交通遺産をめぐる

関西を中心に隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

福井県美浜町の田代隧道 (2021. 10. 10.)

若狭美浜の山村集落同士を連絡する,石ポータルの美しい隧道.

 

若狭地方の美浜町日本海に注ぐ耳川.河口から6kmほど遡ると,美浜町新庄地区で,耳川本流から支流の横谷川が東に分かれる.両者の間には,南側から標高200m強ほどの山が迫り出し,集落を横谷川沿いの田代地区と,耳川沿いの馬場地区に分けている.

中央の十字の東に流れるのが横谷川,西が耳川本流.それらを分かつように,南から山が延びている.十字の位置から北で急に等高線が途切れているが,ここには山を削って小学校が造成されている (最近閉校してしまったようだが).

 

山塊によって分断された田代と馬場を行き来するには,横谷川と耳川の合流部まで迂回するか,山越えをすればよい.しかしもうひとつの近道として,山を貫く田代隧道が存在する.同隧道は大正14年 (1925) の竣工から今に至るまで100年近く,集落の生活道路として活躍する重要な土木遺産である.今回はそんな田代隧道を訪ねてみた.

 

JR美浜駅からレンタサイクルを利用した.駅から片道6.5kmと歩くには遠く,車で行くにも駐車スペースに困りそうだったためだ.レンタサイクルの申込書には目的地を記入する欄があって,ちょっとたじろいだ.三方五湖や国吉城跡などの観光地の名前が並んでいるが,当然どれにも当てはまらない.嘘をつくのも憚られたので,「その他」に丸を付け「新庄のトンネル」と書いて出した.「何やそれは」と言われるのを覚悟していたが,観光案内所のおじさんは記入事項を読むこともなく,「こちらへ」と駐輪場へ案内してくれたのだった.

 

借り物の電動自転車に跨って出発.耳川に沿って南下する.適当な橋で右岸に渡り,県道213号松屋河原市線でさらに南下.駅を出てから30分弱で,新庄地区に到着した.

ここが,田代方面と馬場方面の分岐点である.写っていないが右側 (西側) に並行する耳川も,少し手前で支流横谷川と分かれている.

 

隧道は左の田代集落と右の馬場集落を結ぶものなので,左右どちらの道からでもたどり着ける.今回は左の道を進んだ.

左に住宅街,右に山を見ながら進む.

 

ほどなく,右側の山に空いた「穴」が見えてきた.吸い寄せられるように接近する.

 

田代隧道,大正14年 (1925年) 竣工,近代土木遺産Cランク 1.小規模ながら,切石積みの端正な坑門が素晴らしい.

 

戸切りにした御影石でアーチ環とピラスターを設える.

 

ピラスターの頂上部は笠石より一段高くなっており,存在感を際立たせる.こだわりの感じられる意匠.

 

アーチ環の頂上に配された大きな要石も好ましい.

 

向かって左側には交通を見守るお地蔵様.手を合わせてから先に進む.

 

内部を望む.

 

坑門は石造りだったが,洞内は場所打ちコンクリートで巻き立てられている.大正14年という時代を考えるとかなり先進的な技術だったはずだ.すでに煉瓦に代わってコンクリートが隧道の材料として利用されつつあったが,特に地方では場所打ちコンクリートは珍しく,事前に成形したコンクリートブロックを煉瓦・石アーチのように積み上げるコンクリートブロックアーチが多く用いられていた.

 

覆工の近景.コンクリートを流し込む型枠の跡がくっきり残る.これも古い隧道の特徴だ.

 

洞内で振り返って田代集落を見る.

 

正面を向いて馬場集落を見る.

 

抜けて馬場側坑門.意匠は田代側と同じだが,こちらは地衣類の付着も少なく,綺麗な印象だ.

 

地蔵堂のみが控えていた田代側と異なり,馬場側は何やら賑やかになっている.

 

手前に建つのは,非常に背の高い隧道開鑿記念碑.

 

他の三面にも色々と情報を刻む.

向かって右の面.かなりピンボケしているが,

大正十三年十一月四日起工

大正十四年四月三十日竣工

従三位男爵■■■■圀書

■は読み取れず.写真を撮るだけでなくきちんと書き起こしてくるべきだった.やはり横着してはいけない.

 

左の面.

設計師 髙橋重馬

監督 髙木十代吉 藤本文次郎

請負者 久保長蔵 鳥羽伊太郎

福井県の近代化遺産」2 は,このうち請負者がアメリカ帰りの業者であるとしている.先進的な洞内のコンクリート覆工も,アメリカのトンネル技術を参考にしたものかもしれない.

 

背面.

大正十四年六月二十八日建之

建碑者 久保長蔵 鳥羽伊太郎

隧道工事を請け負った2名がこの記念碑を建てたことがわかる.

 

記念碑の背後には「隧道工事特別寄附者芳名連」.金額とともに寄附者の氏名がずらりと並ぶ.延長50mほどの,歩いても1分もかからず抜けられる短い隧道だが,これだけ多くの住民が,自らの懐を痛めて造り上げた道であることが知れる.

 

現地にはこれだけ沢山の文字情報が溢れているが,隧道事業の経緯を記すものは残されていない.ただ,「福井県の近代化遺産」2 によると,平成に入ってから,当時の請負契約書や,工事の仕様・規定を記した請負規定が発見されたそうだ.機会があれば見てみたいと思っている.

 

最後に少し離れた場所からの景.

 

探訪は以上.そのまま大通りまで直進し,最初の写真の分岐点まで戻ることができた.最後まで人と出くわすことはなかったが,どこかのお宅で飼われている犬は余所者の侵入を察したらしく,さかんに吠え立てられてしまった.どうもお邪魔しました.

 

ブログ「人生崖っぷち(物理)」さまの記事 3 によると,本隧道の真上には切通しの旧道が残っているようだ.確かに一つ上の写真では,隧道の左上に平坦な道らしきものが見える気がする.また,探訪をおこなった2021年10月10日時点で,洞内の覆工に特段の補修痕は見当たらなかったが,どうも最近改修され,コンクリート剥落防止用?のネットが張られてしまったらしい.Googleマップのクチコミにその写真が投稿されている.

そのあたりを自身の目で確かめるとともに,記念碑の読み取れなかった文字も把握するためにも,再訪したいとは思っている.

参考文献

  1. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 170-171,土木学会.
  2. 福井県教育委員会・編 (1999) "福井県の近代化遺産" p. 96,福井県教育委員会
  3. ペッカー (2020) "新庄の隧道+α - 人生崖っぷち(物理)" 2022年9月9日閲覧.