旧玉川町域の渓谷を高々と跨ぐ,戦前製のRCアーチ橋.
愛媛県は知る人ぞ知る近代 (明治~昭和戦前) の橋の宝庫であり,特に大正~昭和という黎明期の鉄筋コンクリート (RC) 橋が多数状態良く残されている.その構造も桁橋に限らず,例えば久万高原町の中ケ市橋は,全国的にも珍しい戦前の方杖ラーメン橋である.八幡浜市の明治橋は国内現役最古の下路アーチ橋であり,町のシンボルとして親しまれている.そして,大正11年 (1922) という古さを誇る久万高原町の有枝橋,石鎚山麓の「未完の幹線道路」に造られた昭和2年 (1927) の大宮橋,大変美しいシルエットながらダムの底に沈んだ昭和5年 (1930) の船戸川橋など,計16本もの上路アーチ橋が架設されている 1.
今回訪ねたのは今治市,旧玉川町域の蒼社川に架かる落合橋.昭和12年 (1937) 竣工のRC開腹アーチ橋であり,県内に現存する近代のRCアーチ橋としては最後発である.
場所: [33.996856, 132.939560] (正解測地系).
今治市街から国道317号を南下すること10km.県道154号東予玉川線に入って400mほどのところの路肩に車を停めた.
左 (東) に細道が分岐する.目当ての落合橋は分岐した先にある.
普通車がギリギリ通れるくらいの幅員の道である.
路肩が崩れている….
ほどなく,古い高欄が見えてきた.
昭和12年 (1927) 竣工の落合橋.背が低くどっしりとした親柱と高欄の古色が素晴らしい.苔むしているがそれも良い.
親柱には「落合橋」「おちあひはし」.
下流側から全体を眺めてみる.噂通りRCアーチ!これはぜひとも下から見上げてみたい.
まずは渡ってみることにする.
高欄.尖塔アーチ型の窓を連ね,短い間隔で中柱を配した意匠.個人的にはかなり好き.
橋上からの風景.ここは蒼社川の河口から12kmほどの地点であるが,既に川幅はかなり狭く,谷は深い.なかなか見事な渓谷である.もう少し紅葉が進んでいたらもっと見ごたえがあっただろう.
ここからもう少し上流に進むと,奥道後玉川県立自然公園の区域となる.蒼社川 (名称が木地川に変わる) の周囲は鈍川渓谷と呼ばれる名所であり,その岩場からは温泉が噴出する.有名な鈍川温泉である.
渡って振返り.
右の親柱には「落合橋」.
左は「昭和十二年八月架…」.下の方が埋もれていて読み取れなかった.
さて,橋上で観察できるものはすべて見た.橋の下に降りよう.
もう一度橋を渡って西側に戻る.
西詰にこのような看板がある.ここが降り口である.
長谷発電所.明治40年 (1907),今治地方に初めて電気の灯をもたらした発電所である 2, 3.蒼社川から引いた水を,下流の三島神社内にて18mほどの高さから落としてタービンを回すもので,大正9年 (1920) という早期に一線を退いたものの,川沿いの水路や堰などの遺構が残る.そして,落合橋の左岸側橋台は,長谷発電所の水路跡の上に建造されている.
橋上から下を窺う.トラロープが見えており,ここを降りた人が居たことがわかる.トラロープに頼って降りるのは一般的に悪手だが,さほどの斜面ではなさそうだ.これなら大丈夫と確信し,実際トラロープにはほとんど頼らず斜面を降りた.
橋台に続く石垣を眺めつつ…
見えた!
振返り.このくらいの斜面である.
そして,谷底まで降りると…
Wonderful.
アーチのシルエットは端正な半円形.鉛直材はアーチ状に美しく加工されているが,この特徴は県内の多くのRC開腹アーチ橋,すなわち有枝橋,瀧渡瀬橋 (現存せず),宿野々橋,大宮橋,船戸川橋と共通する 1.ただしもともと林道あるいはそれに近い道であったためか,装飾は抑えめである.あまり予算がかけられない中,先達の優れた意匠を可能な限り取り入れたと言えるだろうか.
付近には長谷発電所導水路の水路や堰の跡が残る.全て石積みの見事なもの.
岩場を伝って橋の下へ.いわゆるリブアーチではなく,板状のアーチ部材となっている.
下流側.
下流側で見つけた謎の遺構?発電所関係と思われるが,正体は不明.
もう一度橋を潜って上流側へ.
清い渓流と美しい橋.いつまででも眺めていられる最高の組合せ.
引き返し,今度はロープを使って路上に復帰する.県道まで戻ると,ふと道路の反対側に,大きな石碑が建っているが見えた.
「木地川林道創設者 越智重太郎翁之碑」「愛媛縣知事 青木重臣書」*1.
裏面.書き起こしてみよう.
木地川沿岸二千町歩余ノ林産物搬出ハ古來千疋峠ヲ越ス坂路只一ツノミニ
シテ不便言語ニ絶スル状態ナリキ越智重太郎翁夙ニ之ガ対策ヲ考究木地川
線林道開設ノ可能ヲ確メ大正十二年木地川土工施業森林組合ヲ組織大下ヨ
リ上木地ニ至ル車道本線一万二千米余及ビ分岐支線道三万八千余米ノ林道
開設ノ工ヲ起シ二年ニシテ完成爾来林産物は車馬搬出トナリ地方振興ニ寄
與シタル業績偉大ナリ後同路線ハ更ニ巾員拡張ノ要ヲ生ジ余ハ父ノ志ヲ継
キ四ケ年計画ヲ以テ完成スルヲ得タリ茲ニ竣工ヲ記念シ本碑ヲ建立ス
昭和二十六年晩春 鈍川村森林組合長 越智岩太郎誌之
大正12年 (1923) から2年がかりで建設された「木地川林道」の功労者である越智重太郎を称えるとともに,その息子・越智岩太郎が4年かけて進めた拡幅改良事業の竣工を記念した石碑である.その林道が具体的にどのようなルートだったかは定かではないが,木地川左岸沿いに残る道 (鈍川温泉より北は県道154号) の原型ではないかと思う.「本線」の12kmは,いまの国道317号から鈍川渓谷を過ぎ,上木地 (奈良原神社への登り口) までとすると妥当な距離である.
そう考えると,今回訪ねた落合橋は「木地川林道」の本線ではない.しかし,碑文は支線として本線の3倍以上の距離を計上しており,落合橋も「支線」として建設された可能性がある.しかし,落合橋は昭和12年 (1937) 竣工だから,林道が竣工し. た大正14年 (1925) 頃当時はなかったことになる.そこで昭和3年 (1928) 修正測量の旧版地図を見ると,確かに同じ位置に橋が描かれている.つまり旧橋があったのだ.大正14年頃,木地川林道の支線として架けられた落合橋が,昭和12年 (1937) に架け換えられて今の姿となったのではないか,と思われる.
探訪は以上.車に乗り込み駅に戻った.