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はじめに
泉隧道は,対馬の北の玄関口である比田勝港と,そのさらに北に位置する天然の良港である泉港を結ぶ隧道である.現在,本隧道は長崎県道182号大浦比田勝港線の一部となっている.
場所: [34.667370217902004, 129.47215560268458] (世界測地系).
台帳上での泉隧道は昭和54年 (1979) 竣工となっている.しかしこれは,より古い隧道を改築した年であることがわかっている.本記事では,泉隧道の歴史をまとめるとともに,いまの泉隧道の姿をレポートする.
歴史
対馬島内の隧道の中でも,泉隧道はあまり史料にその名が登場しない.ほぼ唯一言及しているのは「対馬総町村組合百年史」1 である.同書は泉隧道を含む道路建設の経緯について,次のように述べている.
昭和三年(一九二八)一二月、時の豊崎村長洲河生虎真は、当組合に対し村道改修工事費の補助願を出す。この内容は、豊崎村東部縦貫線と称し、泉、浜久須、大増、琴に至る六千八百間、巾二間、工費一三万三千円を四年度から九年度まで六ヵ年間で完成威予定の計画であった。ところが、翌四年二月、豊崎村長は、本組合管理者に意見書を提出、さきの工事の泉、大増間を組合事業として施工するよう要望したので、組合は直ちに臨時会を開いてこの件を審議した結果、五年度より当組合の直営とすることを決議し、直ちに県に申請書を提出、許可を得たのである。
路線名を泉、仁位線と称し、工事延長距離は次の通りである。
(中略)
この計画は、昭和六年泉トンネル貫通に始まり、各村緊急必要ヵ所の改修工事が進められるが、戦争の激化のため中断のやむなきに至った。
このことから,施工は総町村組合であったものの,計画自体は豊崎村(比田勝・泉も含まれる)の発案であったことがわかる.
豊崎村の中でどのような経緯で道路改築の議が出たのか,そこまではわからないが,想像することはできる.まず,大正期に事業が始まった対馬縦貫道路との関連が考えられる.縦貫道路の構想は関東大震災によってほとんど中止状態にまで追い込まれたが,昭和に入ると少しずつ再開され,昭和3年 (1928) には佐須奈隧道が完成している.豊崎村が発案した「東部縦貫線」は,対馬縦貫道路と違って島の東海岸を通り,対馬縦貫道路の終点である比田勝で合流してさらに北に進むものであるから,対馬縦貫道路を補完する役割があると言える.従って,対馬縦貫道路の工事進行によって,地域の道路改良の機が熟し,村道東部縦貫線改修の議が出たのではないかと考えられる.また,この頃島の最北端の豊地区では,豊砲台設置の計画が進められていた.工事に備え,比田勝港から豊に向かう道路の整備が必要とされたことも,村道改修の理由となったのではないか.だとすると,その一部を組合直営とするように要望したのもわかる気がする.豊砲台の工事が始まる昭和4年 (1929) 5月を前に,急いで泉隧道を含む泉・比田勝間の道路を整える必要があり,工事を組合に任せたのではないか.
泉隧道は昭和6年 (1931) に貫通し,翌7年に竣工している.どのような隧道だったのか,写真がないので詳細なことはわからない.ただし「百年史」1 の年表に
昭和六年 泉,仁位間、隧道貫通(四五間)レンガ巻立工事
とあることから,煉瓦隧道であったことは確実である.離島とはいえ赤煉瓦の時代はとうに過ぎているから,佐須奈隧道と同様に鉱滓煉瓦隧道だったのではないかと思う.
その後,この村道(組合道路)は国道特32号に指定されている(総説で述べた通り).比田勝港と豊砲台を結ぶ道として,軍事的に重要な役割を果たしたことは間違いなさそうだ.
探訪
2022年2月3日,現地を訪ねた.訪ねたというか,この日を含む4日間の対馬滞在の中で何度も通ってはいたのだが,当日は前節のような歴史は知らなかったし,お世辞にも見た目が良いとは言えない隧道だったのでスルーしていた.それでもこの日立ち寄ったのは,最終日でスケジュールに余裕があったのと,現代的なトンネルなのに名称が古風な「隧道」なのが気になったためだった.
比田勝側の広い路肩に駐車して歩いて行く.
隧道が見えた.右下の花が供えられているところが気になるが,まずは隧道から.
泉隧道,昭和54年 (1979) 改築.無味乾燥なコンクリートトンネルである.
扁額には「泉隧道」.
内部も普通にコンクリート巻立て.
泉側.
さて,比田勝側に戻る.名前以外は面白味のない隧道だった.比田勝側でお地蔵様か何かに花が供えられていたし,手だけでも合わせていこう.そう思って花のところまで来た.
ん?この右のはなんだ?
ああっ!工事銘板!!
泉隧道
昭和七年三月竣功
総工費 金壹万六千弐百円也
對馬総町村組合
施工者 赤木真臣
設計者 廣田初次郎
工事監督者 壇正記
驚いた.この現代的なトンネルが,昭和7年 (1932) の古隧道であったという(繰返しになるが,私はこの時本隧道の歴史を知らなかった).ということは今の姿は拡幅改修後のものに違いない.工事の際に取り外された銘板が,その後40年以上にわたってここに保存され続けてきたのだろう.
無味乾燥な隧道の横で,静かに歴史を伝え続ける生き証人.素晴らしい土木遺産に出会えて本当に嬉しかった.