交通遺産をめぐる

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対州の旧隧道群【3/10】佐須奈隧道 (2022. 2. 1.)

対馬縦貫道路に造られた、島内現存唯一の煉瓦隧道.

 

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はじめに

対馬北部の港町・豊崎村比田勝を発った対馬縦貫道路 (現・国道382号) は,豊崎隧道で山を越え,川沿いに大浦湾に出る.そして少しばかり海岸沿いを走った後,再び山中に分け入り,2.5kmほどで隣の佐須奈村との境に至る.

 

豊崎・佐須奈両村は小山によって隔てられており,そこを貫通するため佐須奈隧道が造られた.

場所: [34.65615328370765, 129.4111131668353] (世界測地系).

 

佐須奈隧道は豊崎隧道に次いで島内2番目の古さを有する隧道である.開通以来,長年にわたって地域の主要道路として利用されてきたが,新トンネル (佐須奈トンネル) が平成18年 (2006) に開通したことで旧道となり,現在はフェンスで封鎖されている.

 

今回は,そんな佐須奈隧道を取り上げる.

探訪

旧道となってから16年目の2022年2月1日,対馬旅行の2日目に現地に赴いた.

佐須奈側

隧道を含む旧道は,豊崎側・佐須奈側とも新トンネルのすぐ脇にわかりやすく見えている.今回は佐須奈側の旧道入口付近に車を停めてアプローチした.

 

旧道入口.車道部分が土嚢袋で塞がれている.隧道からの漏水が現道に流れないようにするためだろうか?

 

左を向くと現道の佐須奈トンネル.

 

旧道.標識がそのまま残っている.

 

ほどなく,佐須奈隧道,佐須奈側.こちらの坑門は後年に改築された無装飾なコンクリート造りのものである.

 

面白味のない坑門の中で唯一輝く扁額.右から「佐須奈隧道」そして「佐上書」.改築前のものを移したのであろう.内務省の道路課長として (旧) 道路法の制定に尽力したことでも知られる第25代長崎県知事・佐上信一の揮毫である.

 

振り返って.ろくに掃除されていないせいで堆積物が多い.

 

内部を覗く.路面は多少落ち葉が吹き込んでいるがセンターラインもそのまま残っており,状態は悪くない.側壁・天井のコンクリートは坑門改築と同時に施工されたものであろう.ただし天井はネットで補修されており,それなりの経年劣化が進んでいるようだ.

内部

さて,見える範囲に危険はないが,フェンスがあるから入れない.残念だが反対側に回るか,と思って引き返しかけたところで気が付いた――このフェンス,脇が甘い.

 

というわけで,

お邪魔します……

 

コンクリ部分を過ぎると,壁全体が薄い鋼板で覆われたようになる.その板が剥がれた (剥がした?) 部分があり,そこには…

煉瓦!

 

暗い写真で申し訳ないが,少し進むと一面に煉瓦積みが残る素晴らしい区間に入った.鉄道用ならともかく,2車線が入るほど大きな幅員の煉瓦隧道は珍しい.大きな幅員の道路が必要とされるような時代には,既にコンクリートの隧道が普及しつつあったためだ.

 

煉瓦近景.側壁がイギリス積み,アーチが長手積みの標準的な組積である.しかし煉瓦自体は一般的な赤煉瓦ではなく,グレーのいわゆる鉱滓煉瓦である (詳細は「考察」にて).

 

 

煉瓦区間は唐突に途切れ,また鋼板で補修された区間に入った.維持管理の苦労が偲ばれる.しかし煉瓦区間はもう一度現れた.

数メートルの短い区間ではあるが,煉瓦組積がそのまま残っている.

 

最後の区間は再び鋼板巻き.もう出口は見えているが,フェンスの向こうが目を背けたくなるような状況である.

 

膝より高く土が溜まっている.平坦に均されているから,崩土ではなく他所から持ち込まれた残土であろう.

豊崎

フェンスを乗り越えて脱出.

佐須奈隧道,近代土木遺産Bランク 1.力強く堂々としたポータルである.

 

切石のアーチ環の頂部には一回り大きな要石.その上に佐須奈側と同様「佐須奈隧道」「佐上書」の扁額.

 

本隧道の一番の特徴である,イギリス積み煉瓦で形作られた台形型のピラスター.神殿の柱のような荘厳さがある.

 

笠石には持ち送りの装飾.さりげないおしゃれポイント.

 

 

優れた意匠を堪能したところで,旧道歩きを再開する.

深い掘割を進む.

 

草臥れた標識が残る.

 

ほどなく現道が見えてきた.

 

現道に合流して振返り.旧道入口には土嚢が敷き詰められている.旧道上を埋める土砂が現道側に流出しないための細工だろうか.

新トンネル

車への帰路は新トンネルを歩くことにした.

旧道のすぐ脇に控える現・佐須奈トンネル,平成18年 (2006) 竣工.特段の面白味もない量産型のポータルである.

 

銘板.

 

内部の景.大きく左カーブを描く.

 

洞内で見つけた掲示.個人情報に繋がる部分は一応隠してある.どうやらこのトンネルの扁額は地元の高校生が揮毫したようだ.

 

通り抜けて佐須奈側坑門.こちらも豊崎側と同じ意匠.

 

現地調査は以上.

考察

対馬は戦前・戦中を通して島全体が要塞として扱われていたという事情から,島内の隧道は全体的に情報が乏しい.本隧道も例外ではなく,いくつもの郷土史料や文献を読み漁っても,隧道の開通に至る詳細な経緯は明らかにならなかった.

 

しかしながら,昭和8年 (1933) 7月刊行の土木学会誌の「我國に於ける道路隧道」2 という記事 (彙報) に本隧道が登場しているのが見つかり,本隧道の諸元など多少の情報を得ることができるようになった.戦前の隧道を知るための資料として真っ先に挙げられるのは昭和16年 (1941) に内務省土木試験所が発行した「本邦道路隧道輯覧」であるが,佐須奈隧道は掲載されていない (対馬要塞内の隧道を内務省として取り上げることは軍事上許されなかったのかも?).それゆえ前述の彙報を発見できたときは嬉しかった.

竣工時期

まず,そもそも本隧道はいつ完成したのかを明らかにしたい.「日本の近代土木遺産1 は大正15年 (1926) 竣工とし,出典は「長崎県の近代化遺産」3 となっている.同書には確かに大正15年と記されているが,典拠は示されていない.おそらく当時の台帳の数字であろう.実際,日本道路公団が昭和39年 (1964) に発行した技術資料「トンネル通覧」4 でも大正15年開通と記されている.

 

しかし,だとすると疑問が生じる.扁額の「佐上書」である.大正15年当時,佐上信一は岡山県知事であった.ちなみに彼の出身は広島県である.在任地とも故郷とも遠く離れた対馬の隧道に,なぜ彼の揮毫があったのか.

 

この疑問は扁額を見たときからずっと抱え続けていたが,前述の「我國に於ける道路隧道」2 が明解に答えてくれた.すなわち,大正15年 (1926) は佐須奈隧道の竣工年ではなく着工年であったのだ.何かの手違いで,台帳に竣工年ではなく着工年が記録されてしまい,それが延々と受け継がれていったのであろう.

 

もうひとつ重要な情報として,佐須奈隧道の竣工は昭和3年 (1928) であることも明らかになった.これにより前述の疑問は氷解した.佐上信一は昭和2年 (1927) 5月17日から昭和3年 (1928) 年5月25日まで長崎県知事を務めていたからである.佐上は在任中,県道であった対馬縦貫道路の隧道の扁額を揮毫した,それだけのことだったのだ.

 

この記録が正しいことを支持する資料として,昭和3年 (1928) に発行された「対馬島誌 増訂」5 も見つけることができた.曰く,

河内、佐須奈間の隧道は長百十二間にして昭和三年開通の豫定なり。

という.河内・佐須奈という地名からこの隧道は明らかに佐須奈隧道のことであり,それが昭和3年に地元で発行された地誌に「昭和3年開通予定」と記されているのだ.

 

また,昭和3年という年は,島内各地で砲台等の軍事施設が造られていた時期であり,特に島の最北端で朝鮮半島防衛の最前線となる豊砲台の着工前年でもあった 6.また,佐須奈側坑口から約2.5km先に位置する佐須奈港は朝鮮半島との交易拠点であり (明治26年 (1893) の勅令により佐須奈長崎税関出張所が設置されていた 7),軍事的にも重要な港湾であった.これらを踏まえると,本隧道の幅員の大きさは,戦車のような大型軍用車両の通行を考慮したものかもしれない.

佐須奈側 (西口) の改築

力強い意匠を有する豊崎側のポータルに引き換え,佐須奈側は何の風情もないコンクリート壁である.隧道内が佐須奈側坑口付近のみ最初から現場打ちコンクリートで覆工されていることからも,西口付近は後年の改築によって本来の意匠が失われていると考えられる.では,いつ頃,そしてなぜ改築されたのだろうか.

 

結論から述べると,昭和46年 (1971) の豪雨災害によってオリジナルの坑門が損壊したためと考えられる.この年の7月下旬,九州地方を通過した前線は対馬にも集中豪雨をもたらし,特に前線が停滞した対馬北部では,多くの箇所で土砂崩れや河川の氾濫が発生した 8.そして佐須奈隧道の坑口も崩土に埋没した.

当該災害の被害をまとめた「昭和46年7月21日から26日までの九州地方の大雨に関する異常気象調査報告」9 からの引用である.もはやどこが坑口であるかすらわからない崩れっぷりである.

 

さらに,現地調査に赴いた建設省河川局職員による回想録 10 でも,佐須奈隧道の被害が言及されている.

緊急調査を命ぜられ7月28日博多港より連絡船で厳原港へ,そして激甚地である北部上県町,上対馬町へと主要地方道厳原上対馬線で向ったのですが,途中随所に災害の爪痕があり被災当時の激しさが伺われる惨状でした。

上県町の災害現場では,偶然長崎市からヘリコプターで被災地の見舞にかけつけた副知事さんとお逢いして,佐須奈トンネル隧道口に約4,000立方メートルの崩土により埋そくしているため現地を確認の後、引返し佐須奈港より船で比田勝港へと向かい被害激甚の比田勝川を含め上対馬町の現地調査をしましたが……(以下略)

彼は厳原から厳原上対馬線 (=対馬縦貫道路) を北上して佐須奈に向かっているので,土砂で埋まっていたのは佐須奈隧道の厳原側 (=佐須奈側) と考えられる.

 

被災によって崩壊したオリジナルの坑門が,昭和40年代後期以降にコンクリートで作り直されたとすると,見た目の印象とも一致する.無機質な坑門ではあるものの,むしろそれほど大きな被害が発生した状況で,崩土の中からオリジナルの扁額を発掘して再利用したことは称賛に価すると思う.

土木遺産としての重要性

佐須奈隧道は島内に2例のみの煉瓦隧道のひとつであり,もう一方の泉隧道が昭和54年 (1979) に改築されて以降,現存するものとしては唯一である.また,東口ポータルの力強くかつ芸術的な意匠は唯一無二であり,遺産としての重要性を高めていると言える.

 

使用されている煉瓦が通常の赤煉瓦ではなく灰色であるのも特徴的であるが,これは鉱滓煉瓦である.「我國に於ける道路隧道」2 に本隧道の覆工が鉱滓煉瓦3枚巻であることが記されているので間違いない.鉱滓煉瓦とは,製鉄の際に発生する鉄以外の成分 (スラグ) で造られた建材である.おそらく八幡製鉄所で産出されたものであろう.戦前,下関と釜山を結ぶ航路が比田勝港に寄港していた 11 というから,そんなルートで運ばれてきたのかもしれない.

 

鉱滓煉瓦を用いた隧道は全国的にも珍しい.他の例としては八幡製鉄所の専用鉄道・炭滓線 (現・くろがね線) の宮田山トンネル (昭和5年 (1930) 開通) 12 が挙げられる.同トンネルは延長1kmを超える長大隧道であり,大変な難工事であったと伝えられているが,直前に完成した佐須奈隧道が技術的な礎となった可能性がある.

おわりに

対馬縦貫道路において,豊崎村河内地区と佐須奈村を結ぶ佐須奈隧道を訪ねた.昭和3年 (1928) 頃,対馬島内で2番目に開通した隧道であり,全国的にも珍しい鉱滓煉瓦造りである.本隧道は開通以来平成18年 (2006) まで,90年近くにわたって島内の主要街道として利用され,対馬の近代化に大きく貢献した.その間,昭和46年 (1971) の土砂災害によって佐須奈側坑門がコンクリートで改築されたと考えられるほか,洞内の煉瓦アーチは度々補修されている.しかしながら,豊崎側の立派な坑門は今も残されており,その威容を今に伝えている.

近年,対馬島内では豊砲台や姫神山砲台など,近代の砲台跡地が観光スポットとして整備されている.一方,同じく近代の土木構造物である佐須奈隧道は,旧道が残土置き場とされてしまっており,ゆくゆくは完全に埋められてしまうものと思われる.本隧道は唯一無二の荘厳な意匠を有するだけでなく,これまでに果たした軍事上ならびに地域発展上の役割も計り知れない.砲台と同様,史跡として整備すれば観光地となり得るポテンシャルは十分にある.行政には砲台のようなわかりやすい遺産だけでなく,道路遺産にも目を向けてほしいと思わずにはいられない.

参考文献

  1. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 266-267,土木学会.
  2. 岩澤忠恭 (1933) "我國に於ける道路隧道" 土木学会誌,第19巻,第7号,pp. 555-578,土木学会.
  3. 長崎県教育委員会・編 (1998) "長崎県の近代化遺産:長崎県近代化遺産総合調査報告書(長崎県文化財調査報告書第140集)" pp. 165-166,長崎県教育委員会
  4. 日本道路公団技術部技術課・編 (1964) "トンネル通覧" p. 355,日本道路公団技術部技術課.
  5. 対馬教育会・編 (1928) "対馬島誌 増訂" p. 1023 *1対馬教育会.
  6. 日野義彦 (1985) "対馬拾遺:国境に生きる人々" p. 258,創言社
  7. "御署名原本・明治二十六年・勅令第百三十九号・税関出張所及派出所設置" JACAR (アジア歴史資料センター) Ref.A03020151000 (2024年2月8日閲覧).
  8. 稲村一男,高畠志朗 (1971) "長崎県島原,対馬地方の7月18日〜26日集中豪雨について" 防災,第267号,pp. 8-9,全国防災協会.
  9. 福岡管区気象台・編 (1971) "昭和46年7月21日から26日までの九州地方の大雨に関する異常気象調査報告" 口絵,福岡管区気象台.
  10. 稲村一男 (1983) "査定の思い出" 季刊防災,第72号,pp. 119-124,全国防災協会.
  11. 上対馬町誌編纂委員会・編 (1985) "上対馬町誌" pp. 612-614,上対馬町役場.
  12. 福岡県教育委員会・編 (1993) "福岡県の近代化遺産―日本近代化遺産総合調査報告書" pp. 28-29,福岡県教育委員会

*1:名著出版による再版 (1973) におけるページ番号