道路の一部として架設された.このことは,開通した岡阪隧道に関する「三栖村郷土史1 の次の記述からわかる.

就て本道路を見るに大字下三栖より眞一文字に塡田に向かひ茲に三栖川を渡る隧道橋の堅牢なる架設あり之より柿見谷に入り三栖山の下腹を蜿々縫ふて柿見峠に至りて岡隧道となる

また同書の「橋梁」の節には,幅9尺5寸 (≈3.6m),長さ二十七間 (≈49m) と記されている.構造は不明だが,時代を考えると十中八九,木橋だったものと思われる.

 

次いで昭和4年 (1929年) にコンクリートの橋として架換えられたという記録が残っており,三栖村の「郷土調査」6

大字下三栖岡街道に架り幅五米長さ五十一米鉄筋コンクリートの橋にして本村内橋梁のクイーン、昭和四年完成したもので本村橋梁史上特筆さるべきものである

と紹介している.それより後については定かではないものの,戦後の昭和44年 (1969年) に現在の鋼橋が完成したことは,現地の親柱に刻まれている通りである.

 

それにしても「隧道橋」である.かつての険しい山越えに代わる真っ暗な隧道が,村の人々にとっていかに珍しいもので,また期待をもって受け止められていたかが窺える.新しい道路が造られる度に当たり前のようにトンネルが掘られるこの時代に,「隧道橋」の名称は近代の香りを留める遺産であると言えるかもしれない.

参考文献

  1. 山本喜平 (1915) "西牟婁郡三栖村郷土史" pp. 273-274 / 281-287,富家勘七.
  2. 土木学会土木史研究委員会 (2008) "和歌山県 - 日本の近代土木遺産" 2022年2月20日閲覧.
  3. 上富田町史編さん委員会・編 (1998) "上富田町史" 通史編,pp. 739-740,上富田町
  4. 和歌山県教育庁・編 (2007) "和歌山県の近代化遺産:和歌山県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" p. 109,和歌山県教育庁
  5. 湯川宗城 (1958) "明光バス三十年史" p. 93,明光バス
  6. 稗田好郎,滝本昌一 (1930) "郷土調査" 第三章 pp. 6-8,和歌山県西牟婁郡三栖公民学校.