英虞湾と太平洋を結ぶ深谷水道に架かる,戦前製のRCアーチ橋を訪ねた.
目次
総説
深谷水道
三重県志摩半島の南部はリアス式海岸で知られている.陸地の形状は大まかに「つ」の形状を描いており,内海は英虞 (あご) 湾である.
英虞湾といえば,真珠の名産地として有名だ.真珠採取自体の歴史は奈良時代にまで遡るとされるが,明治20年代の御木本幸吉の成功以来,湾内では真珠の養殖が盛んになった.
英虞湾南部の船越村 (→志摩市大王町船越) と片田村 (→同片田) も,真珠の養殖に取り組んでいた.しかし湾の奥に位置するため,冷潮が滞留しやすく,真珠稚貝の発育不良・母貝の死滅といった問題を抱えていた.これに対し,半島の一部を切り開いて水路とし,太平洋の暖かい黒潮を湾内に引き入れる計画が,両村によって立案された.最適地として選ばれたのは,陸地が最も狭い深谷地区 (「つ」の右下) であり,三重県の許可のもと昭和6年 (1931年) 8月に着工,1年3ヶ月の歳月と工費13,5000円をかけ,翌年10月14日,延長660m,幅14.5mの水路が竣工した 1.これが深谷水道である.
深谷水道は単に英虞湾の水質を改良しただけでなく,英虞湾内と太平洋を最短距離で結ぶ航路・避難路として,英虞湾奥地の漁民に大きな利益をもたらした.水道を契機として片田浦には漁港が造られ,また麦崎沖には多敷網 (定置網の一種) も設けられた 1.近年その功績が評価され,水産庁による「漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれている 2 ほか,土木学会による「日本の近代土木遺産」3 は,
都市部以外での開削運河は稀/水質改良(→効果低い),漁船航路の短縮(→2時間短縮)
としてA級の近代土木遺産に認定している.
深谷橋
深谷橋は,深谷水道によって分断された先志摩半島の両岸を結ぶ橋で,水道開鑿と同時に架設された.当初は「深谷大橋」を名乗っていた.31.7mのスパンを無橋脚で跨ぐ鉄筋コンクリート (RC) アーチ橋で,先志摩地方最大級であったという 1.
架設当初の深谷橋 (「三重県の近代化遺産」1 より).水道本体は未だ工事中で,トロッコ軌道や数多の人夫が写っている.
戦後,並行して新橋が架設されたために,深谷大橋は旧道となった.同時に「深谷大橋」の橋名を新橋に譲り,「深谷橋」と呼ばれるようになった.その後も (旧) 深谷大橋,すなわち深谷橋は引き続き人道橋として現役で供用されている.今回はそんな深谷橋を訪ねることにした.
探訪記録
鵜方駅で近鉄特急から三重交通バスに乗り換えた.絵かきの町として有名な大王崎を経由して英虞湾をぐるっと回り,およそ30分で,その名もズバリの「深谷水道」停留所に着いた.
バス停から西に歩いてゆくと,ほどなくしてこの看板.わかりやすさのためだとは思うが,「深谷橋」ではなく「旧深谷大橋」と表記されているのが,旧道落ちしても「大橋」であることは変わらない,と暗示しているかのようで良い.
坂を下った先が深谷橋の東詰だ.人道橋化に伴って車止めポールが設置されている.
親柱は現存しなかった.また高欄も,背の高い無機質なもので,昭和後期以降に置換えられたものと思われた.旧道となった際の施工かもしれない.
橋上に立って北を望む.これが昭和7年 (1932年) 竣工の深谷水道だ.
南を望む.青く塗られた道路橋は (現) 深谷大橋で,当地における幹線道路として多くの自動車を通している.
渡って振返り.こちらにも親柱は現存せず.
橋上のチェックを足早に終えたので,次は違う角度から橋を眺めたい.幸い,今立っている橋の西詰には,水際まで下りてゆく階段があった.しかし,北側に釣り人の車が入っているのが見えていたので,車両の入れる道を辿ってみることにした.
旧道が西で現道と合流する直前,北に逸れる道があった.「海の見える別荘地 好評分譲中」というバブル期らしい (?) 看板を見ながら,まばらに家の並ぶ住宅街を歩いてゆくと,右に下ってゆく急坂がある.そこを下りてゆくと,ほどなく水道の岸に達した.
水路は案外幅広く,護岸を整備した自然の川のようにも見えてしまう.相当大きな船でも航行できそうだ.
右を向くと,白塗りの美しいアーチがすぐそこに見えている.引き寄せられるように歩いて行った.
深谷橋,昭和7年 (1932年) 竣工.総説で引用した古写真に近いアングルから望んだ,今の姿である.
近景.アーチの壁面は厚塗りが激しいが,輪郭に沿う線刻や,頂部に埋め込まれた要石など,ささやかな装飾が施されている.橋台は箱型で,横縞模様が入っている.同じ三重県下の小坂隧道 (昭和13年) や矢ノ川隧道 (昭和11年) のピラスターに似ているような気がするが,関連の有無は不明.
アーチの真裏.
潜り抜けて南側.上に写っているトラスは配管用の橋だ.
そのまま水道に沿って歩いて行くと,外海に合流する地点に灯台が立っていた.
振り返って新旧の深谷大橋を眺めた景.新橋は鋼桁.
崖側の法面は一部素掘りのままの岩盤が露出していた.火薬くらいは使ったかもしれないが,大型重機などなかった時代のこと,現代と比べると大変な工事だったのではないかと想像する.
引き返し,旧橋西詰にある階段を登って道路に復帰した.帰りのバスまでもう少し時間があるので,新・深谷大橋の親柱もチェックしておくことにした.
深谷大橋,ふかやおおはし,深谷水道,昭和53年3月竣工.深谷橋が旧道となってから40年余りが経過しているようだ.
そうこうしていると,ちょうど漁の終わりの時間になったらしく,何艘もの漁船が水道に入り,深谷橋を潜って英虞湾方面へ帰って行った.
90年近く前に先人が開いた深谷水道は,今も地元漁業に大きく貢献している.そのことを実感できる光景だった.
バスの時間が近付いてきたので,もう一度深谷橋を渡り,停留所に戻った.その途中,北側の茂みが気になって覗き込んでみると,
水道の開鑿記念碑が立っていた.「起工 昭和六年八月三十日」「竣工 昭和七年十月十四日」「三重県知事 正五位 勲四等 廣瀬久忠書」の文字も見える.これもまた嬉しい発見だった.