はじめに
徳島県道291号竹ガ谷鷲敷線は,徳島県南東部の旧鷲敷町と旧相生町 (いずれも現在は那賀町の一部) に跨る県道である.
徳島市から約40kmの鷲敷町で国道195号から分岐したこの道は,主に那賀川支流の谷内川に沿って南北の両山脈の間を縫うように西に進み,仁宇から平野,相名,西納といった相生町の集落を経由したのち竹ヶ谷地区に至る.当地方の古い往還で,竹ヶ谷からさらに奥地の上那賀町東尾や音谷,木沢村方面と上勝町や徳島市方面との行き来に利用されていた.
相名坂の隧道群 1
相名地区の相名坂は県道291号の最難所であり,かつて険しい峠越えの道が利用されていた.近代に入ると断続的に道路改修が進められ,現在に至るまで合計3代の隧道が開鑿されている.
初代隧道は明治29年 (1896) 着工,31年竣工と記録される素掘り隧道.工事委員として前田実太郎と福当弁五郎の名が記録されている.幅員は9尺 (約2.7m) あって馬車や荷車による荷物の運搬を可能とし,仁宇谷奥地の発展に大きく貢献した.隧道入口付近には茶店も設けられていたという.現在は廃道となっており,西口は埋没,東口のみ辛うじて開口しているという情報がある 2 ものの,時期的な問題もあって今回は探索していない.なお,この初代隧道の正式名は不明である.
2代目となる「相生隧道」は初代隧道の約50m下に開鑿された.昭和10年 (1935) 着工,同14年8月9日開通.朝田源太村長の時代である.竣工間近の新聞記事 (「相生町誌」に写真あり.ここから閲覧可能) には「スピード交通へ前進一歩」の見出しが見えることから,自動車を通すことが目的とされたと考えられる.また,その隣には「飛込め資源の懐へ」の文字も見えるが,この頃,相名坂西側の西納地区にアンチモンを採掘する鉱山ができていた.新隧道は,産出された鉱物を徳島市方面に運ぶトラック道の役割も期待されていたと考えられる.実際,鉱山事業者の日本アンチモニー株式会社が工事費を寄付している.
この時代の多くの土木工事と同様,本隧道の工事にも多くの地元住民が動員されている.「相生町誌」1 は,相名地区の古老の話として,同地区や竹ガ谷地区から女性も含め何人もの住民が現場に通ったこと,朝は夜明け前から焚き火して仕事にかかり,夕方も物が見える間は仕事をしていたこと,それで支給された賃金は女性の場合50銭から65銭程度であったこと (当時は米1升が19銭ほど) などが記されている.
2代目隧道は戦前・戦中・戦後にわたって地域の発展を支え続けた.戦後は取り付け道路の拡幅も進み,バスが通うようになったことで徳島市への日帰り往復も可能となった.しかしながら隧道自体の幅員が狭小であるため,平成12年 (2000) からバイパス工事が進められた.平成24年 (2012) にバイパスが開通,相名坂の直下には3代目の「相生トンネル」が造られ,以来こちらが現県道となっている 3.
今回はこのうち,2代目の「相生隧道」を訪ねた.
探訪
探訪日は2022年9月30日.既に記事にした平谷橋を含め色々めぐった後だったので,既に日没間際になっていた.
隧道西側,現道と旧道の間の広い空き地に駐車させてもらい,徒歩に切り替えた.写真右が旧道,左が現道.
旧道を進む.緩やかに登っている.この先右手のお宅の前に犬が繋がれており,近付くと盛んに吠え立てられた.よくあることなので無視して進む.
左下に現道の相生トンネルが見える.平成23年 (2011) 竣工,24年開通.量産品の意匠で特段の面白みは感じられない.
横着して望遠で見る現トンネル銘板.
先に進む.急に平坦になった道はまっすぐ山体に吸い込まれるように進む.隧道は目前だ.
ほどなく隧道.直前のお宅まで路面は綺麗だったが,坑口付近に来て一気にコケや落ち葉まみれになった.新トンネルが開通した今はほとんど車が通っていないのだろう.
西口
相生隧道,昭和14年 (1939) 竣工.
とりあえず封鎖されたりせず供用されているので安堵した.しかし状態の悪さが目立つ.
アーチ環.せっかくの装飾なのに,表面の石がほとんど剥がれて歯抜けのようになっている.隧道自体の健全性には影響しないかもしれないが,ちょっとみすぼらしい.
扁額.右から「相生隧道」.
左端には署名.わかりにくいが「昭和十四年三月 徳島縣知事 清水良策書」とある (と思う).竣工時の徳島県知事・清水良策の揮毫である.
内部
内部を望む.覆工は場所打ちコンクリート.点々と並ぶ光は反射板.加えて照明も取り付けられているが消灯していた.
ちなみにこれは後からこの写真を見て気付いたのだが,新トンネル坑口付近に「東日本大震災を踏まえ、電力不況解消に向け、節電を実施中です」という貼り紙がしてある.旧隧道の照明が落とされているのも節電のためだろうか.
西口付近には大きな亀裂.
他にも多数損傷のマーキング.決して良い状態とは言えなさそうだ.
洞内の景.側壁は垂直壁,天井は半円アーチで全て場所打ちコンクリートで巻き立てられている.
内部から西口を振返り.
そのまま進んで東口.
漏水が酷く,嫌な水たまりができていた.
一応両脇が低くなって排水溝の役割を果たしているのだが,排水が追いついていない.
壁面もかなりやつれている.
東口
水たまりを越えて東口から脱出.
相生隧道,東口.傷みは西口より進んでいるように見えるし,水たまりも目に付く.何より日陰になっているせいでかなり暗い.不気味な雰囲気は廃隧道に近い.通行止のバリケードがあっても違和感はなさそう (なくていいです).
アーチ環.西口よりも酷く,表面の迫石はほとんど残っていない.
扁額.こちらも「相生隧道」.左端の署名部分は判読可能な写真を撮れなかったが,着工時の徳島県知事・戸塚九一郎の揮毫だそうだ 1.
隧道に向かって左側に石仏が立つ.「寛政十一未年 十二月吉日」の文字が見えることから,旧来の峠道にあったものが,本隧道開通に伴ってここに移設されたと考えられる.
先を見る.集落など何もないのに,なぜか街頭がぽつんと点灯している.点灯させるべきは隧道内の照明では?
この先も坦々とした車道が続く.交通の主役が現トンネルに移ってからはかなり交通量が少ないらしく堆積物が多い.まァ林道だと思えばマシな方.
この先は車で進むことにして,いったん引き返す.
東口より見る洞内.やはり傷みが目立つ.
隧道西の石碑
もう一度隧道を歩いて車に戻り,現地を後にしようとしたとき,現道・旧道の分岐地点の付近に大きな石碑が立っているのに気が付いた.先人の方々の記事にこんなのはなかった気がする *1 が,何だろう?もしや隧道に関するものではないか?!
結論から言うと,石碑は隧道に大いに関係するものであった.
正面.「朝田源太翁碑」「徳島県知事 原菊太郎書」とある.
背面に回る.長い漢文に面食らうが,ササッと眺めていると…
文中に「相生隧道」の文字が!
以下書き起こし.光量不足でろくな写真が撮れなかったのと私の力不足で,判読できない箇所が多かったのはご容赦を.読み違えもあると思う.
学校を出てすぐに役場に入庁し,書記や助役を務めたのち村長となった朝田源太翁の功績を記しており,相生隧道を含む道路改修にも触れている (下線部).末尾の漢詩の「開比坦途」も彼の道路を指すものと思われる.
それにしても,撰文と書が昭和17年 (1942) 10月であるのに,石碑の建造は昭和31年 (1956) 2月と13年以上も間が空いているのはどうしてだろう.時代を考えると,朝田が村長職を退いた際に文を書いたはいいものの,石工が兵隊に取られたりで石碑が造れないうちに有耶無耶になってしまった,とかそういう事情かもしれない.なお,朝田は石碑建造前の昭和22年にこの世を去っている.
また,石碑のオモテは原菊太郎・徳島県知事の揮毫となっている.だからと言って原が石碑にどこまで関与していたかはわからないが,原は「道路の鬼」と呼ばれるほど道路整備に力を入れた知事である.隧道を整備し,地区の発展に大いに貢献した朝田村長の功績に思うところがあったのではないかと思う.
撤収
この後私は車に戻り,改めて相生隧道を通過した.そのまま東側の現道合流地点まで通り抜けできた.
隧道東側の道路状況.落ち葉やコケなどの堆積物が多かったが,致命的な崩落等はなく,線形は悪いもののゆっくり走れば問題はなかった.通行に差し障るような倒木や落石もなかったと記憶している.
なお,ここまでの期間,相生隧道を通る車や人とは一度も出会わなかった.やはりよっぽど交通量が減っているのであろう.それこそ隧道西側の民家の方々しか使わないのかもしれない.
参考文献
- 相生町誌編纂委員会・編 (1973) "相生町誌" pp. 26 / 114-117 / 890-894,徳島県那賀郡相生町役場.
- 那賀町観光協会PR担当 (2012) "ニュース・ナカ 相名峠 ~三つの相名坂トンネル~" 2023年2月22日閲覧.
- 徳島県 (2012) "一般県道竹ガ谷鷲敷線「相生トンネル」の完成・開通について|徳島県ホームページ" 2023年2月22日閲覧.