交通遺産をめぐる

関西を中心に隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

(旧) 北陸本線 穴田暗渠跡 / 敦賀市の眼鏡橋 (2021. 10. 10.)

敦賀市街に遺跡のように残る,明治期の煉瓦アーチ渠.

 

はじめに

日本海に面した福井県敦賀市の中心駅である敦賀駅は,明治15年 (1882) に開業した 1.この鉄道は,滋賀県方面と金ヶ崎の敦賀港を直接結ぶものであり,敦賀駅気比神宮前に設けられた 2

 

その後明治29年 (1896),北陸本線敦賀から福井まで延伸する 3 が,おそらく地形的制約 *1 から,敦賀港から直接福井に向かうのではなく,敦賀駅より南で分岐して北東に転進するような線路となった.したがって長浜 (滋賀県) 方面と福井方面の直通運転には,敦賀駅での方向転換 (機関車の付替え) が必要であった.この手間を避けるため,明治42年 (1909),敦賀駅が鉄輪町の現位置に移転し,ほどなく気比神宮付近の旧線も廃止された 4, 5

 

穴田暗渠 (穴田橋梁) は,廃止となった旧線上の煉瓦アーチ渠である.場所は旧敦賀駅の南方で,現在は旧線敷を転用した国道8号沿いの空き地にある.

この図は「鉄道文化研究所」さまの記事 6 からの引用.赤線が廃止された初代の北陸本線で,穴田暗渠は「眼鏡橋跡」としてプロットされている.明治29年当時の福井方面の線路は,「初代敦賀駅」の南で東に分かれ,U字型を描いて現在線に取り付いていた.これによる方向転換の手間が嫌われ,敦賀駅は現在の位置に移された.

 

私が本暗渠の存在を知った最初のきっかけは,福井県教育委員会による近代化遺産調査報告書「福井県の近代化遺産」3 にある,以下の記述だった.

明治43年 (1910) に、敦賀の粟野に発電所が建設され、敦賀駅は同じ年、現在の場所へと移された。それ以前の名残は現駅から約500mの国道8号線沿いの小さな川の上に遺されている。それは煉瓦造りの小さな「眼鏡橋 fig. 3-110」で、壊れて用をなさなくなっている。その地点は明治の駅から南へ約1km、かつては、この橋の上を英独両国から輸入された機関車や貨車、客車が通過していたはずである。

確かに,半ば壊れかけの2連煉瓦アーチが写っている.ただ,同書が刊行されたのは20年以上前で,しかも現在,敦賀駅周辺では北陸新幹線の工事が進んでいる.これはさすがに残っていないだろうな,と思っていた.

 

しかし,実際には現存した.そのことに気付いたのは,何かの用で,Googleマップ敦賀駅周辺を眺めていた時だった.

なんと,福井県の近代化遺産」とほぼ同じ姿の写真が,Googleマップのクチコミに投稿されているではないか.どうやら都市化や新幹線工事の影響から逃れ,今もひっそりと残っているようだ.

 

加えて調べてみると,敦賀市教委の資料 7 にて,「眼鏡橋 (穴田暗渠)」として本暗渠が紹介されていた.これにて名称が一応確定した.

 

田代隧道耳川橋を訪ねた日の午後,現地を見に行ってきた.

探訪

美浜駅からのバスを敦賀駅のひとつ手前の「白銀町」で下車.国道8号を少しだけ西に戻ったところに,件の空き地が見つかった.「売物件」の看板があるが,その左に空き家が建っている.この空き地も含めて民有地なのだろうか?

 

穴田暗渠,明治15年 (1882) 頃竣工,45年頃廃止.

 

暗渠自体は小規模なものだが,敦賀駅近くだったためか,幅 (水路方向の長さ) が大きい.しかし現状はその中央付近が崩壊し,アーチは西側と東側に分断されている.

 

西側の残存区間の西からの景.煉瓦の巻き厚は2層で,アーチ以外は切石積み.

 

アーチ同士の間を埋めるV字型の石も残っている.

 

煉瓦アーチの上の盛り土が除去されたおかげで,通常は見ることのできないアーチの天端を目にすることができる.博物館などに行くと,電車や自動車の一部を切断し,内部構造が見える状態にしたカットモデルが展示されていることがあるが,あれの煉瓦アーチ版のようなものだ.明治期の鉄道技術を直接観察できる貴重な遺構と言える.煉瓦の上に砂利が敷かれているが,払い下げられた後の施工と思われる.平らな路面にして通路か物置きにでもしていたのだろう.

 

しゃがんで長浜側の径間内部を見る.アーチより下が土で埋まっている.

 

敦賀側径間の内部.こちらは今でも水路が通っている.

 

ここまで見てきた西側残存区間を東から.崩れていたり削れていたり.

 

振り返って,東側残存区間敦賀側 (左) は比較的原型を保っているが,長浜側 (右) はよく見ないとわからないほど崩れている.

 

東側残存区間を反対側から.長浜側 (左) は半分以上消失している.

 

側壁部分.切石を2段で積んでいる.

 

「生きている」敦賀側の径間.

 

反対の西側から内部を望む.ここだけ見ると現役の暗渠と変わらない雰囲気だ.よく今まで保ったものだと思う.

 

当日は,本暗渠が市主催の謎解きイベント?の一スポットになっていたらしく,こんな看板が立っていた.ということはここは市有地なのか?あるいは土地所有者に許可を取っている?いずれにしても,こんな看板があるということは,部外者の私がこの場所への立ち入ることも一応は許されているのだろう,と解釈した.

おわりに

明治15年 (1882) に開通し,線路付替えによって同45年頃に廃止された,北陸本線旧線の穴田暗渠を訪ねた.

 

明治期の煉瓦アーチ渠は全国各地に残るが,本暗渠の重要な特徴は,盛り土が除去され,アーチ上面が露出していることである.いわば煉瓦アーチのカットモデルであり,明治15年という,日本国内における鉄道黎明期の技術を直接観察できる貴重な遺構と言える.盛り土がないことから地圧がかからず,これ以上崩壊が進むリスクが比較的低いことも,その価値を高めている.ぜひ,文化財として適切に保守していただきたいと思う.

参考文献

  1. 名古屋鉄道局総務部・編 (1942) "鉄道温古資料" pp. 26-28,名古屋鉄道局総務部,2022年9月15日閲覧.
  2. 福井新聞社編集局・編 (1962) "福井の百年" コマ番号84 (頁付なし),福井新聞社,2022年9月15日閲覧.
  3. 福井県教育委員会・編 (1999) "福井県の近代化遺産" pp. 72-73 / 79,福井県教育委員会
  4. 須藤康夫 (2004) "敦賀駅と敦賀港線 - 百年の鉄道旅行" 2022年9月15日閲覧.
  5. 鉄道大臣官房文書課・編 (1921) "日本鉄道史" 下編,p. 188,鉄道省,2022年9月15日閲覧.
  6. 水村伸行 (2020) "敦賀所在の眼鏡橋遺構 - 鉄道文化研究所" 2022年9月15日閲覧.
  7. 敦賀市教育委員会 (2016) "敦賀市文化財" 2022年9月16日閲覧.

*1:敦賀港駅の先には,急峻な地形が日本海に落ち込む金ヶ崎という難所が控え,ここに鉄道を通すことは当時困難であった.そのため,気比神宮よりもっと南で,大きく東 (杉津峠) に迂回することとなった.敦賀駅周辺の線形の変遷は,「百年の鉄道旅行」4 さまの記事が詳しい.