交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

(旧) 国道42号 両郡橋 (2022. 4. 20.)

三重県松阪市多気町.熊野街道櫛田川を渡る橋.

 

熊野街道が,伊勢湾に面した松阪の南の飯野郡射和 (いざわ ) 村 (→現・松阪市射和町) で櫛田川を渡る橋である.名前の通り橋上に郡の境があり,対岸は多気 相可 ( おうか ) 村 (→現・多気多気町相可) となっている.

 

場所: [34.506194504766015, 136.5408212787305] (世界測地系).

 

2022年4月20日,現地に赴き,昭和32年 (1957) 竣工の現在の橋と,先代の橋の遺構を訪ねた.

初代 両郡橋

射和と相可は,もともと櫛田川流域ではよく栄えた地域であり,両地区の間には江戸時代以前から賃取の渡船が設けられていた 1.近代に入ると,全国各地の例に漏れず架橋がなされ,明治22年 (1889) 1月には幅員2m,橋長94.5mの木橋が架けられた記録がある 2明治20年代には,熊野街道の大改修が各地で進められており,その一環だったのだろう.なお,この初代・両郡橋は現在の橋の位置から300mほど上流の延命寺付近にあったとされている 1.今回は時間の都合もあり,遺構の探索はしていない.

2代目 両郡橋

明治末期から大正にかけて,熊野街道の第二次改修が進められた.洪水のたびに流失していた両郡橋も改築の対象となり,明治41年 (1908) 8月に幅員3.6m,橋長99m,煉瓦製の橋脚を有する3径間木鉄混合ハウトラス橋が架けられた 1, 2.現在の橋から60mほど上流,明治22年 (1889) 創業の鮎料理専門店「みなとや」の通りにあった.この橋は木橋とはいえ堅牢で,昭和32年 (1957) まで実に半世紀近くにわたって利用され続けた.

 

「松阪・多気今昔写真帖」3 に掲載の2代目両郡橋.現役引退直前の昭和31年 (1956) に撮影された大変貴重な写真である.以下,同書のキャプションからの引用.

この橋は明治41年8月に架けられた。たいへんモダンな橋で、橋脚が高く、赤いレンガで積み上げられ、白塗りの木と鉄筋を使用した独特のデザインであった。写真は相可側から撮影したものである。

 

この橋が今も残っていればどれほど良かったことかと思うが,残念ながら現在の橋が開通した後に撤去されている.しかし,煉瓦積みの下部工は一部現存していた.

 

相可側の2代目両郡橋への道筋.写真左に「みなとや」が写っている.

 

ほどなく,何やら階段付きの台座があり,その上には国交省が設置した水位観測所が建つ.この「台座」こそが2代目両郡橋の橋台である.

 

脇に回ってみると,煉瓦積みの美しい橋台がその姿を留めていた.

 

イギリス積み煉瓦に隅石を配した橋台.この時代としては標準的な形式である.

 

よく見ると,橋台上には欄干 (袖高欄) も残っている.がコンクリート製に見えるので,竣工当初ではなく後付けのものだろうか.

 

川の中に目を向けてみると,煉瓦橋脚の基部も残っていた.

 

足元にこのようなものが転がっていた.明らかに加工された石材である.これも旧橋の一部だったりする?

 

わかりにくいが,対岸にも竹やぶに埋もれるように橋台が残っている.ただ,見ての通り大型ダンプがそこに至る道を塞いでいる上,実際に行ってみると真横の民家で人の出入りがあったため,接近はやめておいた.

 

その代わり,道中,つまり2代目両郡橋の射和側に,このような道標が残されているのを見つけた.両郡橋と平行する方向に「くまのみち」,直交する方向に「まつ坂みち」とある.2代目両郡橋が現役であった当初のものであろう.

3代目 (現) 両郡橋

戦後の昭和28年 (1953),新道路法の施行により熊野街道は (二級) 国道170号 (現在の国道42号) に指定され,昭和32年 (1957),それに呼応するように両郡橋は架け換えられた.現在の両郡橋である.構造は溶接カンチレバープレートガーダー.リベットではなく溶接によるプレートガーダーの製作が本格化した昭和20年代後期から,カンチレバー (ゲルバー) 桁が箱桁等に取って代わられる昭和30年代後半にかけての短い期間にのみ見られた形式である.

 

両郡橋,昭和32年 (1957) 竣工.スマートな姿で軽々と櫛田川を渡る.

 

架け継ぎ部分.落橋防止装置が添加されている.

 

橋上の景.昭和30年代とそこそこの古さにも関わらず,両側に歩道を配する幅員の大きさ.さすがの熊野街道といったところか.

 

左手 (相可側・上流) の親柱.正面に「兩郡橋」,路面側に「施工者 松阪市 株式会社 北村組」と刻まれた題額.

 

右手 (相可側・下流) の親柱.正面「りようぐんはし」,路面側「昭和三十二年三月架換」.

 

渡って射和側からの景.

 

右手 (射和側・上流) の親柱.正面「りようぐんはし」,路面側「昭和三十二年三月架換」.

 

左手 (射和側・下流) の親柱.正面「兩郡橋」,路面側「櫛田川」.

 

鉄の橋には付き物の製造銘板を探すのを不覚にも忘れていた.橋梁史年表 2 にも鋼桁の製作者の情報はない.

 

なお,両郡橋の竣工から30年後,交通量の増加に伴い国道42号松阪多気バイパスが事業化され,平成10年 (1998),約600m下流に新両郡橋が開通している 4.これにより両郡橋は県道160号松阪多気線に降格となっているが,引き続き地域の重要道路として利用されている.

参考文献

  1. 大西源一 (1954) "相可町史" pp. 65-70,相可町教育委員会
  2. 土木学会附属土木図書館・編 (2008) "橋梁史年表" 2024年1月12日閲覧.
  3. 下村登良男・監 (2009) "保存版 松阪・多気今昔写真帖" pp. 152-153.
  4. 国土交通省中部地方整備局紀勢国道事務所 "国道42号 松阪多気バイパスのあゆみ | 国道42号 松阪多気バイパス | 事業の紹介 | 国土交通省中部地方整備局 紀勢国道事務所" 2024年1月12日閲覧.