交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

対州の旧隧道群【2/10】豊崎隧道 (2022. 2. 2.)

対馬縦貫道路最初の工区に造られた,対馬島内最古の隧道.

 

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はじめに

大正7年 (1918) に着手された対馬縦貫道路 (比田勝・厳原間,いまの国道382号) の工事は,島北部の比田勝港から南に向かって進められた.その最初の難所がおよそ2km地点に聳える山塊であり,ここに島内最古となる隧道・豊崎隧道が造られた.

場所: [34.658434,129.450016] (世界測地系).

 

本隧道は昭和48年 (1973),新道 (比田勝トンネル) の開通によって旧道となった.そこまでは簡単にわかるのだが,その後の状況に関する情報が乏しい.ストリートビューがないのは当然として,実際に訪ねたというWeb情報・書籍情報がまったく見つからないのだ.

 

探訪記録以外の紙上情報はいくらかあった.しかしそれらも錯綜していた.まず,本隧道を知るきっかけとなった土木学会の「日本の近代土木遺産1 は,供用廃止を意味する (廃) の記号を付与した上で,

アーチ環だけでなく、ピラスター・笠石部にも石積み風の加工(珍しいデザイン)/アクセス徒歩10分

としている.「徒歩10分」の記述が実際に誰かが現地を確認したことを示唆しているのであれば,やはり廃止されているように思えてくる.一方,現在の道路管理者である対馬市の資料 2 を見てみると,豊崎隧道は点検・修繕の対象として登場しており,現役であることを感じさせる.できれば現役であってほしいが,どうだろうか.

 

また,外観もよくわからなかった.本隧道の写真は少ないが,まず最初に見つけたのは「長崎県の近代化遺産」3 に載っていた写真であった.

この写真は,上で引用した「日本の近代土木遺産1 の記述に合致する.

 

一方,「上対馬町誌」4 を見てみると,次のような写真が載っている.

さらに「対馬総町村組合百年史」5 に載るのは次の写真である.

いずれの写真にも総切石造りの立派な坑門が写っている.明らかに先ほどの写真とは違う姿である.どういうことだろうか?

 

また,竣工年も大正8年 (1919) 4, 5大正14年 (1925) 1, 3昭和3年 (1928) 2と資料によってばらつきがある.いったいどれが正しいのか.

 

いくつもの疑問を抱えつつ,現地へ赴いた.

探訪

比田勝側旧道

2022年2月2日,対馬旅行の3日目に現地を訪ねた.

 

朝一番で比田勝港までやってきて,みなとオアシスの駐車場に車を停めさせていただいた.ここから国道382号を西に歩く.対馬の隧道の大半は駐車スペースに困らなかったのだが,ここは例外で,旧道入口まで1kmほどの徒歩進軍が必要であった.

 

道中,豊崎神社に参拝.旅の安全を祈る.

 

ほどなく山間部に入る.

 

ここが旧道入口である.頭を突っ込んで駐車しているのは隣の建設会社の関係者の車であろう.こんな停め方が許されている時点で,旧道の状況は推して知るべしというところである.

 

入口には「NO ENTRY 通り抜けできません」の看板がある.一応書類上は現役の市道として扱われているはずなのだが.

 

少し先で振返り.人目がないうちにさっさと進入してしまう.

 

舗装は見えないが,歩きにくい道ではない.車も通れないことはないだろう.しかし折れた電柱が放置されているなど,廃道の香りが強い.

 

やつれた道をぐんぐん上る.

 

ふと路肩を覗くと,結構高いところまで来ていた.

 

このあたりまで現道に沿って高度だけを上げてきたが,ここからは西に外れ,現道とは別の尾根を目指す.

何か落ちている…?

 

道路標識!!!

 

30km制限と駐車禁止の標識が落ちていた.この道にあったものと断定はできないが,これら規制が自然な道ではある.

 

落石や倒木が多い道を先へ進む.左奥に見えるのは養蜂箱.島内の色々な場所で見たが,主にここのような廃道敷に設置されていた.

 

どこから来たのか,いつの間にか送電線が脇を通っていた.これは現役のものであろう.

 

ところどころ路肩が崩落している.これでは四輪車は通れないだろう.

 

ここまで一緒だった送電線は,左側のコンクリート塊に吸い込まれていった.何の設備だろう?

隧道

電線と別れてからはすぐだった.にわかに増えた倒木を踏み越えると……

あった……!!!けれども……あまり嬉しくないものも見える……

 

豊崎隧道,大正8年 (1919) 竣工 (後年改築),近代土木遺産Cランク 1

 

豊崎隧道は廃止されていた.坑口にはフェンスが設置され,取付道路は荒れ放題で放置されている.この状況でなぜ市の台帳に残っていて (=現役扱い),点検・修繕の対象となっているのか.至近の佐須奈隧道は,廃止され資料からも抹消されているのだが.どうも市の意図がよくわからない.

 

坑門.モルタル洗い出しの壁面に,コンクリートブロックで迫石とピラスター,笠石が表現されている.古典的かつシンプルな意匠だが,コンクリブロックゆえの軽快さが心地よい.

 

この意匠は,明らかに「長崎県の近代化遺産」に掲載の写真 (これ) と同じ姿であり,「日本の近代土木遺産」の記述にも合致する.一方,「上対馬町誌」の写真 (これ) や「対馬総町村組合百年史」の写真 (これ) とは異なる.

 

実は本隧道,大正8年 (1919) に開通したのち,拡幅・改築を受けている.その経緯は総説でも述べたが,もとは対馬縦貫道路の一部として,大正8年対馬総町村組合の主導で造られた.翌9年 (1920) に (旧) 道路法が施行されると,縦貫道路は県道となり,潤沢な国庫・県費の補助を受けた13ヶ年継続の壮大な事業がスタートした.そのなかで,豊崎隧道は早くも幅員不足が指摘され,改築が必要と判断されたのだ.事業は大正12年 (1923) の関東大震災の影響もあってほとんど着手されなかったが,おそらく豊崎隧道は,この過程で改築されたと考えられる.それが「日本の近代土木遺産」に記された大正14年 (1925) なのか,市の資料に記された昭和3年 (1928) なのか,それとも関東大震災より前なのか,非常に気になるが不明である.

 

扁額.植物に遮られて見にくいが「豊崎隧道」.この時代としては珍しい左書きである.竣工年や揮毫者の情報はない.

 

アーチ環の凸凹も心地よい.

 

振り返って.坑口前が特に荒れている.これほど酷いならわざわざフェンスを設置しなくてもよさそうなものだが,あるいはフェンスを設置してからこれほど荒れたのか.

 

内部の景.側壁は場所打ちコンクリート,そしてアーチは私の大好きなコンクリートブロック組積である.

 

緻密に積まれたコンクリートブロックアーチが美しい.

 

路面は乾いていた.崩落もなく,歩くことに支障はなかった.

 

比田勝側を振り返って.

 

中央付近.なぜか現地では気付かなかったのだが,後で写真を見返すと側壁が素掘りとなっている.この部分だけ岩盤が堅かったのだろうか.

 

 

先に進む.出口が見えてきた.意外なことにフェンスが見えない.しかし,何か様子がおかしいような……

 

いつの間にか足元はサラサラした砂地となっていた.明らかに外から砂が流れ込んできている.フェンスが見えなかったのは,土砂に埋もれていたからであった.

 

坑口付近ではアーチがこんなに近くに……

 

脱出.

豊崎隧道,佐須奈側坑門.相当の埋もれ具合である.坑口を塞いでいたはずのフェンスはそろそろ押しつぶされそうだ.

 

 

背後の山にはろくに木が生えていない.ここから土砂が流入し,路面に溜まったのであろう.

佐須奈側旧道

隧道を後にして先に進む.このまま佐須奈側に抜けてしまい,そこから現道の歩道を歩いて比田勝に戻る計画だ.

 

荒れてはいるが道形ははっきりしている.

 

道の左側が大きく窪んでいる.水は流れていないが,川であろう.

 

ときどき川側から路肩工を観察する.古い石垣や真新しい路肩工など変化に富んでいる.要所で補修されているということは,この道自体は今でも現役,あるいは最近まで現役だったということであろう.

 

隧道から20分ほど下ったところで分岐となった.旧縦貫道路は右であるが,なにやら看板が建っている.

 

比田勝側の旧道入口でも見た「通り抜けできません」であった.私はここまで通り抜けてきたのだが.ともかく,ここまでくればもう現道に抜けられるだろう.

 

少し進むと唐突に廃車体が現れた.

 

その奥は建設会社の敷地の中を通る道となる.ここも書類上は市道である.会社敷地に侵入するかのようで少し躊躇したが,ここから戻るのも大変なので,何食わぬ顔をして歩いて行くことにした.

 

特に誰何の声はかからないまま建設会社を過ぎた.その先に中途半端に古風な橋が架かっている.阿香橋,昭和43年 (1968) 竣工.デザイン的には昭和20~30年代かと思っていたのだが,予想より新しかった.昭和40年代でもガードレールではないところが離島らしさなのかもしれない.

 

橋を渡るとすぐに現道と合流する.通り抜けられた!

 

振返り.右から出てきた.旧道区間を踏破できたことに達成感を覚えた.

帰路

車を停めた比田勝港までの3kmを,現道の歩道を歩いて引き返した.旧道と比べると非常に緩い勾配で,豊崎隧道に代わって造られた比田勝トンネルに至った.

比田勝トンネル,昭和48年 (1973) 竣工.

 

トンネルを抜け,右手側の遥か高い山腹を横切る旧道を眺めながら歩く.ほどなくして最初に旧道に入った分岐点に到着.本日3回目となる「通り抜けできません」の看板がちらと目に入った.最後に豊崎神社にもう一度お参りし,車を停めた港の駐車場まで戻った.旧道と比べ,アップダウンが皆無に等しい現道であった.出発から3時間ほどが経過していた.

まとめ

対馬島内で最初に造られた隧道・豊崎隧道を訪ねた.本隧道は大正8年 (1919),対馬縦貫道路の最初の工区に造られ,のちに拡幅されている.この改築がいつ実施されたのかは,現地でも明らかにならなかった.

 

モータリゼーションの進展に伴い,昭和48年 (1973) に現道の比田勝トンネルが開通し,豊崎隧道は一線を退いた.平成10年 (1998) 発行の「長崎県の近代化遺産」の写真を見る限り,旧道となってからもしばらくはフェンス等もなく,通行可能な状態が保たれていたようだ.旧道沿いに集落や施設は皆無であるから,おそらく林業用に使われていたのであろう.しかしながら,2022年2月2日探訪時点で両側の坑口はフェンスで塞がれ,しかも佐須奈側は山から流出した大量の土砂が坑口を半ば埋没させていた.

 

本隧道は対馬島内最古の隧道である.長崎県内でも道路用としては現存最古級と思われる.有名な日見隧道でさえも大正15年 (1926) 竣工なのだ.また,開通当初のものではないとはいえ特徴的な装飾を有し,美観に優れている.内部についても今どき少なくなったコンクリートブロックアーチが,大規模な補修を受けることも崩落することもなく保存されていることは注目に値する.このように土木遺産としての価値は高く,対馬の史跡のひとつとして認められてほしいと思う.

 

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参考文献

  1. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 266-267,土木学会.
  2. 対馬市 (2020) "対馬市トンネル長寿命化修繕計画" 2023年6月18日閲覧.
  3. 長崎県教育委員会・編 (1998) "長崎県の近代化遺産:長崎県近代化遺産調査報告書 (長崎県文化財調査報告書第140集)" p. 165,長崎県教育委員会
  4. 上対馬町誌編纂委員会・編 (1985) "上対馬町誌" p. 608,上対馬町役場.
  5. 対馬総町村組合百年史編纂委員会・編 (1990) "対馬総町村組合百年史" p. 430,対馬総町村組合.