交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

対州の旧隧道群【1/10】総説

国境の島として軍事上重要な役割を与えられてきた長崎県対馬には,大正期から昭和期にかけて造られた多種多様な旧隧道が現存する.それらの現状を報告するとともに,それぞれの歴史について考察してみようと思う.本記事では導入として,対馬における近現代の道路整備と,その結果生まれた隧道群について概観する.

 

はじめに

長崎県対馬 (つしま).九州本土から130km,朝鮮半島から50kmの距離に浮かぶ「国境の島」は,古くから日本における大陸との交易の窓口として発展した.当然ながら軍事上重要な土地でもあり,元寇日露戦争 (日本海海戦) の舞台ともなってきた.

 

対馬は東西の長さこそ18kmほどだが,南北は82kmに及び,本土 (北海道・本州・四国・九州) と沖縄本島以外の離島としては佐渡島奄美大島に次ぐ国内第三の面積を有している.そして島土の9割近くを険しい山地が占めている.それゆえ,対馬の近代化において島内各地を結ぶ道路の開発は欠かせなかった.

 

古い時代の対馬について,「魏志倭人伝」は

土地山険。多深林。道路如禽鹿径。

(=土地は山険しく,深林多く,道路は禽鹿の径の如し) と記しており,これは対馬の道路事情を語る上で定番の枕詞である.時代が大きく下って明治に入ってからも,状況は大きく変わってはおらず,隣村に行くだけでも「旅」と称されるほどの苦労であった.

 

大正期に入ると,ようやく近代的な道路整備が開始された.昭和には軍事的な重要性から,いわゆる特殊国道 (軍事国道) も多数着工された.ただし,関東大震災や昭和恐慌の影響で工事は遅延を重ね,ほとんどは終戦時までに完成せず,戦後に持ち越された.

 

この過程で,険阻な山々に多種多様な隧道が開鑿された.特に古いものは土木遺産としての価値も高く,土木学会の近代土木遺産に選ばれている 1.しかしながら離島ゆえか,その現況がよく知られているとは言い難い.特に島内最古の豊崎隧道 (大正8年竣工) は,近代土木遺産Cランクに認定された秀逸な意匠を有するにも関わらず,執筆時点での訪問記録等は私が知る限り紙上・Web上のいずれでも公開されていない.

 

2022年1月31日からの4日間,対馬を訪れ,それら旧隧道群を巡った.これから9回に分けて,各隧道の歴史と現況をレポートしてゆく.

 

なお,本企画において対象とする「旧隧道」は,対馬島内に現存する隧道であって,

  • 第二次大戦の終結以前に竣工した
  • 新トンネルの建造によって旧道となった

の少なくともいずれかを満たすものとする.ただし,厳原町久田〜尾浦に位置する久田隧道 (昭和11年 (1936) 竣工) については,平成7年 (1995) 頃の改築によって往時の姿が失われており,また現地探訪の時間も取れず素通りしたため,今回のレポートでは割愛させていただく.それ以外の隧道については網羅したつもりだが,漏れがあれば教えていただきたい.

対馬における道路整備と隧道群

各論的な隧道のレポートに入る前に,島内における道路整備の歴史と,その過程で造られた隧道について概説する.

道路整備前

「はじめに」で述べたように,明治に入ってからも対馬の道路は「禽鹿の道」の有様であった.隣村と行き来するには峻険な山を越える必要があり,荷物があるときは対州馬という小型馬によった.沿岸部では船もよく利用された.

 

これに対し,明治30年 (1897) 頃に内務省より視察に訪れた書記・井上友一は,内務大臣に宛てた報告書において道路整備の必要性を認める一方で,「国防上の見地」から,すぐに道路を開くべきではない,とも述べている.その理由は,

警備隊の組織を拡充せざるうちに、道路をまず開通することは、かえって敵に資するがごとき弊あらんことを恐るる

というものであった 2日露戦争が予想されていた時期であり,島民の不便や島土開発の遅れよりも,対馬海峡の防衛拠点としての整備が優先されていた.

 

この時代の道路といえば,島の中心地である厳原 (いづはら) と竹敷要港部や大船越瀬戸などの国防上重要な地を結ぶ道 (延長13-15km程度) が最低限整備されるにとどまっていた 2, 3

対馬縦貫道路と隧道群

本節に関係する隧道: 豊崎,佐須奈,弓張,濃部 (,賀谷)

 

明治38年 (1905) の日本海海戦の勝利や明治43年 (1910) の韓国併合を経て,もはや「道路を開くべきではない」という時代ではなくなった.そんな中で計画されたのが,「対馬縦貫道路」であった.現在の国道382号に相当する道路である.

図の黄色い線が国道382号,つまり完成形の対馬縦貫道路である.島北部 (上県郡) の港町・比田勝より各村落を経由し,島の中心地にして本土 (博多) 方面の玄関口である厳原に至る.

 

事業は比田勝と隣村の佐須奈 (さすな) を結ぶ道路から開始された 4, 5.当初事業主体であった対馬総町村組合の主導によって「対馬幹線道路期成同盟会」が組織され,県への陳情や土地の買収交渉にあたった.本土への航路の発着する島の中心部・厳原 (旧下県郡) から遠い島の北部 (旧上県郡) の人々にとって,縦貫道路の開通がいかに死活問題であったかが窺える.土地交渉が難航するなどの苦労はあったが,同7年 (1918) に比田勝港より工が起され,大正8年 (1919) には大浦地区との間の峠に豊崎隧道が開通した 4.その後大正9年 (1920) にかけ,豊崎村河内まで徐々に延伸した.

上対馬町4 より引用.

 

大正9年 (1920) 4月に道路法が施行されると,縦貫道路は県道となり,道路整備は県の仕事となった.しかも事業は13ヶ年継続で計画され,対馬の軍事的重要性もあって工費の3/4が国庫負担,残り1/4のうち8割5分は県費負担という,当時としては夢のような話であった 5

 

この事業では6ヶ所の隧道が計画されていた.比田勝・大浦間に1ヶ所,河内・佐須奈間に1ヶ所,佐須奈・佐護間に2ヶ所,鹿見・峰間1ヶ所,峰・仁井間1ヶ所である.比田勝・大浦間には豊崎隧道が完成していたが,この時早くも幅員不足が指摘されていた 6

 

しかしながら大正12年 (1923),壮大な夢は幻と消えてしまう.関東大震災がきっかけである.政府は首都圏の復興を最優先としたため,対馬への補助金は無期限延期となったのだ.島司や支庁長,町村長はたびたび上京・陳情を繰り返したが再開はかなわず,対馬にとっては「大震災以上の打撃」と囁かれるようになった 6

 

なお,関東大震災を受けて地元が提出した陳情書に「豫算を定め工事其緒に就きて既に一部竣功を見」とある 6 ことから,震災前に竣工していた箇所もあったことが窺える.例えば,河内・佐須奈の間の佐須奈隧道が考えられる.各種資料では大正15年 (1926) 開通とされることが多い同隧道だが,関東大震災後にそんな余裕があったとは思えない.何しろ豊崎隧道より格段に幅員が大きく,装飾も凝った立派な隧道なのだ.実際には大正10年~12年頃の竣工ではないかと思われる.実際は大正15年 (1926) 着工,昭和3年 (1928) 竣工であることが確認されましたので訂正します.詳細は個別記事にて.

佐須奈隧道.

 

戦後,昭和28年 (1953) の離島振興法をはじめとする各種財政措置の助けを得て,対馬縦貫道路の計画が再開された.昭和34年 (1959),難工事であった鹿見・峰間の弓張隧道が開通したことで,比田勝から仁井まで陸路,仁井からは航路で樽ヶ浜に渡り,そこからは再び陸路で厳原に向かう道が開かれた 5, 7比田勝港から仁井までバスが通うようにもなった.

弓張隧道.

 

続いて昭和37年 (1962),かねてから整備されていた厳原・大船越間の県道を万関瀬戸まで延長する工事が,陸上自衛隊の手で行われた 5.さらに,万関から賀谷隧道濃部隧道を経て仁井までの道路が昭和43年 (1968) に開通,ここに至って比田勝と厳原を結ぶ対馬縦貫道路は完成をみたのである 7大正7年 (1918) の着工から実に50年が経過していた.

濃部隧道の脇に残された「対馬縦貫道路開通記念」の額.

 

ここまでに登場した隧道のうち,豊崎隧道,佐須奈隧道,濃部隧道は新トンネルの開通によって廃止されている.弓張隧道は旧道ながら一応は現役である.賀谷隧道については現道として現役である (ので本企画では扱わない).

 

ところで,先の計画で2ヶ所の隧道が予定されていた佐須奈・佐護間は,実際には峠道の改修として施工され,その状況が現代まで続いていた.しかし平成29年 (2017) 12月に大地バイパスが開通し,この区間にも隧道 (美止々トンネル・大地1号トンネル・大地2号トンネル) が造られた.このことは,大正期から隧道の必要性を認識していた対馬縦貫道路計画の先進性を示していると言えるかもしれない.

軍事国道と隧道群

本節に関係する隧道: 泉,落土,佐賀,(久田,) 安神,久和,浅藻

 

現在,対馬島内を通る国道は382号のみであるが,戦前はかなり様相が異なっていた.そもそも,現在の国道は昭和27年 (1952) 公布の道路法に基づいている (382号の指定は昭和50年).それ以前の根拠法は大正8年 (1919) の (旧) 道路法であった.旧道路法における「国道」は,東京市と各地を結ぶ路線,「主として軍事の目的を有する路線」の2種類と定められていた.後者は特に軍事国道や特殊国道と称され (法律上の呼び名ではなくあくまでも通称),国道〇号のようなナンバリングがなされた.そして,対馬海峡の防衛拠点である対馬には,合計5本もの軍事国道が指定された.国道特8号,特9号,特10号,特32号,特33号である.

 

ここで重要なのは,軍事国道が「指定」されたといっても,「実態」すなわち軍用に耐える道路が整備されたとは限らない点である.軍事国道に限らず路線指定はあくまでも机上の話であり,むしろその指定を根拠に道路整備が進められたりする.対馬においても例外ではなく,「国道改築」という形で新しい車道を造ろうとする「計画」の顕れであった.

国道特32号

既に見たように,対馬縦貫道路は,大正期に着工したものの関東大震災のあおりを食らって工事が中断され,戦後まで再開されることはなかった.しかし,徐々に戦争が始まろうとしていた昭和初期,厳原と島の北部を結ぶ自動車道には国防上大きな需要があった.

 

昭和14年 (1929) 9月6日,陸軍省内務省に「対馬北部縦貫道路の道路新設促進」という文書を提出している.これは

長崎県下県郡厳原町ヨリ同上県郡ヲ経テ比田勝ニ達スル北部縦貫道路

を希望するものである 8

 

ここで初めて登場する「豊」(とよ) は,島内最北端 (比田勝より北) の地区である.当時,豊には昭和9年 (1934) 完成の「豊砲台」があった.これは島内はもちろん,世界でも有数の規模を誇る砲台で,朝鮮半島側に睨みを利かせていた (今は観光スポットと整備されているが,壮大な廃墟といった趣で,一見の価値がある).

 

さて,陸軍省の希望するルートは3か所の地名だけが指定された非常に大雑把なものであったが,島の最北端である豊以外は,当時建設が中断していた対馬縦貫道路の経由地でもあった.しかし内務省は,それとは異なるルートを提案する 8

厳原から大船越,万関を越えて仁井に至るまでは対馬縦貫道路と共通するが,そこから東海岸に出て海沿いに北上し,曽,佐賀,琴,舟志を経由して比田勝 (いまの県道39号に相当する).ここで対馬縦貫道路と合流するが,さらに東海岸沿いに北上し,泉経由で豊,鰐浦に至る.これが国道特32号である.

 

内務省は同時に,国道特33号として,仁田から「どう坂」を越えて佐護に至るルートを提案した.建設が中断していた対馬縦貫道路と重なるものである.1本の国道新設の要望に対し2本のルートを提案した内務省の真意は定かではないが,国道特32号・特33号は実際に制定され,計画路線となった.このうち,特32号上には終戦までにいくつかの隧道が造られている.

 

最も古いものは,比田勝・泉間の泉隧道で,海岸をショートカットする山越えの隧道である.興味深いことに,泉隧道の竣工は昭和7年 (1932),つまり国道特32号が制定される前のことである.この区間はもともと対馬総町村組合によって整備されていたのだ 5.なお,泉隧道は戦後の拡幅によって原型を留めてはいない.

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現在の泉隧道.

 

次に,豊の漁港から砲台に至る区間に,落土隧道が造られた.こちらは豊砲台と同じく昭和9年 (1934) 開通である.

落土隧道.

 

国道特32号から佐賀で分岐し,西に向かう道も造られている.現在の県道48号である.当時どのような道の扱いだったかは不明だが,ろくに完成していなかった対馬縦貫道路に代わって,国道特32号から分岐して西海岸の防衛施設に向かう道を作ろうとしたのではなかろうか.この路線上,佐賀に近い場所に佐賀隧道が造られている.竣工は昭和18年 (1943).意匠は一足早く開通した国道特11号の隧道群 (後述) とまったく同じであり,佐賀隧道を含むこの道が軍事目的で造られたことを強く窺わせる.

佐賀隧道.

国道特11号

ここまで述べてきた道は,対馬の中心地である厳原から北に延びる道であった.一方,厳原から島の最南端・豆酘 (つつ) を目指したのが国道特11号であった.両者を合わせることで,対馬の北から南までを結ぶ完全な縦貫道路が完成することになる.もちろん豆酘も国防上重要な地であり,豆酘崎砲台が昭和11年 (1936) 11月に着工,同14年1月に竣工している.国道特11号の工事はこれと同時期に進められており,名実ともに軍事国道であったことが窺える.

 

国道特11号が指定されたのは大正9年 (1920).ただししばらく工事は始まらず,昭和3年 (1928) 1月19日になって当時の長崎県知事・佐上信一から海軍省に,国道特11号の工事設計は完了しているので昭和3年度に着工できるよう「配慮」を願う上申書が提出され,直ちに内務省に送られている.2日後,陸軍省からも内務省に同様の要望が出されている.しかし,このときは予算の取り付けには至らず,翌年,翌々年と毎年のように働きかけが続けられた 9.その後の経過は不明だが,豆酘崎砲台の工事と同時期に本道も着工されたものと思われる.

 

厳原から出た国道特11号は「鳴呼難儀 (あなぎ) 坂」といういかにも険しそうな名前の峠道となる.とはいえ改良が進んでおり,現道は2車線の快走路である.嗚呼難儀坂の頂上に久田隧道がある.本道の最も古い隧道であり,竣工は昭和11年 (1936).ちょうどこの年に豆酘崎砲台も着工されており,強い関連性が窺える.なお,平成期に全面的に改築されるとともに,東側に下り線用の新トンネルが開通しており,当時の面影は残っていない.

 

久田隧道の先は一転して狭隘,急カーブ,急勾配の山道が延々と続く *1.その途中,3つの隧道がある.厳原側から順に昭和14年 (1939) 竣工の安神隧道昭和17年 (1942) 竣工の久和隧道昭和13年 (1938) 竣工の浅藻隧道である.3隧道 (+佐賀隧道) とも共通の意匠を有するが,戦時にもかかわらず重厚かつユニークな装飾が施されていることは注目に値する.

浅藻隧道.

 

隧道の完成時期から,この道が完成したのは早くとも昭和17年 (1942) 以降ということになる.大正9年 (1920) 国道指定から20年以上を要し,砲台もとっくに出来上がった後であった.戦後は長崎県道24号 (主要地方道) 厳原豆酘美津島線となり,引き続き島内の主要道路として利用されている.

その他の隧道

本節に関係する隧道: 阿連

ここまで述べてきたのは,国や県,総町村組合による大きな事業によって造られた道路上の隧道であった.一方,島内には地域住民による「お手製」の隧道も現存する.

 

島の西海岸,阿連地区と小茂田地区の間の行き来は波打ち際の小径が利用されていたが,その道中随一の難所には昭和8年 (1933) 頃に地元の石工が手掘りで阿連の洞門を完成させている 10

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阿連の洞門.山越えの車道が整備された今となっては廃道となっている.

対州の旧隧道群 総覧

本企画で取り上げる隧道を写真付きで列挙する.

豊崎隧道

記事はこちら

竣工: 大正8年 (1919) → 改築.

場所: [34.658497,129.449678] 上対馬町比田勝~大浦.

路線名: (旧) 国道382号 / 対馬縦貫道路.

構造: コンクリートブロックトンネル.

現状: 廃止 (書類上は現役).

備考: 土木学会選近代土木遺産Cランク 1対馬市のトンネル長寿命化修繕計画のリストに含まれているが,両坑口にフェンスが設置され,実質的に廃止状態となっている.

佐須奈隧道

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竣工: 大正15年 (1926) ? 昭和3年 (1933)

場所: [34.655969,129.410955] 上対馬町河内~佐須奈.

路線名: (旧) 国道382号 / 対馬縦貫道路.

構造: 鉱滓煉瓦トンネル.

現状: 廃止.

備考: 土木学会選近代土木遺産Bランク 1.佐須奈側は改築.

弓張隧道

記事はこちら [執筆中].

竣工: 昭和34年 (1959).

場所: [34.50238763908116, 129.3434894495546] 上対馬町樫滝~鹿見. 

路線名: (旧) 国道382号 / 対馬縦貫道路.

構造: コンクリートトンネル.

現状: 現役旧道.

備考: 交通量僅少,取付道路の状態悪し.

濃部隧道

記事はこちら [執筆中].

竣工: 昭和43年 (1968).

場所: [34.380389973021224, 129.3543980876702] 美津島町濃部. 

路線名: (旧) 国道382号 / 対馬縦貫道路.

構造: コンクリートトンネル.

現状: 廃止.

備考: 付近の擁壁に「対馬縦貫道路開通記念」の額が残る.

泉隧道

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記事はこちら [執筆中].

竣工: 昭和7年 (1932) → 昭和54年 (1979) 拡幅改築.

場所: [34.66732463712099, 129.4721794063642] 上対馬町西泊~泉.

路線名: 対馬総町村組合道路 泉・仁井線 → 国道特32号 → 長崎県道182号大浦比田勝港線.

構造: 煉瓦トンネル → コンクリートトンネル.

現状: 現役.

備考: 隧道付近に昭和7年当時の関係者名を刻んだ題額が残る.

落土隧道

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竣工: 昭和9年 (1934).

場所: [34.69515881070997, 129.44989333949417] 上対馬町豊~鰐浦.

路線名: 国道特32号 → (旧) 長崎県道182号大浦比田勝港線.

構造: コンクリートブロックトンネル.

現状: 現役旧道.

備考: 交通量僅少.

佐賀隧道

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竣工: 昭和18年 (1943).

場所: [34.457317881789166, 129.35682009746665] 峰町佐賀~吉田.

路線名: 軍道? → (旧) 長崎県道48号木坂佐賀線.

構造: コンクリートトンネル.

現状: 現役旧道.

備考: 佐賀側に大きな補修痕あり.

安神隧道

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竣工: 昭和14年 (1939).

場所: [34.14618152972965, 129.26215017389572] 厳原町安神~久和.

路線名: 国道特11号 → 長崎県道24号厳原豆酘美津島線

構造: コンクリート (ブロック?) トンネル.

現状: 現役.

備考: 近代土木遺産Bランク 1.内部はライナープレートで補修.

久和隧道

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竣工: 昭和17年 (1942).

場所: [34.12887052324783, 129.2433912496691] 厳原町久和~与良内院.

路線名: 国道特11号 → 長崎県道24号厳原豆酘美津島線

構造: コンクリート (ブロック?) トンネル.

現状: 現役.

備考: 近代土木遺産Bランク 1.内部はライナープレートで補修.

浅藻隧道

記事はこちら [執筆中].

竣工: 昭和13年 (1938).

場所: [34.11132093567908, 129.22337372076848] 厳原町豆酘内院~浅藻.

路線名: 国道特11号 → 長崎県道24号厳原豆酘美津島線

構造: コンクリート (ブロック?) トンネル.

現状: 現役.

備考: 近代土木遺産Bランク 1.内部はライナープレートで補修.

阿連の洞門

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竣工: 昭和8年 (1933) 頃.

場所: [34.261934969194826, 129.1927299733277] 厳原町阿連.

路線名: 村道? → 廃道.

構造: 素掘りトンネル.

現状: 廃止.

備考: 島内唯一の素掘りトンネル.中央部は崩落.

参考文献

  1. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 266-267,土木学会.
  2. 厳原町編集委員会・編 (1997) "厳原町誌" pp. 121-124,厳原町
  3. 対馬教育会・編 (1940) "対馬島誌" pp. 100-101,対馬教育会.
  4. 上対馬町誌編纂委員会・編 (1985) "上対馬町誌" pp. 606-609.
  5. 対馬総町村組合百年史編纂委員会・編 (1990) "対馬総町村組合百年史" pp. 54-56 / 421-433 / 716-719,対馬総町村組合.
  6. 松尾銀次 (1930) "対馬近代史" pp. 280-284,対馬日日新聞社.
  7. 峰町誌編集委員会・編 (1993) "峰町誌" pp. 173-174,峰町.
  8. 松波成行 (2010) "大正・旧国道をゆく (6) 日本の防人:対馬の国道(1)~国道特三十二号:最長の軍事国道~" 道路,Vol. 836,pp. 33-37,日本道路協会.
  9. 松波成行 (2010) "大正・旧国道をゆく (8) 日本の防人:対馬の国道(3)~国道特九号から特十一号:土木遺産の隧道群をめぐる道筋~" 道路,Vol. 840,pp. 47-51,日本道路協会.
  10. プレスマンユニオン編集部 "阿連の洞門 - 日本旅マガジン" 2023年5月31日閲覧.

*1:令和4年 (2022) 3月に尾浦トンネルが開通し,久田隧道から2kmほどは改良された.私が探訪した時点では未開通だったが.