丹後街道が耳川を渡る橋.橋自体は新しいが,歴史を偲ぶことのできるユニークな造りとなっている.
越前国・敦賀 (福井県) と丹後国の舞鶴・宮津 (京都府) を結ぶ丹後街道は,若狭国・三方郡で,耳川という日本海に注ぐ河川を渡る.耳川橋は,そこに架けられた橋である.
古くから官道として整備されてきた丹後街道の重要性から,明治27年 (1894) には既に橋が架けられていた.昭和36年 (1961) には200m下流に国道27号現道の美浜大橋が開通し,耳川橋は交通の主役から退いたが,引き続き地域の生活道路として維持されている.
現在の耳川橋は,昭和33年 (1958) 竣工の旧橋が老朽化したために架換えられたもので,平成28年 (2016) に着工,令和2年 (2020) に竣工した 1.これほど新しい橋は私の興味の範囲外だが,田代隧道からの帰りに通りがかってみると,実にユニークで興味深い橋だった.
右岸上流側から見る耳川橋,令和2年 (2020) 竣工,延長89.5m,幅員7.5m 1.現代らしいスケールの大きな橋だが,木製の桁隠しが落ち着いた雰囲気を醸している.
銘板.構造は3径間のPC (プレストレストコンクリート) 中空床版橋となっている.通常の道路橋としての活荷重だけでなく,雪の重みも考慮して設計されているのが,いかにも雪国である.
東詰からの景.橋自体は2車線以上を載せられる幅員を有するが,車道は1.5車線程度に抑えられ,かわりに歩道が確保されている.交通の主役は国道27号現道に譲り,本橋は子供も含めた地域住民の生活道路であるという現状を反映したものと解せる.
本橋の面白さは親柱にある.上の写真から右を向き,右岸下流側の親柱を見る.
「明治時代の耳川橋」の写真が,御影石の親柱にはめ込まれているのだ.こんな親柱は,日本広しといえどもここだけではないか.
写真に写るのは多径間の木桁橋.背の高い親柱や袖高欄も備えている.町の中心となる街道ゆえか,沢山の人が橋にたむろしている.
土木学会の「橋梁史年表」2 にある最も古い耳川橋の記録は,明治27年 (1894) 11月架設,長さ91mの木橋である.次いで明治42年 (1909) にも木橋架設の記録がある.現在の親柱の写真は,それらのいずれかとみられる.
続いて左岸下流側の親柱.
今度は「大正時代の耳川橋」.こちらも木橋だが,橋脚の基礎はコンクリートのようにも見える.また,左奥には明治期のものとみられる旧橋も写っている.
大正期の耳川橋として,大正2年 (1913) 4月,長さ89m,幅員3.5mの木橋が架けられたことが記録されている.明治42年 (1909) の架橋からわずか4年後のことであり,旧橋が残っていたのも必然だ.では,なぜわざわざ新しい橋を架けたのか.自動車の通行できる3.5mの幅員を有していることから,それまでの徒歩交通に代わって現れた馬車,荷車,そして自動車といった「車両」に対応するためだと考えられる.
今度は斜向かいの右岸上流側,つまり「明治」の親柱から道路を挟んだ反対側.
「昭和時代の耳川橋」.交通手段の変化を表すように,自動車が橋を渡る写真となっている.
昭和という時代は長いので,昭和何年頃の撮影かが気になるところである.写真に写るナンバープレートは「平仮名+数字4桁」の形式に見えるので,早くとも昭和30年代以降と思われる (参考: 「日本のナンバープレートの歴史」).車種も推測材料になりそうだが,詳しくないのでわからない.
この時代の架換えとしては,昭和33年 (1958) にコンクリート橋架設の記録が残る.撮影時期がはっきりしないので断定はできないが,写真に写っているのが昭和33年の橋かもしれない.親柱の形状から,少なくとも大正2年 (1913) の橋とは異なることは確かである.
そして最後に,左岸上流側.
「平成時代の耳川橋」.モノクロ写真ではあるが,味気ない規格品の高欄や,コンクリートの電信柱はいかにも最近の作だ.
また,この時期の橋だけは,執筆時点でストリートビューでも見ることができる.
このビューはこの写真と同位置である.
写真では「平成時代の」と題されていたが,これは昭和33年 (1958) に架けられた橋である.実際,ストリートビューで親柱を見てもらうと,「昭和33年3月竣功」の文字が見える.したがって,ひとつ前の「昭和時代の耳川橋」と同じ橋かもしれない.
いずれにしても,この橋は令和2年 (2016) の架換えまで,およそ60年の長期間にわたって現役を貫いた.もっとも,国道27号現道の橋 (美浜大橋) が昭和36年 (1961) には開通しているので,現役期間のほとんどは旧道で,もっぱら生活道路として使われてきたと思われる.それでも,半世紀以上にわたって地域の交通を支えた功績は小さくない.
改めて現在の橋を見る.
橋脚は一気に減って,3径間の橋となった.明治期に木橋がかけられてから約130年,技術はここまで進歩した.
現在の橋は今のところ堅牢そのものだが,数十年後には,再び架換えられてしまうことは想像に難くない.そのときも,現在の親柱のように,歴史を偲ぶことができるような仕掛けを施してほしいと思う.
参考文献
- 美浜町 (2020) "町道佐柿・郷市線の耳川橋が供用開始" 広報みはま,2020年5月号,p. 13,美浜町,2022年9月10日閲覧.
- 土木学会附属土木図書館・編 (2008) "橋梁史年表" 2022年9月10日閲覧.