交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

富山市の永代橋 (2021. 8. 5.)

都市富山の水辺,富岩運河に架かるRCゲルバー橋を訪ねた.

 

富岩運河は,城下町富山と,近世以前から交易の拠点となってきた東岩瀬港を結ぶ水路である.内務省技師の赤司貫一によって昭和3年 (1928年) に立案されたこの計画は,同5年に着工,10年に竣工している.運河によって水運による物流が盛んになり,また黒部川電源開発の成功によって電力が安価に利用できたこともあって,沿岸には多数の工場が建設され,富山の工業化が進展した.戦後,物流の主役はトラックに移ることとなったが,運河は都市富山の貴重な水辺として整備され,いまに至るまで市民の憩いの場となっている.

 

富岩運河は当時としては大規模な土木事業であり,土木遺産と呼べる構造物が複数存在する.もっとも有名なものは中島閘門 (国指定重要文化財,近代土木遺産Aランク) であろう.閘門というのは水位の異なる水路の間に船を行き来させるための機構,言わば「水のエレベータ」である.中島閘門の場合はいまも観光船の通過に供されており,富山の観光スポットとして紹介されることも多い.しかし今回は,その対極とも言えるほど,無名な橋梁を訪ねてみることにした.

 

新庄川橋の探索を終えた私は高岡駅まで戻り,あいの風とやま鉄道線富山駅までやってきた.約10年ぶりに訪れる富山市街は再開発が進んでいた.特に高架になった富山駅の真下,改札を出た目の前から路面電車が発着しているのには驚いた.便利になったものだ.

 

岩瀬浜ゆきの路面電車に乗る.この路線は富岩運河に並行して建設された富岩鉄道をルーツとし,その後長く国鉄富山港線として営業されてきたが,紆余曲折を経ていまは路面電車に改造されている.平日の昼間であり,かつて廃止が取り沙汰されていたような路線だから閑散としたものだろう,と高を括っていたら大間違いで,2両編成の電車は身動きが取れぬほどの大混雑であった.

 

7つ目の越中中島停留所で下車.ここには国鉄時代から駅があった.旧国名を冠した駅名はいかにも国鉄らしい.ただし名残を留めているのは名称だけで,駅舎やホームは路面電車用の簡素なものになってしまっていた.

 

駅を出て,県道30号の中島三丁目北交差点から西の路地に入る.住宅地の中だが,1.5車線以上の幅員が常に確保されている.おそらく富岩運河の全盛期,沿岸の工場へのアクセス路として造られた道である.そんな道だから歩道はないが,地元住民の車や社用車がひっきりなしに通過する.気詰まりな思いで10分ほど歩き,ようやく目指す橋の袂,運河の右岸に達した.

古色ある背の低い高欄は私の大好物だ.重量制限4tの標識が掲げられており,それなりに老朽化していることが窺える.

 

親柱には,

「えいたいはし」「昭和十三年四月竣工」の青銅銘.富岩運河竣工の3年後の作で,Q地図を確認したところ,富岩運河に架かる橋としては,閘門の堤体と一体化したものを除けば最古とみられる.

 

階段で遊歩道に下り,川辺から.

順に上流側,下流側.わかりにくいがRCゲルバーで,両岸の側径間と中央の径間に桁の継ぎ目がある.水運に配慮してスパンを広げるための構造と思われる.

 

景観を考慮したのか全体的に白く塗られているが,あちこちの汚れや塗装の剥げ,またそれらを隠すための中途半端な上塗りの跡が痛々しい.綺麗に塗り直してあげてほしいものだ.

 

継ぎ目の近景.

L字形に切り欠いた桁同士を突き合せたスタンダードな構造.鋼板で補強されているが,意外にも落橋防止装置などは見られない.

 

さて,道路に戻って橋を渡る.

路面上には明確な継ぎ目.橋脚とは異なる位置にあるのがゲルバー橋の特徴だ.

 

高欄.

矩形の窓を連ねた簡素なもの.

 

渡って対岸の親柱.

永代橋」「昭和十三年四月竣工」.

 

こちらも川辺から.

ゲルバー橋らしい変断面の桁が好ましい.

 

探索は以上.左岸・右岸とも遊歩道が整備されており,県下だけでなく全国的に数を減らしつつあるRCゲルバー桁を間近で眺められたのがよかった.

 

本橋の詳しい来歴は不明.電子国土Webで確認できる,本橋を含む最古の航空写真は昭和47年 (1962年) のものである.

左が最新,右が昭和47年,中央の十字が永代橋である.昭和47年時点で,橋の西詰 (左岸) には工場らしきものが見える一方,東詰 (右岸) は現在と違ってただひたすらに農地が広がっている.また,そのさらに東には当時から太い県道が通っている.このことから,永代橋は富岩運河の完成を契機として建設された工場への,県道からのアクセス路として架けられたと考えている.ひょっとすると元は企業による私設橋かもしれない.根拠は「永代橋」という名称からの直感である.

 

一方,未来のことに目を向けてみると,平成30年度 (2018年) の点検結果は「予防保全段階」にとどまっている一方で,その前年,市の職員が道路構造物ジャーナルに寄稿した記事に,

本市では、これよりも古い昭和3年に架設した「永代橋」というゲルバー橋梁が有り、これに関しては、地元コンサルの点検の結果、問題ないとの報告であったが、私が再度確認したところ中央径間が垂れ下がっていることから、測量や載荷試験を実施し再確認したところだ。

との指摘があり,今後何らかの対応を進めることが明記されている.また,幅員も明らかに不足しており,歩行者や自転車が橋を渡れば,乗用車同士の離合もままならないような有様であった.この点からも,早晩架換えあるいは廃止がなされても不思議ではないだろう.あまり明るい未来は見通せないが,ともかく現状を記録することができたのはよかったと思う.