交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

参宮線 宮川周辺の鉄道遺産 (2021. 8. 30. / 2022. 3. 27. / 2022. 4. 20.)

伊勢神宮への参詣路線として開業したJR参宮線の構造物を訪ね歩いた.明治期から活躍する橋梁,戦時中の線路撤去の痕跡,さらには全線複線化を目指した夢の跡など,発見に満ちた探索の模様をレポートする.

 

三重県多気町の多気駅で紀勢本線から分かれ,伊勢市を経て鳥羽市に至るJR参宮線.その歴史は明治26年 (1893年) 12月12日,私鉄の参宮鉄道が,関西鉄道の津駅から相可駅 (現・多気駅) を経由して宮川駅までの区間を開業させたことに端を発する 1参宮鉄道という名の通り,伊勢神宮への参詣を目的とする路線であったが,その時点での終着・宮川駅は,神宮外宮から直線距離で3km離れた宮川の対岸であった.4年後の明治30年11月11日,宮川を渡る長大鉄橋が架設され,神宮外宮にほど近い山田駅 (現・伊勢市駅) までの区間が開業した 1明治40年になると,関西鉄道とともに国有化され,44年には鳥羽までの全通を果たした.

Sangu Railway Linemap 1907

▲国有化直前の参宮鉄道路線図 (ウィキメディア・コモンズより).相可駅は現在の多気駅,筋向橋駅は現在の山田上口駅,山田駅は現在の伊勢市駅.山田から鳥羽までの区間は当時未開通.

明治から昭和初期にかけて,参宮線伊勢神宮に参詣するための唯一の鉄道路線として,全国各地から長距離列車が通じるなど大いに栄えていた.また一部の区間では,当時としては珍しく複線化がなされていた.しかしながら,昭和6年 (1931年) に大阪・宇治山田間の参宮急行電鉄 (現・近鉄大阪線/山田線) が全通し,また昭和13年に参急に連絡する関西急行電鉄 (現・近鉄名古屋線) が名古屋まで開通すると,一気に客足を奪われた.さらに,せっかく複線化した区間も,戦時下でレールを金属として供出するために,昭和19年 (1944年) 8月から9月にかけて1線が撤去され,全区間が単線となった 2

 

戦後は近鉄線の改良,またモータリゼーションの影響を受け,参宮線は完全なローカル線に転落した.しかしそれが功を奏したというべきか,令和の今も,明治~戦前の鉄道構造物が多数現役で利用されている.

 

今回はそんな参宮線のうち,玉城町の田丸駅付近から,伊勢市の宮川渡河地点までの区間にある橋梁と駅舎を訪ねた.探索順序の都合上,路線の終点側 (伊勢市・鳥羽側) から起点側 (多気側) に向けてレポートする.以下,目次とレポートマップ.

このうち山田上口駅~宮川駅の区間は,明治30年 (1897年) 11月11日に開業したものの,長大な宮川橋梁の増線という難関を抱えていたため,複線化はなされていなかった.一方宮川駅~外城田駅の区間は,明治26年 (1893年) 12月12日に開業したのち,明治42年 (1909年) 12月30日に複線化され,昭和19年 (1944年) 8月8日に1線が撤去されている 2

山田上口駅・宮川駅間

宮川橋梁 (2021. 8. 30. / 2022. 4. 20.)

伊勢市駅から多気を経て名古屋・大阪に向かう参宮線.隣の山田上口駅を発つと,ほどなく本路線のハイライトである宮川橋梁で,一級河川宮川を渡る.明治30年 (1897年) に開通したこの橋は,流心部が上路プラットトラス橋11連,その両脇に合計7連の上路プレートガーダー橋が控えるという長大鉄橋で,補強・補修を経て,今も現役で列車を通している.

第18-14径間

最初の探訪は道路の宮川橋と同時におこなった.宮川橋東詰の「桜の渡し」の解説板のところで脇道に入ると,ほどなくして本橋の東詰となる.見えてきたのは右岸側のプレートガーダー部で,慣例に従って起点 (多気) 側から数えると第14径間から第18径間である.

参宮線宮川橋梁,第14-18径間.

▲第18間の銘板.「日本橋梁株式會社製作」「鐵道省」「八幡製鉄所」の文字が見える.年号は昭和五年か?(この時はスマホカメラしか持っておらず,はっきりとは写せなかった)

▲続く第17径間の銘板.こちらの桁は汽車製造が製作したようだ.「活荷重KS15」の文字も見える.

銘板からもわかるように,ここまでの桁は明治30年開通当初のものではない.「歴史的鋼橋集覧」3 によると,開通は昭和7年 (1932年) 12月.架換えの経緯は定かではないが,全国各地からのお伊勢参りの長距離列車が往来していた時期であり,車両の大型化・長編成化に耐えるように改築する必要があったのかもしれない.

 

桁は交換されているが,下部工は当初の煉瓦積みを留めている.橋脚・橋台ともイギリス積みの煉瓦造りで,隅石を備えている.桁座は桁の交換の際か,コンクリートで改修されていた.

▲煉瓦橋台.

▲煉瓦橋脚.

橋の南から入川道に進む.道が線路から離れるにつれて橋周辺の藪が濃くなり,容易には接近できなくなった.真夏ゆえ,こればっかりは仕方がない.

▲第14径間付近.藪が濃い.
第13-3径間

釣り人や川遊びの車が残した轍を辿って川辺に下りる.一気に視界が開け,350m先の対岸まで真っ直ぐ伸びる鉄の橋が見えた.

▲宮川橋梁,明治30年 (1897年) 竣工,近代土木遺産Aランク 4

低水路を渡る第3-13径間は上路ダブルワーレントラス.珍しい構造だが,当初は11連のプラットトラスであったところが,昭和17年 (1942年) に2連,昭和25年 (1950年) に9連が,それぞれ溶接によってダブルワーレントラスに改造されている 3.まだまだリベット接合が主流ではあったが,昭和6年 (1931年) の奥羽本線桧山川橋梁の補強をはじめとして,徐々に溶接が鉄道橋に用いられつつあった時代である 5

▲近景.「×」形に組まれた斜材のうち,手前が昭和期に補われたもので,奥が明治30年当初のもの.

引き返して道路の宮川橋を渡る.ここが最良の視点場だと思う.何しろ距離が近く,また遮るものがない.ただし道路は狭く交通量も多いので,ゆっくり観察することは難しい.

▲道路の宮川橋から見る参宮線の宮川橋梁.

渡って左岸側からの景.

▲左が参宮線宮川橋梁,右が道路の宮川橋 (昭和28年製のRCゲルバー桁橋).材料が違うので当然ではあるのだが,半世紀以上早く造られた参宮線の橋の方が,少ない橋脚数でスマートに大河を渡っている.

▲左岸下流側から見たる宮川橋梁.

▲桁裏.こうして見るとほとんどプレートガーダーだ.

2021年8月の初回訪問時には,上の写真を撮った河川敷の草むらでスズメバチに追いかけられて肝を冷やした.私はいつも蜂撃退スプレーを持ち歩くようにはしているが,このときはリュックの中にしまいっぱなしだった.街中だと思って油断していたのがいけなかった.現役橋・廃橋を問わず,橋の下は蜂の住処になりやすい.

 

最後に,2022年4月再訪時の写真も載せておく.河川内では何やら巨大な桟橋が築かれ,大規模な工事が行われていた.治水事業だろうか?

▲2022年4月20日撮影の宮川橋梁.
第2径間

トラス部と右岸堤防との間の第2径間は支間19.23mのプレートガーダー.これは左岸側高水敷部分と同じく昭和7年 (1932年) に交換された桁である 3.ただ,当日はトラス部と後述の伊勢街道架道橋に気を取られていたため,ここはスルーしてしまった.以下は2022年4月再訪時の写真.

昭和7年製の第2径間.上: 上流側,下: 下流側.

▲第2径間上流側に残されていた銘板.鐡道省,活荷重KS15,でば519-2 (「でば」はっくんげた,すなわち上路プレートガーダーの意),株式會社大阪鐵工所製作,昭和七年,八幡製鉄所の文字も見える.

第2径間の前後の橋脚はコンクリート製であった.元は煉瓦だったと思うが,昭和7年の桁の交換と同時に改築されたのかもしれない.

▲第2径間と第3径間の間のコンクリート橋脚.上半分は鋼材を巻き付けて補強されている.意外と煉瓦よりも頼りない印象だ.

▲第2径間と第1径間の間のコンクリート橋脚.堤防に埋め込まれた背の低いもので,実態は橋脚というより橋台であると思われる.
第1径間

堤防を過ぎた先の第1径間の真下は,県道428号伊勢小俣松阪線の片側車線となっている.もはや宮川を渡る橋ではないが,塗装履歴に「宮川橋りょう」と記されているので,ここもまだ宮川橋梁である.県道の拡幅のために堤防を一部切り崩したのかもしれない.

▲第1径間 (右手前).奥の2連は「伊勢街道架道橋」で,宮川橋梁とは別の橋として扱われている.

この径間は支間13.1mのプレートガーダーで,明治30年 (1897年) 当初のものとされる 3.主径間と同様,御年124歳にして当初の場所で現役という貴重な桁である.この桁の最大の特徴はJ型に曲がったスティフナーで,官設鉄道に採用されたいわゆる「ポーナル桁」に類似している.……という面白さがあるのだが,初回訪問時はそのことを気にも留めず先を急いでしまったので,以下の写真は2022年4月の再訪時に撮影したもの.

▲J型のスティフナーがポーナル桁の特徴.

よく観察してみると,官設鉄道のポーナル桁 (いわゆる作錬式,作30年式,作37年式) と完全には一致しないようだ (参考:「明治期におけるわが国の鉄道用プレートガーダーについて」6).対傾構が存在するので37年式に近いが,L字鋼であるという点が異なる (37年式は平鋼) し,下横構も違うような気がする (あまり詳しくないので自信がない).歴史的鋼橋集覧 3 の設計者の欄には「参宮鉄道か?」と記されているので,参宮鉄道独自の形式と思われる.なお,レールの載る主桁2本の外側に,並行して別の主桁を追加することで補強がなされている (いわゆる並列式補強).

▲わかりにくいがL字鋼の対傾構が存在する.

▲桁裏.後補とみられる底板で塞がれており,内側が見えない.主桁は4本で,内側2本の上にレールが載る.

伊勢街道架道橋 (2022. 8. 30. / 2022. 4. 20.)

宮川橋梁のすぐ西に2径間の桁橋が架かっている.宮川橋梁第1径間も含めて3径間の橋のように見えるし,たぶんそのように設計されているが,塗装履歴表示には「伊勢街道(架)橋りょう」と記されており,宮川橋梁とは別の伊勢街道架道橋として管理されていることがわかる.橋の下は伊勢側の第2径間が県道428号の片側車線 (もう片側は宮川橋梁第1径間の下),多気側の第1径間は草に覆われた空き地 (枯れ川?) である.これも含めて名称が実態に合っていない.

▲南側から見る伊勢街道架道橋 (2022年4月再訪時に撮影).右の第2径間の下は県道,左の第1径間の下は草むら.

▲「伊勢街道(架)橋りょう」の文字を有する塗装履歴 (上: 第2径間,下: 第1径間).

構造は第2・第1径間ともに鋼桁.銘板は見付けられなかったが,明治30年当初のものではなさそうだ.ただし橋脚・橋台は煉瓦造りであり,橋自体は明治期から架設されていたと思われる.

▲第2径間 (2022年4月再訪時に撮影).

▲第1径間 (2022年4月再訪時に撮影).

初回訪問時は平日夕方で交通量が多く,立ち止まって写真を撮ることもままならなかった (ここまでの写真が再訪時の撮影であるのもそのため) ので,車の途切れる瞬間に大急ぎで橋を潜り,北側に抜けた.

 

橋の北側で路肩に入る.一息ついて,橋を振り返ったとき,今回の探索で一番の発見があった.

正面が伊勢街道架道橋の第1径間.その手前,写真左下に怪しいものが写っているのがおわかりいただけるだろうか.

旺盛に茂る草の中で確かに存在を主張しているのは,これまた煉瓦である!!

 

藪の薄い4月に再訪した際の写真も載せておこう.

イギリス積み煉瓦の両脇に隅石を備える.どう見ても橋脚の一部である.

 

果たしてこの橋脚遺構は崩れかけなのか,あるいは積みかけなのか.「崩れかけ」だとすれば線路が載っていた時期があるはずだが,この区間は複線化されていなかった.隣接する長大な宮川橋梁の線路増設が難しかったからだ.線路付替えによって早々に廃止された旧橋脚という可能性も考えられるが,開業当初からの宮川橋梁への線形が不自然になるため,それもなさそうだ.

 

従って,これは「積みかけ」*1,つまり未成に終わった複線化計画の遺構に違いない.参宮線の宮川渡河地点の複線化は,まったく未着手だったわけではなく,新・宮川橋梁を架ける手筈さえ整えば,すぐにでも複線化できるように準備がなされていたのだ.そのことがわかったのは,今回の探索における最大の成果だった.

 

なお,ここでは他の遺構は確認できなかった.おそらく他にも橋台や橋脚が造られ (かけて) いたとは思うが,幾度となく改修されてきた宮川の堤防や,現役線の築堤を押さえるコンクリート土留めに埋もれているようであった.

▲伊勢側から多気側を望む.複線化の「夢」が実現していれば,正面の盛り土はもっと右に広がり,そこにもう1本線路が載るはずだった.

上の写真の複線化用地への立入りは,柵もあったので自粛した.2022年4月に再訪すると,この土地は刈払いされた上で,奥の汁谷川の護岸工事のためのスペースになっていた.もちろんその時も立ち入らなかった.

宮川避溢橋 (2021. 8. 30. / 2022. 4. 20.)

未成橋脚の発見で気を良くした私は,このまま800m先の宮川駅まで歩いて他の遺構を探すことにした.引き続き旧伊勢街道を北に進むと,100m北に信号があり,旧街道は左 (西) に折れる.一方の右は宮川の築堤だが,それを越えたところが,道路の宮川橋に取って代わられた「桜の渡し」の跡地だそうだ.その意味ではここが旧道分岐と言えなくもない.

 

ともかく,旧街道を70mほど進むと「宮古橋」で宮川支流の汁谷川を越える.当然参宮線の方にも橋が架かっている.宮古橋の手前で左に折れ,線路に近付いた.

現役線の桁橋の手前に,また怪しい人工物が埋もれている.近付いてみると……

また煉瓦だ!!

 

汁谷川を渡る橋梁でも,複線化工事が着手されていた.右岸 (東) 側に残るこの煉瓦積みは橋台の一部に違いない.現役線の高さの半分ほどしか現存しないが,小俣架道橋で考察するように,おそらく後年に上半分が取り壊されている.また天井に梯子が設置されていることから,現在は関係者が現役線に登るための踏み台として活用されているようだ.

 

藪の穏やかな4月に再訪した際の写真も載せておく.

イギリス積み煉瓦に隅石を有する立派なもの.

 

再訪時には少し時間に余裕があったので,未成橋台・現役橋台それぞれの煉瓦の寸法を計測した.5つほど無作為に選んで平均してみると,未成・現役のいずれも長手7寸5分,小口3寸6分,厚さ2寸のいわゆる「東京形」であった (現役の方が長手が5mm~7mmほど小さかったが,誤差と言って良いと思う).

 

さて,右岸側に煉瓦橋台の一部があった.では,左岸側はどうだろうか?そう思って対岸を望んでみると……

光量不足でわかりにくいので,再訪時の写真も載せる.

なんと汁谷川左岸には,完全な形の煉瓦橋台が残されていた.

 

宮古橋を渡って対岸へ.

橋台は現役線と同じ高さの重厚なもの.石製の桁座も取り付けられており,後は桁を載せるだけといった状態だ.

 

なお,両岸の橋台以外の複線化遺構,例えば橋脚などは確認できなかった.もともと造られていなかったのか,河川改修で撤去されたのかは定かではない.

 

思いがけない未成の遺構で既にお腹いっぱいな感もあるが,現役線もレポートしておこう.こちらも明治期の姿をよく留める貴重な橋である.構造は3径間の単純プレートガーダー橋.桁は宮川橋梁第1径間と同様の「参宮鉄道型」で,明治30年 (1897年) 開通当時のものと思われる.並列式補強が施されているのも宮川橋梁と同様だ.下部工は橋台・橋脚とも煉瓦造り.

▲宮川避溢橋.

参宮鉄道型,並列式補強済の桁.

▲下部工.橋台・橋脚とも上部がコンクリートで改修されている.

名称は塗装履歴に「宮川(ひ)橋りょう」と記されていたので宮川避溢橋.避溢橋ということは,開通当初は橋の下は陸地で,後年になって水路 (汁谷川) が造られたのだと考えられる.

▲「宮川(ひ)橋りょう」の名称を記す塗装履歴.

小俣架道橋 (2021. 8. 30. / 2022. 4. 20.)

宮川避溢橋を出た参宮線は,鉄道らしいゆったりした勾配で,地上にある宮川駅を目指して高度を下げてゆく.私はそれを横目に見ながら,できるだけ線路から離れないように,北側に並行する道路を歩いた.並行するといっても,道路と線路の間には幅30mほどの草藪まみれの荒れ地 (耕作放棄地?) が広がっており,また道路の反対側は住宅地だから人目もあったため,結局ろくに路盤に接近できなかった.

▲宮川避溢橋西の築堤を行く列車.

200mほどのところで道路が十字路に行き当たった.正面の細い道は宮川駅方面,右の道は集落方面,そして左の道は線路の方向である.もちろん左に折れる.ほどなくして,ずいぶん低い位置まで下りてきた線路が道路を跨いでいた.

▲架道橋.鮮やかな煉瓦橋台が残る.

▲名称は小俣架道橋.このフォーマットの掲示JR東海区間でよく見かけるが,これだけはっきりと名称が記されていれば間違えようがないので嬉しい.

▲線路を潜った先の南側.

▲上部工はIビーム桁 (2022年4月再訪時に撮影).

▲桁側面の銘板 (2022年4月再訪時に撮影).「昭和四年」「汽車製造株式會社製作」「鐵道省」の文字が見える.明治30年開業当初のものではないが,それでも戦前製の桁である.

伊勢街道架道橋,宮川避溢橋に続き,本橋でも複線化計画の遺構が残っていた.橋台が複線幅になっているのだ.現在,複線化用地は何かのケーブルが通されているようであった.

▲複線幅の橋台 (2022年4月再訪時に撮影).

驚いたのは,橋台の複線化用スペースが,コンクリートで改築されていたことだ.現役線の方ならばわかるのだが,管路が載っているだけの部分を,なぜわざわざ改修する必要があったのか.現地でその答えは出なかったが,帰宅後に調べてみると,どうやらこの区間は完全な「未成」ではなく,実際に線路が敷かれていた時期があったようなのだ.

 

その線路とは,小野田セメント (現・太平洋セメント) 伊勢サービスステーション専用線.宮川駅から分岐し,複線化用地を経て汁谷川の手前に至る短い専用線で,昭和46年 (1971年) の工場開設時に敷設された 2 が,わずか15年後の昭和61年に廃止となったとされる.

 

当時の航空写真が地理院地図で閲覧できる.以下は昭和58年 (1983年) 10月30日撮影の航空写真に私が加筆した図だ.

解像度の問題でわかりにくいが,よく見ると線路が2本並んでいる.北側が複線化用地を利用した専用線,南側が参宮線の本線.専用線の北側には上屋が見える.これはおそらく貨物ホーム,すなわち専用線の終点だったと思われる.現存しないが,そういうものがあったと思って本節最初の写真を見ると,左手の黒い影が,上屋を支えていたコンクリートの基礎のように見える.

 

また,上屋より東にも一条の「線」が続いていることも見逃せない.ただしどう見ても細いので,線路ではなさそうだ.おそらくこれは,専用線の終点と工場を結んでいた,ベルトコンベアではないかと思う.そもそも専用線参宮線の北側,汁谷川左岸までしか達していなかったが,工場自体は参宮線の南側,汁谷川の右岸にあった.その間で積荷 (セメント?) を輸送する仕組みがあったことは確実だ.

 

宮川避溢橋でみた汁谷川右岸の半ば崩れた橋台は,こうした輸送設備のために切り崩されたのであろう.そういえば,崩れかけ橋台の東に隣接して,同じ高さのコンクリートの基礎が築かれていた (この写真の左側に少しだけ写っている).現地では特に気にも留めなかったが,あれはセメント輸送の遺構だったのか…….

宮川駅 (2021. 8. 30. / 2022. 3. 27.)

小俣架道橋を出て,急速に暗くなりゆく中を歩く.駅に近付くにつれて,道路と線路も接近し,現役線の脇に複線化用地が取られていることもはっきり視認できた.前述のように,ある時期はセメント工場への専用線として活用された路盤である.

▲小俣架道橋・宮川駅間の路盤.現役線の手前 (北) に複線化用地が確保されている.

線路沿いに歩き,ようやく宮川駅に辿り着いた.開業は明治26年 (1893年).明治30年に宮川橋梁が開通するまでは伊勢神宮最寄りの終着駅であった.その頃の賑わいを示すかのように駅前広場は広々としている.その中心に風格ある木造駅舎が建っていた.

▲宮川駅舎.シンプルながら堂々とした木造駅舎で,壁面の下見板張りも見事.

既に暗くなっていたし,待合室の中には人もいたので,これ以上の写真を撮ることは諦めた.

 

2022年3月,明るい時間帯に再訪した.

▲宮川駅舎,昭和9年 (1934年) 竣工.

▲駅前広場の桜が咲き始めていた.

初回訪問時は見落としていたが,資産標によるとこの駅舎は昭和9年 (1934年) 12月建造.既に路線は伊勢市・鳥羽方面に伸び,当駅が終着駅でなくなって久しい時期である.

▲資産標.

今回は駅舎内は無人だったので,遠慮なく観察を進めた.大きな駅舎の半分以上は駅務室が占めているため,旅客スペースは意外と手狭な印象だ.宇治山田延伸によって需要が急落したという,この駅特有の歴史が顕れているのかもしれない.既に無人駅になって久しいらしく,窓口のシャッターは降りている.かと言って券売機があるわけでもない.列車に乗るときに整理券を取り,降りるときに車内か駅改札で現金精算する方式だ.ICカードも使えない.

▲窓口跡.

▲こじんまりとした待合室.

駅舎を出てホームへ.駅舎に面した1番線には,古レールを加工した支柱が上屋を支えている.リベットが心地よい.

▲1番線上屋.

▲上屋は昭和12年 (1937年) 12月竣工.

当駅のホームは2本あり,それらを跨線橋が結んでいる.跨線橋はさほど古いものには見えず,写真も撮らなかった.地理院の昭和58年 (1983年) の航空写真には写っていないので,それ以降の作であることは間違いない.それまでは構内踏切があったのだろう.

跨線橋から見る広大な宮川駅.

▲渡った先の2番線から見る駅舎.

宮川駅・田丸駅間

外城田川橋梁 (2022. 3. 27.)

宮川駅再訪に合わせ,ひとつ隣の田丸駅周辺も探索した.その中で最も印象に残ったのが,外城田川に架かる外城田川橋梁だった.

 

冒頭で述べたように,この区間

という経緯を辿っている.従って,前節までの区間とは,実際に複線化され,両方の線路に列車が走っていたという大きな違いがある.

 

古い駅舎の残る田丸駅を出て,線路沿いに宮川駅方向に歩くと,250mほどで外城田川に突き当たる.道路は「極楽橋」という高野山のような名前の橋 (昭和34年製RC桁) で対岸に渡るが,線路側を望むと,怪しい光景が広がっている.

下流側から見る外城田川橋梁.

川の両岸に道があり,橋への接近は容易だった.まず目を引かれるのは,流路の中央に立つ2本の橋脚.上流側 (右) は現役,下流側 (左) は単線化によって桁が撤去されている.また,両者とも煉瓦造りだが,上流側は赤煉瓦,下流側は黒い焼過煉瓦という違いがあるほか,隅石のサイズも異なる.

外城田川橋梁の橋脚.右が上流,左が下流

ここで気になるのは,2本の橋脚のうち,どちらが明治26年開業当初のものなのかだ.結論から言うと,私は下流 (左) の桁が撤去されている方だと考えている.根拠は橋脚の形状で,2本の橋脚は,いずれも上流側のみが尖頭型に加工されている.これは流木等が引っかからないようにするための細工と考えられるが,だとすれば,下流側の橋脚には必要ないはずだ.にもかかわらず両方に尖頭型の加工がみられる理由は,上流側の橋脚が存在しない時期があった,つまり下流側の方が古いからだと考えられる.

 

先に桁が撤去された下流側の橋 (跡) を報告しておこう.現在残る下部工も,結構痛々しい状態だ.橋脚こそ上部がコンクリートで補強されている程度でよく旧状を保っているが,左岸側の橋台は全面的にコンクリートで置き換えられており,煉瓦は見る影もない.このような改築が行われたのも,上流側よりも古いためだと考えれば納得がゆく.改築の時期は昭和以降と思われるが,結局昭和19年には線路が撤去されている.もったいないような気がしないでもない.

▲橋脚を違う角度から.下流側 (右) は上部がコンクリートで補強されている.

▲左岸下流の橋台.全面的にコンクリートで改修されている.桁座の部分に底板を留めていたと思しきボルトが残っている.

右岸側の橋台は焼過煉瓦積みを維持しているものの,上段はなぜか半分ほど切り欠かれている.下段は大きくモルタルが塗り固められ,そこに高さ制限バーが載せられている.

▲右岸側の下流橋台.線路が載っていた上段はなぜか半分ほど削られ,桁が載っていた下段はモルタルを食わされた上に高さ制限バーが載せられている.

続いて,上流側の現役線について報告する.私の推測が正しければ明治42年 (1909年) に増設されたこの橋は,驚くほど良好な保存状態を示していた.

 

下部工は橋台・橋脚ともに煉瓦造り.隅石を有する立派なもので,改築の対象になりやすい桁座部分も,切石製のままである.

▲左岸側橋台.下に写っている自転車は放棄されていたもの.

▲右岸側橋台.

上部工はプレートガーダー.スティフナーがJ型のいわゆる「ポーナル桁」であり,この時点で明治期の桁であることが確定する.桁下高が低いので内側の観察も容易だった.平板の対傾構とL型鋼の横構が存在するので,「関西補強型」と呼ばれるタイプの桁であることがわかる (参考: 「明治期におけるわが国の鉄道用プレートガーダーについて」6).これは関西鉄道が,官設鉄道の規格 (作30年式) を強化して設計したもので,国有化後に各地で用いられている.また,リベットが2列で打たれており,全体的に重厚な印象だ.この仕様は同じ参宮線汐合川橋梁と共通する.

外城田川橋梁,多気側第1径間.J形に曲がったスティフナーと,2列で打たれたリベットが特徴的.

外城田川橋梁,伊勢側第2径間.こちらもポーナル桁.

多気側第1径間の桁裏と内部.平板の対傾構とL型鋼の横構を有する.

また,さらに驚くべきことに,橋桁には判読可能な銘板が残っていた.右から左に「鐵道院 神戸工場製造 明治四十二年」と記されている.鉄道院の時代の,それも鉄工所や造船所の請負ではなく直営工場の名が刻まれた銘板を見るのは,個人的に初めてだった.また,明治42年はこの区間が複線化された年である.このことも,現役線が複線化にあたって増設された線であるという説を補強する.

▲「鐵道院 神戸工場製造 明治四十二年」と記された銘板.上: 多気側第1径間,下: 伊勢側第2径間.

見どころはもうひとつある.本橋は2径間だが,多気側の第1径間よりも伊勢側の第2径間の方が桁厚が小さい.このような場合,橋脚の上部に段を設けることで,桁厚の違いに対応する場合が多い.しかし本橋の場合,薄い側 (第2径間) の桁下に金属製の「支え」を噛ませることで,桁厚のギャップを埋めている.将来の桁の置換えを見据えた細工だろうか?「支え」は小さな鋼材をリベットで接合した箱で,側面にはひし形の開口部を有するという,見た目にはなかなか可愛らしいものである.

▲橋脚上の可愛らしい「支え」(何か正式な名称はありそう).左右の主桁の下に1つずつ設置されている.

最後に,違う角度からの写真も載せておく.

▲左岸側橋台と沓部.

▲伊勢側第2径間の桁裏.

▲上流側から見る参宮線外城田川橋梁,明治42年 (1907年) 竣工.

125年前を経てなお架設当初の姿を今に伝える,素晴らしい土木遺産だった.土木学会の「歴史的鋼橋集覧」にも「橋梁史年表」にも記録されていないが,もっと注目されて然るべき橋ではないかと思っている.

田丸駅 (2022. 3. 27.)

伊勢市のお隣,度会郡玉城町の中心駅である田丸駅にも,古い駅舎が残っている.宮川駅より古い大正元年 (1912年) 12月改築の,瓦葺切妻屋根を有する大きな木造駅舎である.

▲田丸駅舎,明治26年 (1893年) 開業,大正元年 (1912年) 改築.

▲資産標.

▲車寄せ.手書きの駅名標の横に注連縄を掲げる.アルミサッシではない木製の入口扉も良い.

駅舎の基礎はイギリス積みの煉瓦.その上に御影石が載り,さらにその上に木造の建屋が築かれている.不思議な構造だが,経緯は不明.大正元年の駅舎改築以前の構造物を再利用しているのかもしれない.

▲駅舎の基礎.

煉瓦といえば,駅舎と反対側の2番線ホームには,一部石積みが煉瓦で置き換えられた箇所があった.中段の切石2個分のスペースに,なぜか煉瓦が詰められているのだ.もともと何かが設置されていたスペースを後年に埋め戻したとみられるが,詳細は不明.

▲2番線で石積みの隙間を埋めている煉瓦.

駅舎内へ.外観に比べて内部がこじんまりした印象であるのは宮川駅と同様だ.無人駅となって窓口が閉じられているのもまた然り.ただしこちらの方が待合スペースは広く,椅子も多い.玉城町唯一の鉄道駅で田丸城跡にも近いため,ある程度の需要が維持されているのだろう.

▲駅舎内部.

参宮線の歴史は明治期まで遡るが,駅舎に関しては戦後改築された簡素なものが多い.そんな中で宮川駅と田丸駅は,戦前生まれの立派な木造駅舎が現役で働く稀有な例となっている.

田丸駅・外城田駅間

礫川暗渠 (2022. 3. 27.) 

田丸駅構内,長いホームの西の端近くを細溝が横断する.樋菅になってもおかしくない程度の規模だが,律儀にも煉瓦・石造りの橋が架けられている.

 

まずは南側.ホームの外側に沿う細い舗装道路を歩いてゆく.足元を注意深く見ていると,駅側の盛り土が途切れて煉瓦橋台が現れる.その上に載っているのは,なんと石桁.鉄道用の石桁暗渠は珍しい.が,よく考えてみると見えている範囲の真上は線路ではなく石積みのホームであり,特に驚くべきことではなかったかもしれない.

▲南側.

水はほとんど枯れていたので,普通靴でも容易に底に下りることができた.内部を覗いてみると,煉瓦橋台に載った石桁がびっしり並んでいる.線路2本とホーム2本が載っているので奥行きも相当なものだ.珍しいかはともかくとして,なかなか壮観な光景だ.

▲内部.

奥の方でなにやら桁厚が大きくなっている.おそらく線路が載っている部分だろう.そこを目指して背中を屈めながら進む.近付いてみると,漏水でおぞましい色になっているが,これも石桁か?

▲線路部分.

▲桁裏.モルタルが塗られている?

天井が低いのでこれ以上の進軍は諦めた.まさか這って進んだりはしない.引き返して道路に戻る.

▲最奥到達地点からの振り返り.

駅を迂回して北側へ.タクシー会社の敷地のはずれ,廃車体が置かれている先が北口となる.こちらも煉瓦橋台が露出しているのでわかりやすい.

▲北側.

橋台のいちばん北側には1線分の空きスペースがある.その手前 (上の写真の右奥) までは本線から分岐してきたレールが残っているので,この部分も利用されていた時期があったのかもしれない.そのままレールを伸ばすと駅舎に突き当たるので,これはおそらく,荷物用の引込線の跡だと思う.

▲貨物用引込線跡とみられる線路.橋は車止めの手前にある.

その「空きスペース」の先に簡易なプレートが掲げられている.曰く「礫川 外城田~田丸 6K892M」.これにより名称が「礫川○○」であることがわかる.○○に入るのは基本的には橋梁,暗渠,開渠のいずれかだが,開渠ではないし,また支間1m未満なので「橋梁」でもなく,名称は礫川暗渠と思われる.

▲橋名板.

こちらは南側と違って少しばかり水が溜まっており,また列車の時刻も迫っていたため,川底に下りて観察することは諦めた.

▲礫川暗渠,北側.こちらも石積みホームを石桁が支えている.

善兵川開渠 (2022. 3. 27.)

田丸駅構内にはもうひとつ橋梁がある.ホーム西端から約60m地点で用水路を跨ぐ桁橋だ.

 

まずは南側.こちらも煉瓦橋台が現役で働いている.ただし桁座の部分はコンクリートで改修されている.その上に載るのは上路のIビーム桁.

▲南側.

桁の側面に銘板が残っており,「運輸省」「昭和23年」「松尾橋梁株式會社大阪工場製作」「八幡製鉄所」の文字が読み取れる.運輸省国有鉄道を管轄していたのは昭和20年 (1945年) から昭和24年 (1949年) までのわずか4年間で,それ以降は日本国有鉄道に引き継がれている.従って「運輸省」の文字が刻まれた銘板は,ある意味貴重なものではないかと思っている.

▲銘板.

駅構内ゆえに複線となっている.ただし桁も橋台も複線幅ではなく,単線のものを並列させている.それぞれの橋台の間は石垣で埋められている.おそらくここも明治26年開業当初は単線で,後年に線路を増設したのだろう.

▲単線の橋が並列する.上下線の橋台の間は石垣が埋めている.

ここまででわからなかったのは本橋の正式名称だ.おそらく礫川暗渠と同様,線路の北側に回ればプレートがあると思われたが,そこに行くには交通量の多い踏切から線路敷に立ち入るか,南側から橋を潜って行くしかない.人目を気にした私は後者を選んだ.

 

時刻表を確認して列車を1本見送り,次の列車が来るまでの間に,体を屈めながら這いつくばるようにして南側の線路を潜る.桁下高が低いのでこれだけでも結構大変だ.川床に下りれば多少マシだが,こんなところで足を濡らしたくはなかった.なんとか上下線の間まで行き,体を起こす.もう1本線路を潜るのはしんどいな……と思ったところで,ふと振り返ってみると,今潜ってきた南側の桁に塗装履歴があり,そこに「橋りょう名 善兵川開渠」と明記されていた.

▲南側 (田丸駅2番線側) の桁の塗装履歴.

城山架道橋 (2022. 3. 27.)

田丸駅の東端から100mほど多気側の地点似,道路と水路を跨ぐ2径間の橋がある.桁はRCに置換えられているが,ここでも外城田川橋梁と同様,単線で開業→複線化→1線撤去という歴史を偲ぶことができた.

 

田丸駅から西に歩くと,250mほどでいかにも人工的な水路に行き当たる.対岸が田丸城のあった小高い丘 (城山) で,水路はそれを取り囲むような形になっているので,おそらく城の外堀の跡であろう.手前で左折して線路を目指すと,200mほどで橋の北側に着く.RCによる改修は大きいが,橋台・橋脚がイギリス積み煉瓦を留める2径間の桁橋で,多気側第1径間が水路,伊勢側第2径間が道路をそれぞれ跨いでいる.いずれも上部工はRCの床板桁.

▲北側.

名称を示すプレートは2枚掲げられていた.上の方には「城山架道橋」,下の方には「城山(ひ)」(城山避溢橋) と記されている.橋の下に道路を通す際に名称が「避溢橋」から「架道橋」に変更されたのかもしれない.いずれにしても実態はどちらかと言うと架道橋なので,ここでは架道橋として扱う.

▲橋名板.

橋を潜る.天井は低く幅員も狭いが,左右の壁は煉瓦なので,さほど嫌な圧迫感ではない.そして意外と奥行きがある.どうやらここも複線分の奥行きがあるようだ.

▲伊勢側第2径間内部.

上の写真で,左側の壁は伊勢側の橋台,右側の壁は橋脚である.わかりにくいが,ここに複線化の痕跡が写っている.まず左側の橋台では,一部煉瓦の壁が飛び出している.これは橋台を継ぎ足した跡と考えられる.飛び出しているのは上下線の橋台の間を埋める煉瓦積みであろう.右側の橋脚についてはもっと露骨で,上下線で橋脚が分かれている.その上に載るRCの桁は最初から複線幅で造られている.2本の橋脚が1枚の床版を支えているわけだ.

 

橋脚を違う角度から見ると,両方の橋脚も上流側が尖頭型に加工されている.「両方」というのがミソで,外城田川橋梁で考察したのと同様,流木等を逃がすためのこの形状は,本来ならば下流側には必要なく,従って上流側 (南側) の橋脚が後補と考えられる.

▲橋脚近景.上: 北側,下: 南側.いずれも上流側が尖らせてある.

南側から振り返る.こちらは橋脚の尖った部分に面しているので,北側とは少々印象が異なる.

▲南側.

もう一度橋を潜って北側に戻る.水路を渡る道が分かれており,そこから橋の上を眺めることができた.やはり線路は1本しかなく,その1本は上流側 (新しいとみられる方) に載っているが,路盤は複線分確保されている.

▲橋上の景.複線分の路盤が確保されており,線路は上流側 (向かって右手) に載っている.

ところで,RCによる改築より前の,明治26年の開通当初はどんな姿だったのだろう.プレートガーダーだったとすると,やけにスパンが短いように思う (2径間合わせて8mほどで,橋脚を立てなくても跨げたはず) ので,木橋だったのかもしれない.現代では考えられないことだが,「橋梁史年表」7 によると,開通時の参宮鉄道には安濃川橋梁,雲出川橋梁などで部分的に木橋が用いられていた.

参考文献

  1. 三重県教育委員会・編 (1996) "三重県の近代化遺産" pp. 104-105,三重県教育委員会
  2. 日本国有鉄道天王寺鉄道管理局・編 (1981) "天王寺鉄道管理局三十年写真史" pp. 162 / 176 / 227,日本国有鉄道天王寺鉄道管理局.
  3. 土木学会鋼構造委員会歴史的鋼橋調査小委員会・編 (1994) "歴史的鋼橋集覧" T1-004,2022年4月29日閲覧.
  4. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 142-143,土木学会.
  5. 佐々木秀弥 (1994) "溶接鉄道橋のあゆみ" 駒井技報,Vol. 13,pp. 62-73,駒井鉄工株式会社,2022年4月29日閲覧.
  6. 西野保行,小西純一,中川浩一 (1993) "明治期におけるわが国の鉄道用プレートガーダーについて" 土木史研究,第13号,pp. 321-330,土木学会,2022年4月29日閲覧.
  7. 土木学会附属土木図書館・編 (2008) "橋梁史年表" 2022年4月13日閲覧.

*1:実際に橋脚の形になった後に崩れたという可能性もある.