交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

田辺市中芳養の泉養寺橋と堂前橋 (2021. 8. 10.)

芳養川に沿って西牟婁奥地に向かう県道の脇で見つけた,2本の旧橋をレポートする.

目次

泉養寺橋

和歌山南西部を旅していたこの日,私は岡阪隧道を後にして,次なる目的地である小野坂隧道に向かっていた.西田辺バイパスから県道199号芳養清川線に入り,芳養川に沿って北進,約1.5kmで旧中芳養村に入る.小野坂隧道は本村西側の山を貫いてみなべ町に通じているから,もうすぐ左折するはずだ,と思いながら走っていた.

 

県道は蛇行する芳養川を何度も渡って直線的に進んでゆく.3回目の渡河地点の手前で,右に逸れてゆく道に気が付いた.旧道に違いない.しかし日没が迫っており,見つけた旧道全てを辿っている時間はなかった.引き続き現道を進むと,800m先で旧道が合流してくる.その姿を横目でチラッと見たとき,驚いた.

背の低いコンクリート製の高欄は明らかに古いものだ (写真は駐車後に撮影).これは見逃せなかった.

 

非常に都合のいいことに,現道には大型車を何台も停められるような広い路肩があった.旧道からの付替えによって発生したものに違いない.バス停となっているかもしれないと思ったが標柱は無く,他に停まっている車もなかったので,駐車スペースとして利用させていただいた.

 

まずは下流側から,と思ったが,

後付けとみられる側歩道橋のおかげで見づらい.反対の上流側も視点場が乏しい.仕方がないのでいったん渡ることにした.

 

その前に,親柱.

「泉養寺橋」「芳養川」.泉養寺は橋の南東の古刹である.

 

本橋の一番の特徴は,高欄にある.

幅広の欠円アーチ型開口部に縦の切れ目が入った,楽しい意匠である.

 

渡って対岸の親柱を見てみると,

「せんようじばし」「昭和二十八年三月架設」.知りたかった情報を全て教えてくれる,百点満点の親柱だった.戦後とはいえ御年67歳,それなりの古さである.

 

左岸側は川沿いに細道が延びており,良い視点場となっていた.

構造は3径間RC桁橋.路面に継ぎ目はなかったので連続桁と思われる.川の流れに対して結構な角度のついた斜橋である.

 

最後に全景.

集落と県道を結ぶ重要な交通路にして旧状をよく留めた,良い橋だった.

 

橋の下に軽トラが停まっているから,川辺まで下りることも可能であったに違いないが,この後の予定も勘案してやめておいた.

堂前橋

泉養寺橋の50m南 (下流) には,集落と県道を結ぶ橋がもう1本架かっていた.

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写真は左岸側からの景.泉養寺橋と比べるとやや地味な印象である.

 

親柱には,

「堂前橋」,「どうぜんばし」「芳養川」「昭和二十九年四月架設」.こちらも寺内町らしい橋名で,架設の時期も泉養寺橋と近い.

 

下流側から.

こちらは2径間のRC桁.わかりにくいが橋脚の真上に継ぎ目が見えるので単純桁と思われる.高欄は四角の開口部に横格子を配しただけの簡素な意匠で,泉養寺橋のような拘りは感じられない.

 

上流側.

奥は泉養寺のある集落.こちらも集落と県道を結ぶ橋として利用されている.

机上調査・考察

架橋の経緯

「中芳養百十余年沿革史」1 には,

終戦直後の昭和二十二年、二十四年、又二十七年と夏の大雨洪水による大水害が発生し、河川の氾濫によって、橋は勿論、小野地区廣田橋のみが残り、下流の橋は全部将棋倒しの如く流出……。

との記述がある.このうち昭和24年 (1949年) の水害は,7月28日から29日にかけて近畿地方を縦断した台風第6号 (ヘスター) によるものとみられ,また27年の水害は,7月10日から12日にかけてもたらされた梅雨前線による大雨を指すとみられる.

 

現地親柱の情報によると,泉養寺橋の架設は昭和28年3月,堂前橋の架設は昭和29年4月であった.従って,両橋は昭和22年,24年,27年のいずれかの年の水害からの復旧事業で架けられたとみて間違いなさそうだ.

 

なお,泉養寺橋については,本復旧までの間に木造の仮橋が架けられていたらしく,その工事中の写真が残されている.以下,「沿革史」1 より引用.

屈強な男たちが滑車で大きな木桁を吊り上げ,濁流の中に丸太を組んで建てた橋脚の上に載せようとしている.重機が普及する前の,目を見張るべき人力工事である.

 

ともかく,RC桁橋として架設された泉養寺橋と堂前橋は流石に堅牢で,当地を襲った昭和34年の伊勢湾台風,36年の第2室戸台風,49年の台風第8号 (七夕水害) にも耐え,現役で利用され続けている.

意匠の違い

泉養寺橋と堂前橋は同時期に架けられたにもかかわらず,高欄の意匠は大きく異なっていた.この違いはおそらく,それぞれを擁する道路の「地位」の違いによるものである.

 

現道建設前後で航空写真を見比べてみよう.

左が最新,右が昭和51年 (1976年).見ての通り,泉養寺橋は芳養川の右岸 (西) を削ったて造られた県道の旧道にあたる.この道は漁港や紀勢線の駅のある芳養,そして南紀の中心地である田辺に通じる主要道路であった.一方の堂前橋は,その主要道路と芳養川右岸の農地や小集落を結ぶ橋であり,広域的には重要性の低い道路であったとみられる.

 

つまり,泉養寺橋は地区の住民だけでなく芳養・田辺から西牟婁奥地や南部方面を行き来する人々も通る重要な道として,装飾的な高欄が設けられたのに対し,堂前橋は生活道路ゆえ,高欄の意匠は簡略化された,と考えられる.泉養寺橋のみ上流側に歩道橋が添加されていることや,昭和20年代の水害の際に泉養寺橋の方が1年ほど早く復旧されたことも,この地位の違いによるものであろう.

 

なお,私は泉養寺橋を含む「主要道路」は旧県道だと考えていたが,和歌山県の公告 2 によると,芳養清川線が県道199号に認定されたのは平成6年 (1994年) と存外最近のことであった.他にそれらしい路線も見当たらないので,現在の泉養寺橋は,架設当初は県道ではなかったと思われる.また,県道指定が芳養川左岸の現道に移った時期を,現道上の八幡橋が竣工した平成14年 (2002年) 頃であるとすると,泉養寺橋が県道であったのはわずか8年ほどということになる.とはいえ,県道認定の有無に関わらず,この道筋が重要な役割を果たしてきたことは間違いない.

今後

本稿で取り上げた2橋には架換えの計画が存在する.平成26年 (2014年) に県が発表した「二級河川芳養川水系河川整備計画」3 は,豪雨による洪水を防ぐため,田尻地区から上井地区にかけて河川改修を進めるというものだが,資料には同じ事業で田尻橋,古井橋,そして堂前橋と泉養寺橋の合計4橋を架換えることも明言されている.老朽化というよりも,河道の拡幅や護岸整備に伴う架換えのようだ.

 

架換えの具体的な時期等は「計画的に工事を実施する」としか書かれておらず,また私の訪ねた時点で着工している気配はなかったが,遠からぬ将来,泉養寺橋と堂前橋が姿を消す可能性は高そうだ.そうなってしまう前に両橋を発見し,現状を記録できたことはよかったと思っている.

参考文献

  1. 福山弘 (2003) "中芳養百十余年沿革史" pp. 101-102,福山弘.
  2. 和歌山県 (1994) "告示第248号 県道路線認定に関する告示" 2022年2月21日閲覧.
  3. 和歌山県 (2014) "二級河川芳養川水系河川整備計画" 2022年2月21日閲覧.