交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

(旧) 国道151号 本郷隧道 (2022. 3. 20.)

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愛知県東栄町.廃止後も良好な状態で保存される,大正期の道路用煉瓦隧道.

 

はじめに

豊橋東海道から分かれて北上し,東栄町 (別所) を経て長野県飯田に至る別所街道 (現・国道151号).その最難所たる与良木峠をバイパスする本郷隧道を訪ねた.

場所: [35.0638, 137.70303] (世界測地系).豊橋側から来ると,この峠を越えることで設楽盆地の中心地・東栄町本郷地区に入ることになる.

開通の経緯 

※以下,特筆しない限り出典は「東栄町誌」1

 

別所街道は近世以前からの道筋ではあるものの,その頃の幅員は1間 (約1.8m) から広くて2間 (約3.6m) 程度であった (現代の道路は1車線が3.5m) .明治に入ると,別所街道は県道に認定され,明治18年 (1885) から全線を2間に拡幅する工事が進められた.与良木峠では,近世以前の直登する道を改め,車馬の通行を意図した九十九折の峠道が施工された.山間部ゆえに工事は容易でなく,地元住民にも多額の税金や潰地という負担が課されたが,明治30年 (1897) には東栄町内は改修が完了している.明治33年 (1900) には豊川鉄道 (現・JR飯田線) 大海駅の開業を契機として,大海駅から川合・与良木峠を越えて本郷に至る幌付き馬車が運行されるようになった.

 

元号が変わって大正に入ると,山深い当地でも自動車が利用されるようになった.苦労の末に完工した明治期の大改修も,自動車には幅員・勾配ともに厳しいものであった.大正8年 (1919) には,本郷と川合・大海を結ぶ馬車は東三自動車運輸の乗合自動車となったが,特に与良木峠は自動車にとっては大変な悪路であり,当時の新聞に「命掛けの自動車」として紹介されていた.

東三自動車の乗合自動車.「東栄町誌」1 より.

 

こうした状況を受け,さらなる道路改修が進められた.与良木峠にはその直下に本郷隧道が建設された.三輪村池場の県議・金田治平の奔走によるところが大きいと伝えられており,大正8年 (1919) 1月に着工,同10年12月に完成をみた 2.総工事費は10万円を数えたという.

 

工事中の本郷隧道.「東三河今昔写真集」3 より.

 

同じく「東栄町誌」1 より.

探訪

最初に北側すなわち本郷側を.坑口直前で東に分かれる道があるので,そこを入ったところに駐車した.

 

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北側は新旧の坑門が仲良く並んでいる.左が昭和63年 (1988) 竣工の新本郷トンネル,右が今回の目当て,本郷隧道である.

 

本郷隧道を見に行く前に,上の写真左側に小さく写っている石碑を見る.

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新本郷トンネルの開通記念碑である.

 旧本郷隧道は別所街道の険阻を極めた与良木峠が開削
され爾来六拾有七年。
今時代の変遷と共に新本郷トンネルの開通を祝し、東三
河と南信地方とを結ぶ大幹線道路として地域の大発展を
祈る。 茲に記念の碑を建立し後世に残すものである。

        1989.2.16.

新トンネルが開通しても,旧隧道の功績が忘れられないようしっかり言及しているのが好ましい.

 

さて,旧隧道である.

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本郷隧道,大正10年 (1921) 竣工,近代土木遺産Cランク 4

 

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切石布積みの端整な坑門.

 

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扁額.右から「ほんがうずゐだう」と平仮名なのが珍しい.その下には「大正十年十二月開通」.

 

坑口を塞ぐフェンスから中を望む.

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布積みの側壁に煉瓦アーチ!路面に引かれた線も残っている.

 

貫通しているから向こうの光も見えているが,決して近くはない.本隧道の延長は320m,今でこそ普通の長さだが,大正期としては愛知県下最長の道路隧道であったという 2

 

洞内は大変美しく,ぜひ入洞したかったが,施錠+有刺鉄線の高いフェンスを突破する必要がある上,現道からも丸見えだったので自重した.

 

振り返って.

 

続いて新トンネルを通って南側すなわち豊橋側へ.

新本郷トンネル南口.左に分かれる旧道へ.

 

少し狭い道を進む.

 

ほどなく崖を削って造られた1車線幅の道となる.前方には暗い「穴」が見えている.

 

本郷隧道,南口.全てを吸い込んでしまいそうな不気味な穴である.北側と違って無装飾・無機質なコンクリート坑門だからそう見えるのだろうか.

 

扁額は藪に覆われてしまいほとんど視認できない.かろうじて右から「本郷隧道」とあるのが見える.そして,拡大して注視してみると,「本郷隧道」の下にもうひとつ扁額があり,「昭」らしき文字が見える.「昭和八年三月修繕」とあるようだ 5

 

大正10年 (1921) 竣工の本隧道は,当初はこの南側も石造坑門を有していた (写真が残っている 5).「愛知県の近代化遺産」2 は,古老の話として,

トンネルの南口で昭和6年に山崩れがあり南坑口が削り取られ昭和8年に修理がコンクリートにて行われ、

という経緯を紹介している.

 

ところで,昭和8年 (1933) にコンクリートで改築されたとしても,今から90年も前の話である.その時代の坑門としてはあまりにも無装飾・無機質すぎるようにも思う.昭和恐慌の影響が尾を引いていたのか.あるいは,少し南で同時期に建設されていた三信鉄道 (現・JR飯田線) の影響かもしれぬ.近代の隧道であっても鉄道用のものは一般的に無装飾であるから,三信鉄道と同じ業者が施工したのだとすれば,本隧道の無機質な坑門工にも納得がゆく.

 

坑門に残る高さ制限標識.

 

こちらは北側と違って坑口前にフェンスがなく,少しだけ立ち入れるようになっている.

その理由がこれ.坑道の一部がゴミ集積所として活用されているのだ.

 

覆工を見る.坑口側 (左) は全面コンクリート,内側 (右) には布積みの側壁が見えている.坑門の改築時,坑道も少しだけコンクリート巻き立てで延長されたのであろう.内側の石側壁の上に煉瓦アーチは見えないが,これはコンクリートが吹き付けられているためだ.

 

そのコンクリート吹付けもはっきり言ってボロボロである.剥がれた部分から煉瓦が露出し,ここが当初確かに煉瓦アーチであったことを教えてくれている.

 

フェンスから内部を覗く.日の光は背後の森に隠され,本隧道の内部には光が届かない.

 

北側と比べ,南側はコンクリート吹付けや鋼板による補修が目立つ.坑門も改築されているし,もともと地質がよくなかったのかもしれぬ.天井に煉瓦アーチが露出しているのが嬉しい.

 

時間が既にかなり遅くなっていたので,こちら側も無理に立ち入ることはやめておいた.しかし,特に北側の保存状況は大変良好そうなので,ぜひとも中を歩いてみたい.遊歩道としてでも開放してくれないかな.新トンネルに歩道があるので可能性は限りなく低いだろうけど.

参考文献

  1. 東栄町誌編纂委員会・編 (2007) "東栄町誌" 自然・民族・通史編,pp. 口絵 / 1260-1270,北設楽郡東栄町
  2. 愛知県教育委員会生涯学習文化財保護室・編 (2005) "愛知県の近代化遺産:愛知県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" p. 180,愛知県教育委員会生涯学習文化財保護室
  3. 大林淳男・監,原田直美・編 (2005) "東三河今昔写真集" p. 104,樹林舎
  4. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 140-141,土木学会.
  5. へちまたろう (2015) "與良木峠と本郷隧道 その3 – HETIMA DIARY" 2023年9月18日閲覧.