交通遺産をめぐる

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国道176号の十三橋,阪急跨線橋,北方貨物線跨線橋,新三国橋 (2021. 8. 29. / 2022. 3. 4.)

昭和初期,大阪府の都市計画事業として造られた産業道路・大阪池田線.開通当時の姿を留める4橋をめぐった.

目次

はじめに

府県道大阪池田線は,大正期の大阪市域の拡大を契機として大阪府が企画した10本の産業道路,いわゆる十大放射路線のひとつであり,大正15年 (1926年) に着工,昭和戦前期に着々と開通した 1, 2 .同線は戦後,国道176号の一部となり,現在も大阪市中心部である梅田 (大阪駅) に通じる主要道路として,日夜膨大な交通量を捌いている.

 

この道の南部,大阪市中津から豊中市境にかけての短い区間には,開通時に架設された4本の橋梁が集中して現存する.素晴らしいことに,いずれも当初の姿をよく留めた上で,現役国道の橋として利用されている.本記事では,それら4橋を南 (大阪市) 側から順にレポートしてゆく.

十三橋 (2021. 8. 29.)

大阪随一の繁華街である梅田を発った大阪池田線は北に進み,ほどなく中津にて新淀川を渡る.これは明治期の治水事業で開削された淀川の新流路で,左岸 (南) 側には平行して長柄 (中津) 運河が造られている.大阪池田線の整備に合わせてここに架設されたのが,同線で規模・知名度ともに最も大きい十三 (じゅうそう) 橋である.このうち運河を跨ぐ部分は十三小橋,淀川本流を跨ぐ部分は十三大橋命名されている.

写真は淀川右岸側に設置された解説板.これを以て総説に代えさせていただくことにする.

 

なお,探訪日は章題の通りだが,一部,後日再訪して撮影した写真が含まれている.急に天候が変わったり,草木が枯れたりしているのはそのためだ.

十三小橋

まずは運河を跨ぐ十三小橋の橋上の景から.

上下合わせて4車線が収まる,戦前としては異例なほど幅広な橋である.先に載せた解説板にあったように,これは橋の中央に市電を敷設する計画があったためとされる.

 

とりわけ目を引く,御影石製の背の高い親柱.現在は失われているが,かつてはブロンズ製の灯具が取り付けられていたそうだ 2.写真は左岸 (南) の2基 (順に下流・上流) で,前者の題額には「十三小𣘺」と刻まれていた一方,後者の題額は失われていた.

 

対岸 (北側) の親柱.意匠は下流側と同様で,題額には「十三小𣘺」「昭和六年十二月架設」と刻まれている.

 

親柱の脇には袖高欄が設えてある.鋳鉄グリルは歯車のような意匠で,工業都市としての大阪の性格が顕れたものとされる.

 

隣接する浜中津橋 (後述) からの景.主径間は単径間の鈑桁 (プレートガーダー),南北それぞれの側径間はRC (鉄筋コンクリート) ラーメン桁である.高欄は鋳鉄製で,後述の大橋と同じ装飾が施されている.

 

写真の通り本橋の下は工事中であった.当初ここに流れていた長柄運河は昭和40年代に埋め立てられ,現在,その跡地に阪神高速淀川左岸線が建設されている.おかげで橋の直下に立つことは叶わなかった.

 

仕方がないので過去のストリートビューを拝借してレポートを続けることにする.記事公開後に閲覧できなくなる可能性もあるが,ご容赦いただきたい.

側径間の内部はΠ型の主桁が並んでいるが,外側だけはアーチ形となっている.景観を考慮した結果と思われる.

 

橋の中央部では,幅広の主桁が1本で床板を支えている.言わば大量の主桁を間隔ゼロで敷き詰めているわけだ.自動車と比べて荷重の大きい市電を載せることを想定した構造に違いない.

 

阪神高速淀川左岸線は,2025年の万博に向けて建設が急がれている.その一環で,非常に残念なことに,同じ長柄運河に架かっていた大正期のトラス橋群 (「長柄運河の歩道橋群」として近代土木遺産Cランク 3) は撤去されてしまったと聞く.本橋の今後の処遇やいかに.

十三大橋

十三小橋で長柄運河を渡った先が新淀川左岸の堤防.ここから十三大橋で,約700m先の対岸を目指す.

 

十三大橋昭和6年 (1931年) 竣工,近代土木遺産Bランク 3.5連のゲルバー式鈑桁が5連のブレースドリブタイドアーチを挟む壮大な橋である.

 

大阪側の親柱.意匠は小橋と瓜二つ.歯車模様の袖高欄もまた然り.題額には「十三大𣘺」「昭和六年十一月架設」.

 

下流側の親柱の近くには,こちらも背の高い石灯籠.旧橋時代の大正9年 (1920年) に設置されたもので道標も兼ねているのだが,左右が指差しマーク👈👉で表されているのが面白い.

 

続いて鈑桁部を観察……といきたいところだが,淀川左岸線の工事の関係でフェンスが張り巡らされていて近寄れない.いくら日曜日で工事が休みでも,衆人環視の状況で背丈よりも高いフェンスを越えるのはやりかねる.そんなわけで,ここはいったん橋を渡って対岸に回ることにする.

 

橋上の路面には明確な継ぎ目.ゲルバー橋なので橋脚から外れた位置にある.

 

ずんずん歩いて,本橋のハイライトを飾るアーチ部材.愚か者による落書きにはモザイクをかけてある.路面を吊るアーチのリブをプラットトラスとした下路ブレースドリブアーチ.当時の最先端技術である.例によって市電敷設の計画があったため,幅員も当時としては相当なものとなっている.

 

この橋門工の面白さのひとつは,上部の装飾にある船のハンドルのような模様.実はこれが高欄の意匠のモチーフにもなっている.

規格化された構造物にはない遊び心である.そして,その意匠が今も保存されていることも注目に値する.橋門工はともかく,高欄は橋梁のなかで最も改築されやすい部分なのだ.現在の高欄が当初のものなのか,それとも再現されたものかは不明だが,いずれにしても良好な保存状態である.

 

アーチ内での景.多数の金属部材が縦横に組み合わされた複雑な橋だが,それでいて重々しさを感じないのは,視界の大部分がアーチという優美な曲線が占めること,そして頭上の横材もゆるやかな弧を描いていることに因るのだと思う.技術的にも美観にも優れた名橋である.

 

本橋を設計したのは増田淳 2.大正期から昭和初期にかけ,日本各地で多種多様な橋梁を設計した天才である.そして本橋は,増田が大阪府下に残した橋梁のうち,唯一の現存例であるとされる 2

 

違う角度からの近景.びっしりと打たれたリベットに目を奪われる.職人が1本1本カシメていった跡である.

 

渡って池田側の親柱.

 

池田側からの景.鈑桁・アーチ部ともに曲線が多用されているおかげで,構造の割には軽やかな印象を受ける.

 

こちら側の高水敷は公園として開放されており,橋の観察は容易だった.

変断面を描くゲルバー鈑桁でひょいひょいと高水敷を渡る.

 

継ぎ目の近景.L字型に切り欠いた桁同士が架け継いである.落橋防止装置が二重に取付けられていたり,主桁の隙間が鋼板で埋められているあたりに酷使されてきた歴史が窺える.

 

桁裏.中央部分の主桁の間隔が両脇よりも狭くなっているが,これも市電の荷重を考慮した設計であろう.

 

反対側に回って.

 

上の写真を撮ったところで,嬉しい発見があった.右を向くと,

大きな親柱と歯車状の袖高欄を有する橋台.そしてその側面に工事銘板がある!

 

都市計劃事業 大阪池田線

十三大𣘺

一起工 昭和五年一月

一竣工 昭和六年十二月

一𣘺長 六八一米突二四

一有効幅員 二〇米突

一工事監督 大阪府工営課長 和田重辰

      大阪府道路技師 井下勝藏

      大阪府土木技師 遠藤正巳

      大阪府嘱託   正子重三

一工事請負 下部工事 大林組

      上部工事 飛島組

      鋼材製作組立工事 大阪鉄工所

大阪府

 

府工営課長として記されている和田重辰は,昭和8年 (1933年) に内務技師として下関土木出張所に派遣されている 4 ほか,遅くとも昭和10年には神奈川県の土木部長となり,箱根二子山の砂防工事 5,湘南道路新設工事 6,府県道箱根真鶴線新設工事 7 の各報告を著している.大阪府嘱託として記されている正子重三は,本橋の橋脚基礎工事にも用いられた空気潜函 (ニューマチックケーソン) 工法の,日本における第一人者である 8

 

なお,今回は淀川左岸線の工事のために接近できなかったが,同じ銘板が大阪側の橋台にも取り付けられているそうだ.

 

左最後に上流側からの振り返り.

大都会大阪の入口に相応しい美麗な橋であった.左隣の鉄橋は阪急電車の新淀川橋梁.こちらもいずれ,記事を改めてレポートする予定.

幕間 浜中津橋 (2021. 8. 29.)

十三小橋のすぐ隣には,歴史的鋼橋がもう1本架かっている.

浜中津橋明治6年 (1874年) 架設,昭和10年 (1935年) 移築,近代土木遺産Aランク 3土木学会選奨土木遺産 9

 

著名な土木遺産であるから詳説は控えるが,明治6年,官営の大阪・神戸間鉄道のために英国から輸入された,70フィート錬鉄製ポニーワーレントラス桁を移設したものである 10

 

正面から.後付けの親柱や高欄がちょっと煩い.

 

違う角度から.部材同士はピン結合.

 

例によって淀川左岸線の工事の影響で,下から眺めることは叶わなかった.それでも,同じ長柄運河に架かる歩道橋群と違って現存していることが確認できただけ,良しとせねばなるまい.しかし淀川左岸線の工事も,軟弱地盤が影響して工費が膨れ上がり,地下トンネルの代替路として地上に道路を造る計画も浮上中と報じられている 11.先行きはまったく見通せないが,撤去が避けられないとしても,違う場所で保存されてほしいと思う.

阪急跨線橋 (2022. 3. 4.)

話を大阪池田線に戻す.新淀川を渡った先が十三駅西口.この駅で阪急電車は神戸,宝塚,京都の各方面に分岐する.3路線のうち大正9年開業の神戸線は十三から西に進むため,必然的に大阪池田線と交わることになる.そこで大阪池田線の整備に際し,阪急神戸線を跨ぐ陸橋が造られた.

 

阪急跨線橋昭和7年 (1932年) 竣工 12.コンクリートの築堤で高度を上げ,その先にRCラーメン桁が連なる.素晴らしいことに,当初のものとみられる少し装飾的な高欄がそのまま残されている.

 

跨線部分.ここだけは支間の大きな鈑桁となっている.

 

鈑桁の側面には銘板!

株式會社

大阪鐵工所製作

昭和七年

と右書きで刻まれている.

 

違う角度から.相当な斜角となっている.2枚目奥のホームは十三駅.

 

桁裏.

 

線路を跨いだ後は,南側と同様にRCラーメンで地上に降りてゆく.

 

最後に,北側の歩道橋からの振返り.

西側にバイパスが完成したため,現在本橋は3車線全てを南行き一方通行として供用されている.

北方貨物線跨線橋 (2022. 3. 4.)

上の写真を撮ったところで,北側を向くと,

陸橋がもうひとつ見えている.JRの北方貨物線を越えるための跨線橋だ.

 

北方貨物線は,梅田 (大阪駅) を経由せずに京都方面と神戸方面を行き来するための東海道本線の貨物支線.開業は大正7年 (1918年) とたいそう古く,阪急神戸線と同じく大阪池田線の計画前に敷設されていたため,これを越えるための跨線橋が造られた.

 

接近して.

北方貨物線跨線橋昭和7年 (1932年) 竣工 12

 

高欄は阪急跨線橋よりも装飾的で,直線を多用した額縁のような意匠となっている.

 

下部工.井桁状の橋脚が連なる光景が美しい.

 

跨線部は2径間の鈑桁.

 

面白いことにゲルバー桁となっており,大阪側の桁が池田側の桁に載っている.継ぎ目がその1ヶ所だけというのも珍しい (大抵は2ヶ所ある).

 

跨線部の南端.補強が入っているのでわかりにくいが,元々の桁はL字型に切り欠いてあるように見える.

 

だとすれば,いま橋脚が建っているのは,本来もうひとつの継ぎ目 (ヒンジ部) となるはずの箇所ということになる.もしかすると,将来の線路増設に備えて,跨線部分を左 (大阪側) に広げることが可能な構造としたのかもしれない.本橋の架設と同じ頃,付近では官営鉄道の宮原操車場 (昭和8年開業) が計画・建設されていた .

 

桁裏.

 

北側の径間.なぜかこちらは線路を跨いでいない.真上には戦後開業の山陽新幹線が通っているが,用地自体は昭和7年当初から確保してあったのかもしれない.

 

跨線部を過ぎると,後はそれまでと同様.RCラーメンの高架橋で高度を下げてゆく.

 

北側の歩道橋からの振り返り.

新三国橋 / (旧) 三国大橋 (2022. 3. 4.)

北方貨物線跨線橋から700mほど北,神崎川を渡る地点には,

新三国橋昭和7年 (1932年) 竣工.5径間のゲルバー式鈑桁で軽やかに対岸に渡る.

 

近景.びっしり打たれたリベットと,架け継ぎ部分の大きな落橋防止装置が格好いい.

 

遠望.ゲルバー橋らしい変断面が美しい.

 

嬉しいことに十三大橋と同じく,橋台に工事概要を記した銘板が残っていた.

都市計劃事業 大阪池田線

三國大𣘺

一起工 昭和六年十一月五日

一竣工 昭和七年五月十五日

一𣘺長 一五三米突二三

一有効幅員 一五米突七五八

工事関係者

大阪府土木部長 三輪周藏

大阪府工営課長 和田重辰

大阪府三國工営所長 井下勝藏

工事請負 株式會社鴻池組

擔當者 関本辰藏

大阪府

本橋が当初「三国大橋」を名乗っていたことがわかる.旧道にあたる「三国橋」が昭和35年 (1960年) に永久橋化された際に,両者の混同を防ぐために名称が変更されたと思われる.

 

写真は省略するが,対岸にも同じ銘板が掲げられていた.この仕様も十三大橋と共通だ.

 

桁裏.

 

下流側.

 

こちら側には隣接して導水管の橋が架けられている.いつの作かは不明だが,リベット接合のプラットトラスなので古いものには違いない.

 

名称は「2期淀川導水管神崎川水管橋」.

 

少し引いた位置から両方を眺める.

 

新三国橋,橋上の景.昭和戦前期という時代を考えるとかなりの大幅員で,車道4車線が余裕で載っている.

 

親柱は現存せず.高欄に「新三国橋」,「しんみくにばし」(×2),「神崎川」の額が取り付けてあった.

 

最後に,渡って北側からの景.

参考文献

  1. 道路改良会・編 (1926) "放射線道路改築費用" 道路の改良,第8巻7号「地方通信」,pp. 136-137,道路改良会,2022年3月13日閲覧. 
  2. 大阪府近代化遺産(建造物等)総合調査委員会,日本建築家協会近畿支部,編集工房レイヴン・調査編集 (2007) "大阪府の近代化遺産:大阪府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" p.119,大阪府教育委員会
  3. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 184-185,土木学会.
  4. 岡崎保吉・編 (1933) "地方土木部課長異動" 土木建築工事画報,第9巻第10号「工事タイムス」,pp. 48-49,工事画報社,2022年3月13日閲覧.
  5. 和田重辰 (1935) "箱根二子山砂防工事" 土木建築工事画報,第11巻第12号,pp. 276-277,工事画報社,2022年3月13日閲覧.
  6. 和田重辰 (1935) "湘南道路 (府縣道片瀬大磯線) 新設工事" 土木建築工事画報,第11巻第12号,pp. 278-281,工事画報社,2022年3月13日閲覧.
  7. 和田重辰 (1935) "府縣道箱根眞鶴線新設工事" 土木建築工事画報,第11巻第12号,pp. 282-284,工事画報社,2022年3月13日閲覧.
  8. 白石俊多 (1978) "空気ケーソン工法の師祖 正子重三翁を偲ぶ" 土と基礎,Vol. 26,No. 4,土質工学会,2022年3月13日閲覧.
  9. 土木学会選奨土木遺産選考委員会 (2012) "浜中津橋 | 土木学会 選奨土木遺産" 2022年3月22日閲覧.
  10. 大阪市建設局道路部橋梁課 (2021) "大阪市:浜中津橋(はまなかつばし)" 2022年3月13日閲覧.
  11. 産経デジタル・編 (2022) "〈独自〉万博道路、全通困難 大阪市、仮設の代替路検討 - SankeiBiz" 2022年3月13日閲覧.
  12. 土木学会附属土木図書館・編 (2008) "橋梁史年表" 2022年2月6日閲覧.