交通遺産をめぐる

関西を中心に隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

鹿瀬洞【前編】(2021. 9. 5.)

明治熊野街道に残る一級品の廃隧道を「冒険」した.

目次

はじめに

今回訪ねたのは,和歌山県道176号井関御坊線新鹿ヶ瀬トンネルの旧道である.

「新」の付いた名称から明らかなように,このトンネルは旧隧道に代わるバイパスとして開通した.地図を見ると,「主要地方道および都道府県道」を表す黄色で塗られている現道の下 (南) に,少し短いトンネルを含む道がはっきりと描かれている.これが今回のターゲットとなる旧道だ.

 

旧道の主役は鹿瀬と呼ばれる隧道である.鹿ヶ瀬隧道や鹿瀬隧道との呼ばれ方もしている (由良町1日高郡2 など) が,本質的には変わらない.本記事では扁額にある鹿瀬洞の名称で統一する.

 

さて,このあたりで「鹿ヶ瀬」と言えば,熊野古道紀伊路の最難所として知られた鹿ヶ瀬峠である.私はまだ訪ねていないが,峠自体は今も保存されており,長さ500mにも及ぶ石畳が残されていたりするそうだ 3.しかし紛らわしいことに,鹿瀬洞 (鹿ヶ瀬隧道) は鹿ヶ瀬峠の下を貫く隧道ではない

この地図には鹿ヶ瀬峠と鹿瀬洞・新鹿ヶ瀬トンネルの両方が含まれており,それらの間が直線距離で1.5kmほど離れていることがわかる.鹿瀬洞が貫く峠の名前は地図に描かれていないが,原坂峠と呼ばれている.

開通の経緯 1, 2, 4

この図は「日本の廃道」第150号 4 のp. 100から引用させていただいた.

 

近世以前の熊野街道は,前述のように鹿ヶ瀬を経由していた.図の黒色の道である.近代に入ると,明治12年 (1877) 頃,このルートが和歌山県道に編入された.しかし道路自体は旧態依然,幅員はわずか1.5mにして勾配も険しく,人馬の往来すら困難な状態であった.そんな「名ばかり県道」の熊野街道は,明治年間,二度にわたって大きな変貌を遂げる.

 

明治22年 (1889),鹿ヶ瀬峠越えに代わる「由良回り新道」が開かれた.上図の赤色の線で,広川から西に向かって由良町に出て,次いで進路を南方に変え,萩原村東光寺で旧道と合流する.熊野街道の通らない由良の人々が,地域の発展を願って熱心に運動した結果であるとされる.同年,県道指定はこの新道に移されることになる.

 

だが,由良は東と南を山,西と北を海に囲まれた町であり,陸路で通過するにはどうしても2回の山越えが必要となる.県道熊野街道の場合は由良の東の水越峠と,南の切貫峠を通っていた (後者には由良洞隧道を貫通) が,これらの長く険しい坂路は,地元住民はともかく,和歌山方面と熊野を行き来する旅人には厳しいものであった.結局,由良周り新道はその効果を十分に発揮することなく,わずか20年足らずで再度付替えられることとなる.

 

明治39年 (1906) に開かれた「津木回り新道」は,上図の青色の線で描かれた道で,南広村河瀬から広川沿いに津木村 (現在の広川南IC付近) まで南下し,鹿ヶ瀬峠の南隣の原坂峠で有田・日高郡境を越えるものである.原坂峠には長さ165mの隧道を貫通,これが今回の主題たる鹿瀬 (鹿ヶ瀬隧道) である.以降,津木回り新道が県道となり,戦後国道42号が整備されるまで,幹線道路として活躍し続けた.

現状

平成11年 (1999) に新鹿ヶ瀬トンネルが開通し,鹿瀬洞は旧道となった.その後もしばらくは通行可能な状態で残されていたが,平成19年 (2007) 頃に廃止され,フェンスで封鎖されてしまった.

 

それから14年が経った2021年9月5日,現状を確認すべく,残暑の厳しい日に鹿瀬洞を訪ねた.

東口探索編

午前中に和歌山市南海本線紀ノ川橋梁寄合橋和歌浦橋と中橋を見た後,いったん大阪府泉佐野市に戻ってカーシェアのハスラーを借りた.和歌山市でも車は借りられるが,この日は由良洞に通じる狭隘な山道を攻略する予定があったため,以前 (旧) 卒塔婆隧道への挑戦でも活躍してくれた車を使いたかった (県内には同型車両がなかった).阪和道でもう一度府県境を越え,和歌山,海南,有田,湯浅と南下して広川南ICで流出.出口が県道176号に直接繋がっており,2kmほど走ると現道の新鹿ヶ瀬トンネル東口である.

新鹿ヶ瀬トンネル (東口),平成11年 (1999年) 竣工,延長336m,幅員7m.

 

その手前には左に分岐する道.これが鹿瀬洞に通じる旧道である.事前に予習していた通り「この先旧トンネル通行できません」の看板が立っている.旧道に入ってすぐのところに,かつての線形に由来すると思われる広い路肩があるので,そこに車を駐めさせていただいた.

 

旧道歩きを開始する.

通り抜けのできない道だが,路面状況は悪くない.

 

少し進んだところで,「御坊・日高方面は直進」の掲示.今や隧道が封鎖されているので御坊や日高に行くことはかなわないが,ここが確かに旧県道であったことの証である.

 

地形に沿って左,右と曲がると少々開けた所に出た.ここで農地や墓地に続く二三の道が分岐する.これまでの道がさほど荒れていなかったのは,地元の方の車が定期的に通るからに違いない.しかし,その先には……

 

 

は,廃道だ

 

正直,面食らった.事前に読んでいた他サイト様の記事に,こんなに深い藪は登場しなかったはずだ.ポータルを塞ぐフェンスの直前まで自転車で乗り入れた方もおられたと記憶している.廃道歩きには決して適さない9月初旬という時期にやってきたのも,その程度の状況を想定していたためだった.まさか,これほど酷いとは.

 

虫除けスプレーを上半身に噴射し,捲くっていた服の袖を下ろす.ヤマビルファイターを足首から靴に塗り,ズボンの裾を靴下に入れる.蜂の巣にうっかり踏み込んだ場合の保険として,蜂撃退スプレーを鞄から取り出してポケットへ.最後に作業用手袋を着用し,気合を入れ直して前進を再開した.えらく大仰に書いたが,当時の私にとってのフル装備だった.

 

通行止看板の付近には辛うじて舗装が見えていたが,5mも進むと姿を消し,一面緑色のジャングルとなった.背が高く棘のある嫌な雑草を,ガサガサガサガサと手で払いながら進む.帰ったら剪定ばさみを買おう,と頭の中にメモする.植物だけでなく虫も山ほどいる.虫除けスプレーのおかげで蚊はさほど止まらなかったが,植物の間に巣を張り巡らせている蜘蛛の多いこと多いこと.適当に拾った枝を片手に進むが,いくつ蜘蛛の巣を壊したか,途中で数えるのをやめてしまった.足元で驚いて跳ねるバッタも何匹か踏んでしまったと思う.私は虫が嫌いだが,それでも役目を終えた道路敷は既に彼らの住処であり,私はそこを文字通り土足で踏み荒らす存在なのだ.申し訳ない気持ちを覚えないはずがない.

 

幸いなことに,この部分は掘割となっているため,道を見失う心配はなかった.これがだだっ広い原野なら気が狂っていただろう.擁壁が風情のある素掘りなのも良い.最近まで現役だった道らしく,コンクリートが吹き付けられて落石防護ネットも設置されているが,重機などなかった時代の苦労が偲ばれる.

 

言うまでもなく,このような藪まみれの状態が生じる最大の要因は,路面に土が盛られることである.しかし道路両側の掘割が崩れているようには見えない.つまり,他所から土が運び込まれているとみられる.人を立ち入らせないようにするための,所謂廃道化工事である.他サイト様のレポートを見る限り,ここ数年で行われたようだ.しかしこの先に鎮座するのは,重機もシールドマシンもない明治時代,多数の先人が命を賭して造り上げ,開通後は100年にわたって交通を支え続けた土木遺産である.もう少し大事にしてあげても良いのではないか.

 

同じような写真が続くが,右にカーブしながら岩山を迂回している.その先は逆に左カーブとなっており,先の様子は見通せない.たとえこの藪がなかったとしても,自動車による高速走行は困難で,またいかにも事故の起きやすそうな線形だ.現道はこの峰をもトンネルで潜っている.

 

通行止の看板からおよそ70m.上の写真の奥に写る左カーブを曲がった旧道は西方向,すなわち現道と同じ方角を向く.そこでようやく,

見つけたぞッ…!!

 

残りはおよそ10m.気合を入れ直し,ガサガサと接近した.

鹿瀬洞 (鹿ヶ瀬隧道),明治39年 (1906年) 竣工,延長165m,幅員4m,近代土木遺産Cランク 5

 

藪に囲まれていても,冠木門タイプの坑門は圧倒的な存在感を保っている.壁面,ピラスター,笠石,帯石はいずれも切石平行積み,アーチリングは鮮やかな煉瓦造り.このような煉瓦と石の組み合わせは,鉄道トンネルや拱渠では時々見かける構造だが,道路用としては珍しいような気がする.いずれにしても,重厚さと美しさを兼ね備えた逸品である.

 

4層巻き煉瓦アーチの最上部に,キラリと光る要石を掲げる.その上には帯石を挟んで扁額.「鹿瀬洞」と右から刻まれているはずだが,残念ながら植物に阻まれて「鹿」の字が辛うじて読める程度である.

 

石造りの立派なピラスター.わかりにくいが,特に右側のもの (写真2枚目) はびっしょり濡れている.坑門の上から滝のように水が流れ落ちているためだ.隧道の保存という観点では決して良い兆候ではないが,見た目には凛としており,これはこれで格好いい.

 

フェンスの隙間から中を望む.煉瓦アーチはすぐに途切れ,その先は素掘りにコンクリート吹付けとなる.左奥に落ちている若干気味の悪いものは照明器具.無理やり後付けしたためか,管理放棄された照明は,隧道そのものよりも桁違いに早く崩れ落ちる.廃隧道では珍しくない光景だ.

 

ここまでの道 (もはや道ではない) を振り返る.一面緑のジャングルに,カーブミラーがポツンと立っている.

 

心行くまで観察した後,もう一度藪を漕ぎながら引き返した.予想以上の「闘い」を強いられたためにクタクタだが,これから西口も見なければいけない.

 

後編に続く.

参考文献

  1. 由良町編集委員会・編 (1991) "由良町誌" 通史編下巻,pp. 16-17,由良町
  2. 日高郡役所・編 (1913) "和歌山県日高郡誌" 上巻,pp. 618-620,日高郡役所.
  3. 和歌山県観光連盟 "わかやま観光 熊野古道紀伊路・鹿ヶ瀬峠 | 和歌山県公式観光サイト" 2022年6月10日閲覧.
  4. nagajis (2018) "由良洞と鹿瀬洞" 日本の廃道,第150号「定点観測」,pp. 99-147,日本の廃道編集部,2022年6月10日閲覧.
  5. 土木学会土木史研究委員会・編 (2006) "和歌山県 - 日本の近代土木遺産" 2022年6月10日閲覧.