交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

洋野町 有家橋 (2024. 1. 10.)

岩手県洋野町.渓流を跨ぐ廃橋.

 

岩手県洋野町の太平洋沿いに位置する有家地区.ここには八戸線有家駅が存在するが,その開業は昭和36年 (1961) で,昭和5年 (1930) の八戸線開通当時は,南に直線距離で2kmほどの陸中中野駅が最寄りであった.今回訪ねたのは,有家駅開業まで,有家地区と陸中中野駅を結んでいた道に残る橋である.

場所: [40.31424, 141.77966] (世界測地系).

 

見ての通り Google マップでは描かれていない橋である.しかし,地理院地図には,有家地区と陸中中野駅を結ぶ道も含め,点線道として描かれている (本記事執筆時点).

 

本橋のことを知ったのは偶然であった.もともと,「日本の近代土木遺産」や「歴史的鋼橋集覧」にも掲載されている八戸線有家川橋梁のことを調べていたのだが,その中で,有家川橋梁の上流側に怪しい橋があることが,いくつかの Web サイトで紹介されていた.例えばこちらこちらなどである.見たところ廃橋のようだが,欠円アーチ型の窓を有する背の低い高欄はまことに好ましい.地理院地図で有家川を探して見たら確かに点線道の橋が描かれているし,航空写真にも写っている.これは行かねば,と思った次第である.素晴らしい橋のことを Web に載せてくださった先人には感謝してもしきれない.

 

2024年1月10日,現地を訪ねた.車は国道45号のこのあたりの広い路肩に駐車した.もっと奥まで入れるが,民家の目の前などに駐車するのも気が引けるから,ここから歩いて行くことにした.念のため長靴に履き替えて,出発.

 

うっすら雪が積もった細道を歩いて行く.

 

ここが最後の民家であった.

 

この先で唐突に轍が消えた.

「この先行き止まり」の看板が立つ.

 

さらに進む.

意外にも道の形ははっきりしている.

 

わかりにくいが,右と左奥に分岐している.ここは左が正解であった.右は川に下りる道であろう.

 

倒木をくぐって……

 

おお,あった!

 

正対.いかにも昭和初期らしい,コンクリート製の親柱と高欄がとても嬉しい.

 

橋台上の路盤が半分崩れている.これでは車は通れない.やはりこれは廃道である (ちなみに台帳からも削除されているようだ).

 

左 (左岸下流) の親柱.銘板はほぼ失われている.

 

右 (左岸上流) の親柱.「うげはし」とある.間違いなく「有家橋」だろう.飾り気のない名前だが,判明して非常に嬉しい.

 

高欄は欠円アーチ窓を連ねた意匠.岩手県内ではしばしば見かけるものである.

 

渡って対岸へ.

右岸からの景.橋上に私以外の足跡はない.

 

右 (右岸下流) の親柱.銘板は失われている.

 

左 (右岸上流) の親柱には,嬉しいことに銘板が残存.「昭和十一年三月竣功」.これ自体は既出の情報であったが,それでも現地に情報が残っていたのは嬉しい.

 

この後は慎重に河原に下りて,写真を撮りまくった.

有家橋,昭和11年 (1936) 竣工.背の高いRC橋脚がカッコいい.

 

上部工はRC桁.当時地方ではまだまだ多くはなかった永久橋である.駅への往還として,非常に重要な役割を担っていた道であることがうかがえる.

 

 

八戸線の有家川橋梁は目と鼻の先である.

この日は上部工の補修工事中であった.メインは背の高い石橋脚だが,せっかくなので桁も観察したいのでこれは再訪案件である.と思いつつまだ行けていない.

 

橋の先の道を辿ってみる.

倒木が放置されている.通る人などいないのだろう.

 

すぐに線路と交差.いわゆる勝手踏切になっていた.渡ってその先に行こうかとも思ったが,すぐ左の橋上で工事が行われていて人目があったのでやめておいた.

 

なお,線路の向こう側には真新しい台車が置いてあった.おそらく工事中の作業員が持ってきたものであろう.とすれば,彼らは陸中中野駅側からこの道を歩いてきたということか.ここまでは廃道であったが,この先は多少は使われているのかも.

 

竣工約90年を経て,通る人がいなくなっても立派に立ち続ける橋であった.