交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

城端駅 (2021. 8. 5.)

明治30年開業当初の姿を留める,JR城端線の終着駅を訪ねた.

目次

駅舎

太田橋の探索を終えた後,砺波平野南端の南砺市のJR城端駅に向かった.この日は朝から車で移動していたが,私はマイルールとして,現役の駅を訪ねる際には行き帰りどちらかは必ず鉄道を使う (列車に乗らないのに駅だけ見物することはしない) と決めている.そのため,砺波駅前の市営駐車場に車を停め,列車に乗り換えた.

 

城端線の下り列車で砺波平野を南下する.沿線は思ったより宅地化が進んでいたが,線路は明治期の開業以来変わっていないらしく,石積みのホームなど古い構造物が残っていた.特に砺波駅から3つ目の福野駅には,木造の大きな駅舎や古めかしい跨線橋があって惹かれた.列車の本数が少ないので下車はしなかったが,次に来る時にはぜひとも訪ねたいと思う.

 

砺波駅からおよそ30分,列車は終着の城端駅に滑り込んだ.ホームに降りると,

板張りの大きな駅舎が迎えてくれた.

 

上屋の内側には,

古めかしい駅名標と海抜の標示.国鉄時代のものと思われる.

 

駅舎の反対側.

こちらには駅事務室がある.外壁は下見板張りにペンキ塗り.

 

改札を出て,駅舎内観.

掲示物で少々雑然とした写真になってしまったが,綺麗に手入れされている.自動券売機はあったがこの日はなぜか稼働しておらず,帰りの切符は窓口で購入することになった.ICOCAなどは当然のごとく利用できない.

 

駅舎を出て振り返り.

城端駅舎.明治30年 (1897年) 10月31日開業当初の木造桟瓦葺きの駅舎 1 が,令和の今も現役で働いている.

 

上の写真で右手前に写っている瓦屋根はバス乗り場の上屋で,ストリートビューを確認したところ,2012年以降に設置されたものであった.おかげで駅舎全体が見渡しにくくなったが,乗り場の整備が必要なほど城端線からバス (五箇山方面?) に乗り換える観光客が多いのだとすれば,それは赤字続きの城端線にとっては明るい知らせであろう.その向こうの駅舎の壁は,

こちらも美しい下見板張り.

転車台跡

駅舎のほかにもうひとつ見たいものがあった.駅構内には蒸気機関車時代に転車台があり,その遺構がかつては荒れるに任されていたのだが,最近地元の有志がそこを花畑として整備している,と中日新聞 2 ほかが報じていた.航空写真で見てみると,確かに駅の北側に,転車台の跡らしい丸い形が浮き出ている.

どこから入れば良いのか判然としないが,近くまで行けばわかるだろうと思い,駅を出て左側から線路を回り込むように歩いて行った.

線路を過ぎるところで駅の方を望む.高岡からやってきた線路はここで終端だ.

 

その先の駐車場の中を突っ切ったところが,転車台に続くかつての線路敷となっていた.草むらだがよく刈り払いされており,通行にまったくの支障はなかった.隣に見える現役の側線には,豪雪地帯らしく除雪車が停まっていた.

季節は真夏.除雪車はお役御免で,雪の代わりに向日葵に囲まれていた.

 

ほどなくして,めざす転車台の跡に着いた.

機関車がすっぽり収まる大きな環状の掘込みを,空積みの見事な石垣が支えている.

 

堀の中には古レールが残されていた.

台を回すために使われていたのだろうか.

 

違う角度から.

石垣はしっかりしたもので綻びもなく,かつて放棄され瓦礫に埋もれていたようにはとても見えない.地元有志によって内部に植えられたコスモスは夏咲きの品種なのか,まだ盆前にもかかわらず既に開花していた.

 

そこから駅の側を望むと,

明治30年開業当初のものとみられる,石積みのプラットホームが見えた.

 

探索は以上.帰りの列車は既にホームに停まっていたので,冷房の効いた車内に入って涼んだ.この後は来た道を引き返し,砺波駅で回収した車を高岡駅前のカーシェアステーションに返却した.それから昼食を済ませ,路面電車新庄川橋へ向かったのだった.

歴史

最後に城端駅の歴史を概観しておく.以下特記しない限り,出典は富山県近代化遺産調査報告書 1 および砺波市3

 

城端線は,高岡市高岡駅南砺市 (旧城端町) の城端駅を結ぶ鉄道路線であり,このうち黒田駅 *1 と福野駅の区間は,明治30年 (1897年) 5月,富山県下初の鉄道として開業した.次いで延伸を重ね,同年10月31日には黒田・城端間が開通した.現在の城端駅舎はその際に建てられたものとされる.

 

城端線を開業させたのは地元有志が設立した中越鉄道であった.事業の中心となったのは砺波市鷹栖の大矢四郎兵衛で,明治26年 (1893年) 10月,友人であった般若野村の元代議士・島田孝之,および岡本八平・桜井宗一郎・安念次左衛門ほか呉西の実業家との連名で,逓信大臣に鉄道敷設の許可を申請した.本許可が下りたのは28年11月のことで,これを受けて中越鉄道株式会社が正式に設立された.鉄道工事は雪解けを待って翌29年6月に着手されたが,それから間もない29年7月に発生した庄川の大洪水 (新庄川橋の記事でも少し触れた) で被害を受けた.また経営面でも,日清戦争による不況への懸念から株主への応募が少なく,事業は決して容易ではなかったようだ.

 

困難の末に開業した中越鉄道により,それまでの庄川の水運に代わって,砺波平野で産出される米を伏木港まで容易に運搬できるようになった.明治末期には伏木と北海道小樽との間の定期航路が開設され,北海道に向けては大量の米を輸送,その帰り荷としてニシンなどの海産物を砺波地方にもたらした.また,絹,麻,木綿など砺波地方で生産される織物の貨物輸送もおこなわれ,地場産業を急速に発展させた.

 

中越鉄道の終着である城端駅は,絹の輸送や,蓮如上人開基の善徳寺への参詣の便に資した.また,昭和2年 (1927年) に城端八幡道路 (現・国道304号) が開通すると,合掌造り集落で知られる陸の孤島五箇山との間の物資輸送やバス路線の拠点となったほか,庄川上流で進められた電源開発に際しては,駅前からセメント樽などの資材を運ぶ索道が設けられ 4 ,旅客・貨物輸送ともに全盛期となった.

 

戦後,モータリゼーションの影響で,城端線は徐々に赤字路線となった.城端駅についても,昭和27年 (1952年) 8月時点1日平均で3,600人を超えていた乗降人員は,令和元年度には276人まで落ち込んでいる 5.また,かつては駅員が15人配置されていたが,平成6年 (1994年) に無人駅となり,現在は観光協会が委託を受けて改札事務を執っている.

参考文献

  1. 富山県教育委員会文化課・編 (1996) "富山県の近代化遺産:富山県近代化遺産総合調査報告書" p. 65,富山県教育委員会
  2. 松村裕子 (2020) "自慢の転車台 観光資源に 城端の有志整備、花の種まく:北陸中日新聞Web" 2022年1月16日閲覧.
  3. 砺波市史編纂委員会・編 (1965) "砺波市史" pp. 835-839,砺波市
  4. 砺波正倉・編 (2014) "五箇山の交通|砺波正倉" 2022年1月16日閲覧.
  5. 富山県・編 (2021) "令和元年 富山県統計年鑑" 2022年1月16日閲覧.

*1:国営北陸本線高岡駅の位置が決定するまでの仮駅