交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

吉浦乙廻燃料置場側線 西浜川橋梁 (2023. 2. 11.)

広島県呉市呉線の吉浦駅から海軍施設に伸びていた側線跡に残るポーナル桁.

 

軍港として発展した呉市の中心駅・呉駅から西に2つ目の,呉線・吉浦駅.旧吉浦町の中心駅であるだけでなく,駅南西の乙廻地区に海軍軍需部の燃料置場が設けられたことから,そこに至る延長0.9kmの専用側線 (吉浦乙廻燃料置場側線) が造られ 1,火薬輸送の拠点としても活況を呈した.

 

乙廻燃料置場は戦後進駐軍に接収された後,防衛庁に返還され,海上自衛隊の補給所となった.その間も専用側線は利用され続けたが,貨物輸送の衰退に伴い,吉浦駅の貨物取扱廃止とともに廃止された.廃止後は大部分が道路に転用されているようである.そんな中で比較的よく専用側線の痕跡を留めている,駅西側の水路に架かる橋梁を訪ねた.

場所: [34.25856, 132.52555] (世界測地系).

 

駅構内の吉浦西踏切の南で広島方を向くと,このような石積み橋台が残っている.桁は撤去され,跡に配管のトラスが渡されている.右奥に見える桁は現役線である (駅構内なので複線となっている).

 

下流側を向くと,架かったままの鈑桁が残る.

 

本桁の最大の特徴.スティフナー (鉛直補剛材) の上下がJ型に曲がっている.明治期に英国人技師・ポーナルが設計した鉄道用プレートガーダー,所謂ポーナル桁である!

 

一言にポーナル桁と言っても作錬式 (鉄道作業局錬鉄式鈑桁),作30年式 (鉄道作業局明治30年11月17日鉄作乙第1075号),37年式,関西補強形といったバリエーションがある.本橋を見ると,2本の主桁が口の字型のブラケットで連結されているだけで対傾構を有さないことから,作錬式または作30年式であることがわかる.両者の違いとしては材料 (錬鉄・鋼鉄) のほか,橋脚・橋台への積載部分における底板の有無 (作錬式にはなく作30年式にはある) が挙げられるが,後年に底板が追加されるケースもあり,外観からの判別は用意ではない.ただ,吉浦駅の開業が明治36年 (1903) であることを考慮すると,作30年式の可能性が高いと考えられる.

(※参考:「明治期におけるわが国の鉄道用プレートガーダーについて」2

 

すぐ下流側には,対岸の歯科医院に通じる人道橋が架かっている.そのさらに下流に,船着場のように水面すれすれまで下降できるスロープがあった.そこを降りて人道橋を潜り,ポーナル桁を下から観察した.

 

石積み橋台に載るポーナル桁.いかにも明治期といった風情で素晴らしい.見たところ溶接補強等も加えられておらず,線路が載っていない以外は限りなく明治当初に近い状態で保存されているようだ.

 

そしてこの塗装記録.「西浜川橋梁」という名称が知れたのはこれのおかげだが,驚いたのは「塗装年月 1992年3月」である.吉浦駅の貨物取扱は昭和59年 (1984) に廃止されており 3,併せてこの専用側線も廃止されたはずである.にも関わらず,平成4年 (1992年) に塗装が施されている.線路跡に配管を通したりする都合で,放置というわけにはいかないということだろうか.

 

 

なお,本橋を有する専用側線は,昭和9年 (1934) 2月5日に新設されたという記録がある 4.しかし本橋の桁は明治期,それもアメリカ式の作35年式が普及する前のものである.桁だけであれば他所からの転用の可能性もあるが,石積みの橋台はいかにも明治~大正期の作で,コンクリートが普及した昭和期のものとは考えづらい.だとすると,本橋は燃料置場に通じる専用側線が敷設される前から架かっていたことになる.吉浦駅の開業当初から留置線のような形で線路が伸びていたのを,燃料置場まで延長したのが昭和9年ということなのかもしれない.

参考文献

  1. 大同通信社・編 (1955) "港湾年鑑 1955年版" pp. 232-233,大同通信社.
  2. 西野保行,小西純一,中川浩一・編 (1993) "明治期におけるわが国の鉄道用プレートガーダーについて ― 概説" 土木史研究,第13号,pp. 321-330,土木学会.
  3. 石野哲・編 (1998) "停車場変遷大事典" 国鉄・JR編2,p. 275,日本交通公社出版事業局.
  4. 岡田裕雄・編 (1955) "呉と鉄道 ―呉駅からみた史的現状分析とその対策―" pp. 430-431,呉駅開設五十周年記念誌出版後援会.