交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

対州の旧隧道群【4/10】弓張隧道 (2022. 2. 1.)

対馬市上県町.戦後再開された対馬縦貫道路の工事によって造られた隧道.

 

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はじめに

現在国道382号となっている対馬縦貫道路には多数の隧道が存在する.最も古いものは大正8年 (1919) の豊崎隧道,次が昭和3年 (1928) の佐須奈隧道であった.しかしその後は国庫補助の中止や戦争激化の影響で,実に30年以上の空白期間が続いた.そして昭和34年 (1959),ようやく3番目の隧道である弓張隧道が建造された.今回はそんな弓張隧道の功績と現状をレポートする.

場所: [34.5023889, 129.3435278] (世界測地系).

歴史

対馬の中心地・厳原と北の玄関・比田勝とを結ぶ対馬縦貫道路は,産業的にも軍事的にも重要視されていた大事業であったが,大正12年 (1923) の関東大震災の影響で国庫補助が途絶え,第二次大戦の終結までに全通することはかなわなかった.

 

戦後の昭和25年 (1950),戦災復興と産業発展のために国土総合開発法 (現・国土形成計画法) が制定され,翌26年には対馬が19の「特定地域」のひとつに選ばれた.さらに,長崎県が中心となった働きかけにより,昭和28年 (1953) には離島振興法が成立した.これらによって対馬では,国の助成を受けたインフラ整備が可能となり,特に道路と港湾の整備に主力が注がれた 1.例えば,対馬の南北を分かつ万関瀬戸 (明治期に海軍によって開削された運河) を跨ぐ万関橋は,昭和28年から3年の歳月と約3,300万円の工費を以て鋼アーチ橋に架け換えられた (再度の架換えにより現存しない)2.これは戦後における対馬縦貫道路建設再開の嚆矢となった.

 

戦前に開通していた比田勝から佐須奈村までの区間 (豊崎隧道・佐須奈隧道を含む) を厳原方面に延長する工事も,離島振興法の助けを得て進められた.なかでも随一の難所とされたのは,仁田村 (→佐須奈村と合併して上県町) の樫滝地区・鹿見地区の弓坂と呼ばれる急坂の峠道であった.ここは旧峠の1.2kmほど南東に,延長138mの弓張隧道が造られた.竣工は昭和34年 (1959) 7月で,大変な難工事であった 1 と伝えられているが,その詳細は定かではない.しかし厳原側の麓に架かる「ゆくみ橋」が昭和28年 (1953) に竣工していることから,隧道を含む道路改修事業は離島振興法の成立直後に開始され,約6年もの歳月が費やされてようやく完成したものと考えられる.

 

弓張隧道の完成により,比田勝から佐須奈,仁田,三根を経て仁井港までが一本の道路で結ばれるようになり,この区間には乗合バスも運行されるようになった 1

対馬は万関瀬戸の開削によって南北ふたつの島 (それぞれ下県・上県と呼ばれる) に分かれているが,仁井港からは下県の樽ヶ浜まで連絡船があり,樽ヶ浜から先は戦前に軍道として車道が整備されていたので,バス・連絡船・バスと乗り継ぐことで対馬北部から厳原へアクセスするルートが確立された *1

 

対馬の交通の近代化に大きな役割を果たした弓張隧道も,対馬縦貫道路の全通後は急速にモータリゼーションが進んだことから,その幅員や前後の線形が問題視されるようになり,昭和62年 (1987) にバイパスとなる新弓張トンネルが開通した.その後も対馬市道として一応は現役であるが,旧道沿線は無住地帯であり,主に林業関係の車両が通行するのみとなっている.

探訪

2022年2月1日,初めての対馬旅行の2日目,現地を訪ねた.

 

最初に恥ずかしながら記しておくが,本隧道を訪ねる際,私は大きな勘違いをしていた.弓張隧道を含む新弓張トンネルの旧道を,新弓張トンネルの手前から分かれて登る,以下の赤線のような経路だと思っていたのだ.

しかし実際は,旧道はもっと南側から始まっており,以下の青線のような経路であった.

地図をしっかり見ていればわかったはずだが,事前調査の不足により,この事実に気付いたのは帰宅後であった.そんなわけで,現地では1枚目のルートを旧道だと思い込んで歩いていた.こんな狭くカーブも急な道を本当にバスが通っていたのだろうか,などと思いながら.

 

本当の旧道上には前述の「ゆくみ橋」も現存するようであるし,しかもストリートビューがないため現況がわからないから,次に対馬に行く時には,きちんとたどってみようと思う.

 

ともかく,私は新弓張トンネルの南で脇道 (県道189号) に逸れ,現道を潜った先の路傍に車を停めた.これから歩く道は現状が不明で,廃道になっているかもしれないと考え,徒歩で隧道に接近することにしたのである.

 

ここは林道の入口であるが,現地では旧道だと思い込んでいた.奥で伐採作業が行われている気配を感じるが,気にせず進入.

 

舗装されているが,ダンプやユンボが頻繁に通るのか,砂が散らかっている.

 

谷底ではユンボが大きな音を立てながら伐採にいそしんでいた.

 

山側を見上げる.高い位置にあるガードレールがこの道の続きである.2回のヘアピンカーブであそこまで登る.

 

第1ヘアピン.林業関係者のものと思しき車やキャタピラ付きの車両が停まっていた.この時点で,こんな急カーブをバスが曲がれたのだろうかという疑問が浮かんだ.そして車を置いてきて本当によかったと思うのであった.切り返さずに曲がれたとしても,キャタピラ車が道を塞いでいて通り抜けられない.

 

落葉が多く堆積している道を進む.依然舗装されているが,このあたりはあまり車両が入らないようだ.

 

第2ヘアピン.

 

そこからはすぐであった.正面に石積みの擁壁が見えてくると…

 

弓張隧道,昭和34年 (1959) 竣工.特段の装飾はないが,陽の光をいっぱいに浴びた姿は清々しい.

 

扁額には「弓張隧道」.戦後らしく左から右である.「昭和三十四年三月開通」「長崎県知事 佐藤勝也」の文字も見える.

 

左右に控える矢筈積みの土留め壁が美しい.ちゃんとした写真は撮りそびれたが隧道上部にも同様の土留めが施されている.

 

内部を見る.照明はないがさほど長い隧道でもないので出口の光は見えている.当然のように洞内全体が現場打ちコンクリート覆工である.

 

古い構造物の宿命か,坑口付近に嫌な亀裂が走っている.

 

 

比田勝側.こちらも厳原側と同じ外観である.日当たりが悪いせいで暗い印象になってしまった.

 

こちらにも矢筈積みの土留め壁.

 

隧道への進入路が急カーブであるため,カーブミラーが設置されていたようだが,支柱を残して失われていた.「点灯せよ」の標識の手前にある白い支柱も,高さ制限か何かの標識の遺構であろう.旧道とはいえ一応は公道 (市道) のはずなのだが,新トンネルが開通した今となっては,金をかけて復旧するほどの交通量はないということか.

 

ここから先も旧道をそのまま歩く.今度は単なる林道ではなく本当に旧縦貫道路である.

普通車程度なら通行可能であろうが,道路の状態は良いとは言えない.土砂崩れを防ぐために吹き付けられたコンクリートはひび割れ,中の岩石が見えている.

 

真新しいコンクリート舗装の造林作業道が合流する.旧道が封鎖されずに残っているのはやはり林業用なのだなと実感する.

 

 

現道と交差する地点.この真下が新弓張トンネルの比田勝側坑口のはずだ.写真ではわからないが,高速で通過する車の音がひっきりなしに聞こえていた.

 

再び支柱だけになったカーブミラー.

 

現道に向けて最後の下り坂.路面の端から木が生え,道幅の半分を覆うまでに育っているのを見て呆気にとられる.路上には軽トラ一台分の轍しか残っていない.

 

無事現道まで下りて振返り.

 

現道を厳原方面に引き返す.2車線の立派な道路であるが歩道はなく,歩くのは少々恐ろしかった.もっとも歩行者など皆無の山岳地帯であるから仕方ないのだが.

 

数分歩いて新トンネルにたどり着いた.

新弓張トンネル,昭和61年 (1986) 竣工.特段の面白味もない無装飾のコンクリートトンネルである.

 

内部も現代的な普通のトンネル.狭いながらも歩道があるのがありがたい.線形は緩やかなカーブで,延長は旧隧道の倍以上となっている.

 

抜けて厳原側.

 

このまま歩いて車に戻った.探索に要した時間は約40分であった.

おわりに

対馬縦貫道路において3番目に開通した隧道・弓張隧道を訪ねた.本隧道は戦後,離島振興法等に基づく国の助成を受け,難工事の末に開通したものである.華美な装飾はないが,比田勝・厳原間の連絡を (仁井港・樽ヶ浜間の航路を挟んだとはいえ) 果たしたという点で,対馬の交通の発展に与えた影響は大きい.

 

新弓張トンネルの開通により,弓張隧道は旧道となり,交通量は僅少となった.隧道は現在も市道として現役であるが,内部覆工コンクリートに大きな亀裂がみられ,平成30年 (2018) の定期点検でも「早期措置段階」となっている 3.取付道路の状態も決して良いとは言えない.しかしながら周囲は林業が盛んであるから,今後も林道的な役割で寡黙に働き続けるものと思われる.

参考文献

  1. 峰町誌編集委員会・編 (1993) "峰町誌" pp. 171-174 / 191-193,峰町.
  2. 対馬総町村組合百年史編纂委員会・編 (1990) "対馬総町村組合百年史" p. 717,対馬総町村組合.
  3. 対馬市 (2021) "対馬市トンネル長寿命化修繕計画" 2024年5月8日閲覧.

*1:航路を介さずに比田勝から厳原までが一本の道路で結ばれるのは,仁井から万関瀬戸までの区間が開通する昭和40年代になってからである.