交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

毛見隧道と鵬雲洞 (2021. 6. 5.)

紀伊半島の西の入口に穿たれた,美しい隧道を訪問した.

目次

はじめに

和歌山県庁のある和歌山市と,紀州漆器をはじめとした工芸の町として知られる海南市の間には,船尾山という山が聳えている.標高は153mと決して高い山ではないが,和歌山市側では山がそのまま海岸線に落ちゆく地形であり,古くから交通の難所であったことは想像に難くない.

その船尾山には,4本もの隧道が並んで穿たれている.西から順に,(旧) 国道の毛見隧道,(現) 国道の新毛見トンネル下り線・上り線,そして (元) 路面電車用で現在人道用の毛見トンネル (鵬雲洞) である.そのうち毛見隧道は大正14年 (1925年),鵬雲洞に至っては明治44年 (1911年) 竣工という古さでありながら,当初の美しい姿を留めたまま,現役で供用されている.今回は,それらの隧道を探索した.

毛見隧道

南海和歌山市駅からバスに乗り,「浜の宮」で下車.片側2車線に歩道もある道路を歩道橋で横断し,海側に回ると「浜ノ宮」交差点で旧道分岐がある.旧道の幅員は1.5車線ほどだが,その3割くらいは歩道となっており,残りの部分が北向きの一方通行となっている.もちろん歩道に一方通行などはないので,古そうな社屋などに挟まれた旧道を南進していくと,その美しい姿がすぐに見えてきた.

毛見隧道,大正14年 (1925年) 竣工,近代土木遺産Aランク 1土木学会選奨土木遺産 2紀州青石とベージュの花崗岩で造られた,唯一無二の芸術的な坑門である.

 

北側の扁額には

「毛見隧道 大正十四年 久一書」.久一というのは,大正13年から昭和2年まで和歌山県知事を務めた長谷川久一氏のことと思われる.扁額よりも上には,のこぎり状に矩形を配置した装飾,いわゆるデンティルも見える.

 

帯石ラインより上には,

花崗岩によるピラスター.坑門の倒壊を防ぐという本来の役割は果たしていないが,それでも秀逸な装飾である.これだけで坑門全体がキュッと締まった印象になる.

 

そして翼壁の隅は,

花崗岩を階段状に張ることで整えている.目立たないためか雑に施工されがちなこの部分も,本隧道では丁寧に仕上げてある.

 

坑口付近からアーチ最上部を見上げると,

要石が奥行き方向にもとびきり大きく加工されている.ここにも意匠へのこだわりが感じられる.

 

1枚上の写真にも写っているように,内部は幕のようなもので全面的に被覆されており,その構造は窺えない.そこが唯一残念なところだ.「和歌山県の近代化遺産」3 には側壁がコンクリートであるという記述はあるものの,肝心のアーチについては触れていない.改修前の写真でもあればよいのだが.

 

後補と思われる歩道を歩き,南側坑口から脱出して振り返る.

扁額には,

「乾坤純和」.「乾坤一擲」という言葉があるが,それと同じく「乾坤」は天と地といいう対比の言葉で,それが和らぐ,つまり天も地も総てが平穏である,といった意味と思われる.船尾山という交通の難所を一気に解消し,和歌山市と黒江・海南の間の往来を格段に便利にした本隧道の功績を讃えているといえよう.また私の調査は及んでいないのだが,本隧道の開鑿を含む熊野街道 (和歌山県道・和歌山御坊線,現在の国道42号) の改修では,そのルート選定において,旧街道沿道との調整が難航したとする情報もある 3.人々の融和を希求しての「純和」だったのかもしれない.

 

最後に,引いた位置からの振り返り.

銘石として古くから珍重される紀州青石をふんだんに使用した,唯一無二の「ご当地」隧道である.

新毛見トンネル

毛見隧道の東側には,現・国道42号の新毛見トンネルが下り線 (熊野方面) と上り線 (和歌山方面) のそれぞれに対して穿たれている.まずは下り線.

新毛見トンネル,昭和46年 (1971年) 竣工 4.全くと言っていいほど飾り気のないコンクリートトンネルである.

 

そして上り線.

新毛見トンネル,平成6年 (1994) 竣工.こちらは一応装飾は施されているし花の絵も描かれている.この地に穿たれた4本のトンネルの中では最後発で,開通前は大正生まれの毛見隧道が国道42号の下り線,現在下り線用の昭和トンネルが上り線用として供用されていたようだ 3

鵬雲洞

4本のトンネルのうち最も東側に位置するのが,明治生まれの鉄道隧道である. まずは南側の坑門から.

(旧) 和歌山水力電気 / 南海和歌山軌道線・毛見トンネル (鵬雲洞),明治44年 (1911年) 竣工,近代土木遺産Cランク 1土木学会選奨土木遺産 2

 

鉄道用としてはずいぶん幅広な,それでいて複線用としては狭く見える坑口は,比較的小さい路面電車の複線用だったようだ.なお「廃線隧道」さまの記事 5 には鉄道が現役時の写真 (絵葉書?) が掲載されており,確かに複線をひとつの坑口に収めていたことがわかる.

 

近付いて見上げてみると,

アーチ部分は盾状迫石で,要石がひときわ目立たせてある.その上には帯石・扁額・笠石を備えている.

 

時期が悪く,扁額の文字はほとんど読めないが,「和歌山県の近代化遺産」3 によると篆書で「天開図画」だそうだ.そう思って扁額を見ると,右書きで確かにそう書いてあるように見える.読んで字のごとく天が開いた (描いた) 素晴らしい絵という意味で,浜の宮,琴の浦,そして和歌の浦といった周囲の風景の美しさを讃えているものと思う.ちなみにこの天開図画という言葉,私は浅学ゆえに知らなかったが,室町時代水墨画家・雪舟が自らの住居を「天開図画楼」と名付けていたことで有名だそうだ.

 

坑門の壁面は,

長手の段と小口の段を交互に重ねるイギリス積みの煉瓦造り.

 

さて,入洞.

内部はコンクリートが吹き付けられているが,元は素掘りに見える.日本の近代土木遺産1 も中間部は素掘りとしている.吹き付けは自歩道化にあたっての施工と思われる.

 

そして鉄道トンネルには必須の待避抗の跡も確認できた.

ここのオリジナルの姿も気になるところだ.素掘りの穴だったのか,それとも煉瓦アーチなどが組んであったのか.

 

写真を撮りながらゆっくり歩いても5分とかからず北口に至った.脱出して振り返る.

こちらは陽が当たらないためか植生が穏やかで,坑門の全体像がわかりやすい.

 

見上げると,

大きな要石がやはり素晴らしい.扁額には「鵬雲洞」という雅号とともに「明治四十四年十一月」の文字が刻まれている.その左は揮毫者の名前と思われるが,残念ながら風化によって判読困難となっている.

おわりに

この地での探索は以上である.県庁所在地である和歌山市の中心部,さらに大阪からもさほど遠くない場所にあって,見どころの多い隧道群だった.特に毛見隧道の美しさと独創性は一級品で,同じく紀州青石をふんだんに使用した和歌山城のように,もっと広く認知されても良いものと思われた.また鵬雲洞の方も,「日本の近代土木遺産1 では

楯状迫石と若干装飾的な楔石以外は普通の鉄道用煉瓦トンネル/上記、毛見トンネルを含め4本のトンネルが並んでいる点に価値がある

という何とも微妙な評価が下されているが,煉瓦と迫石に扁額を備えたポータルがそのまま残り,しかも自歩道として手軽に明治期の雰囲気を味わえるように整備されていることは,希少性ともかくとしても素晴らしいと思う.

 

この後は海南駅までバスで向かってJRで家路につくつもりだったのだが,バス停の位置をよく確認できていなかったので,間に合わなかった.自家用車は多く走っているのにバスは少ないという典型的な車社会で,次発便は1時間後だった.半ば自棄になった私はそれを待つことなく,反対側の和歌山市に戻るバスに乗り,日暮れが近付く中,存在だけは知っていた和歌山市内の廃隧道の探索を決行することにしたのだった.

 

新和歌浦第一隧道・第二隧道に続く.

参考文献

  1. 土木学会 (2008) "和歌山県 - 日本の近代土木遺産(改訂版)" 2021年7月17日閲覧.
  2. 土木学会選奨土木遺産選考委員会 (2017) "鵬雲洞・毛見隧道 | 土木学会 選奨土木遺産" 2021年7月17日閲覧.
  3. 和歌山県教育庁・編 (2007) "和歌山県の近代化遺産:和歌山県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" pp. 85, 103,和歌山県教育庁
  4. よとと (2007) "和歌山市・海南市・岩出市・紀ノ川市トンネル by.くるまみち" 2021年7月17日閲覧.
  5. しろ (2012) "廃線隧道【BLOG版】 南海電鉄・鵬雲洞と旧国道42号線・毛見隧道" 2021年7月18日閲覧.