交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

国道303号 水坂トンネル~寒風トンネル旧道【後編】 (2021. 6. 10.)

前編中編より続く.かつて2車線の幹線国道として活躍し,今は徐々に自然に還りゆく国道303号寒風トンネル旧道の,西側の現状をレポートする.

目次

寒風トンネルと新寒風川橋

寒風トンネル旧道の東側を探索した私は,引き返して寒風トンネルを通り,西側に抜けてきた.

 

まずは現道から.

寒風トンネル,西側.アーチのみが露出し,坑門らしい坑門もないほどシンプルな意匠である.山を貫くだけでなく,ロックシェッド的な目的で少々延長されているのかもしれない.

 

そして寒風トンネルを出た直後,現道は寒風川を橋で渡る.上の写真でトンネルの手前に緑色の欄干が見えるが,その部分である.

新寒風川橋,昭和53年 (1978年) 3月竣工.隣接する寒風トンネルの竣工が1980年 (現地銘板より) だから,同時期に架けられ,その後現在に至るまで活躍しているということだ.

 

しかし注意すべきことは「新」である.新があるということは旧がある.そしてその旧橋は,これから探索する旧道にある.

探索開始

新寒風川橋を渡ったすぐ先に,南側に分岐する道がある.そこを塞ぐガードレールを越えて振り返った風景がこちら.

向かって右側が新寒風川橋.写っている車は勿論私のものではない.私と同じように探索している人が居るなら少々気まずいな,と思ったが,結局車の持ち主に出会うことはなかった.釣り人のものと思われる.

 

前を向くと,

2車線道路が自然に還りゆく,素晴らしい廃道風景.

歴史の道

上の写真の地点では,嬉しい発見があった.右側の斜面の途中に,

2つの石碑が,仲良く並んで立っていた.

 

まずは左の方から.

文政十三庚寅八月

祈請道■

旅行安全牛馬■

尾川

と書かれている (■は判読不能).先人の記録には,どうしてかほとんど登場していなかったのだが,2006年にmixiに投稿された遍路日誌 1 だけが唯一内容に言及していた.それによると,中央の文字は「祈請道祖神」,旅行安全~のところは「旅行安全牛馬聖浄」だったようだ.なるほど確かにそれなら意味が通る.

 

ともかく,これは明治どころではなく,江戸時代の文政13年 (1830年) のものだという.当時の道がここを通っていたのか,それとも車道工事の際に移設されたのかはわからないが,自動車が走るより前の時代からこの道が重要で,日々多数の人馬が往来していたことが窺える.さすがの鯖街道である.

 

その右にあるのは,

これなら私でも判読できる.「南無阿弥陀仏」に違いない.その左右にも文字が刻まれているが,残念ながらそれらは判読できない.右側は「道■」に見えるから,これも「道祖神」かもしれない.左は揮毫した人物の名前か雅号だろうか?

 

道路の歴史を物語るこれらの石碑が,現在は人目に触れることなく,廃道区間に放置されている.あまりに勿体ない.せめて現道の脇に移設することはできないものか.

廃車体

先へ進む.この写真の右奥には,道路上にもかかわらず樹木が生えているが,その向こうにあったのは,

廃車体.先人の記録にも登場していたものだが,突然だったので少々たじろいだ.

 

違う角度から.

明らかに廃道化後に持ち込まれたものだが,部品はほとんど抜き取られ,松の木が窓を突き破って車内に侵食している.哀れにも程がある.

落石注意

廃車体の先には,これまた印象的な光景が待っていた.

多数の落石に囲まれた「落石注意」の看板.山間部ではよく見る標示だが,実際に落石に遭遇することは多くない.しかしこの光景は,「落石注意」の標示が決して大げさではないことを物語っていた.

 

そこから少し戻ると,

もはや,落石に注意してどうにかなる状況ではない.

寒風橋

廃車体の先には

これこそが,本記事の冒頭で紹介した新寒風川橋の,先代の橋である.およそ10年前に刊行された「廃道をゆく 3」2 では「十年後も健在だろうか?」と書かれていたが,未だその姿を留めていた.陰になっているので構造はわかりにくいが,プレートガーダー橋だろうか.

 

橋上の風景.

下草が生えているだけで,意外にも綺麗な状態である.右に写っている看板は,

真横の採石場の「発破注意」だった.記載の発破予定時刻には居合わせなかったが,今でもこの時刻に発破が行われているのだろうか.

 

手前 (西側) の向かって右側の親柱には,

元は銘板がはめ込まれていたと思われるが,今は何の情報も得られなかった.

 

左側はもっと凄まじい.

橋台手前の路肩が大きく陥没している.風水害の影響か,それとも発破の影響か.そして親柱が見当たらないと思えば,

こんなところにあった.辛うじて落ちずに踏みとどまっていたが,接近は諦めた.

 

東側に渡る.こちらの親柱は,

幸いにも原形を留めていた.名称は「寒風橋」だった.

 

なお,橋の西側からは,さらに南に延びてゆく分かれ道が確認できた.

すぐに大きく崩れてしまっているので,深追いはやめておいた.一応1963年の航空写真でも,道は確認できる.

十字の位置が寒風橋で,その西側から南東に延びる道が確認できる.採石場ができる前の林道だろうか?

探索の終わり

橋を後にしてさらに進む.

まだセンターラインが残っているのが好ましい.

 

奥に見える左カーブを過ぎると,状況は一変した.右を向くと,

ガードレールごと,路肩が崩壊していた.

 

また,特に印象的だったのは,この光景だ.

おそらくかつてデリニエータだったものを支柱として,樹木が成長していた.自然の力は凄まじい.

 

そして,終点が見えてきた.

これは,中編で見た大規模な崩落地点に他ならない.反対側からであっても,私には越えられないと理解するのに時間はかからなかった.撤退である.

 

来た道を戻り,現道に復帰した.来る時は気付かなかったが,旧道分岐の地点には監視カメラが設置されていた.不法投棄対策だろうが,やや気まずい思いをしながら現地を後にした.

おまけ: 若狭町熊川の人道兼用水路橋

帰りのバスは発車したばかりで,次の便まで50分もあった.ベンチも何もない山中で待つ気にはなれなかったので,国道を1.5kmほど歩いて「道の駅 若狭熊川宿」に向かうことにした.途中,歩道が途切れたので集落を通る旧道に逸れた.そこで見つけたのは,

非常に可愛らしい橋である.水路橋の上に蓋をして,人が歩けるようにもなっていた.

 

歩けるとは言っても,

両足を載せられる幅ではない.つまり忍び足で歩かなければならない.

 

迷ったが,渡らなかった.平均台が得意ではない私にはレベルが高いと判断した.何しろ鈴鹿隧道での失敗から2週間しか経っていない.無茶をする気にはなれなかった.

 

最後に,横から見た橋の姿を.

コンクリート造りで,さほど古いものではないと思われる.技術的に珍しいわけでも,特段凝った意匠があるわけでもない.それでも,眺めていて落ち着くような良い橋だった.

参考文献

  1. mixiユーザー (2006) "[mixi]遍路日誌2005 - 西国三十三所巡礼 | mixiコミュニティ" 2021年7月25日閲覧.
  2. のがなあつし (2011) "国道303号旧道 寒風トンネル" 廃道をゆく 3,pp. 74-75,イカロス出版