交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

塩小路橋 (2021. 8. 7. / 2022. 1. 26.)

京都駅からもほど近い,鴨川に架かるゲルバー橋を訪ねた.

目次

第一次探索 (2021. 8. 7.)

七条大橋を訪ねた際,その上流・下流の橋が気になった.調べてみると,上流は昭和27年 (1952年) の連続プレートガーダーの正面橋,下流は同28年のゲルバープレートガーダーの塩小路橋だった.両方を見に行く時間はなかったので,私の好きなゲルバー橋である後者を選んで訪ねてみることにした.

 

七条大橋から鴨川左岸を歩くこと約5分,目指す塩小路橋の袂に着いた.

わずかに変断面を描く桁と,ゲルバー橋を定義づけるヒンジ部が好ましい.桁から張り出した路面は歩道部であり,後付けと思われる.

 

下流側.

こちらも同様の意匠.

 

継ぎ目の近景.

L字型に切り欠いた桁同士がヒンジで繋がれている.ゲルバー橋としては標準的な構造だ.落橋防止装置も取り付けられている.

 

ここまでの写真を撮った左岸側の橋の下では,真っ昼間にも関わらず3人のおっさんが酒盛りに興じており,これ以上の観察はやりかねた.仕方ないので橋上に戻る.

 

親柱.

塩小路橋」「鴨川」.前者には昭和25年 (1950年) から4期16年にわたって京都市長を務めた高山義三の署名も入っている.以上2枚の写真は左岸側だが,右岸側も同様だった.

 

親柱は竣工時期を教えてくれなかったが,「橋梁史年表」1 によって昭和28年 (1953年) 製であることがわかった.さらに詳しい来歴については机上調査の項に記す.

 

渡って右岸側から.

こちら側には釣り人がいて,先ほど私が川の中州から桁の近景を撮っている間,私を邪魔そうに睨んでいた.こんな街中の遊歩道で我が物顔に釣竿を振り回している方がよほど迷惑だと思うのだが.ともかく,そんな具合なのでこれ以上の探索は諦めた.

幕間 もうひとつの塩小路橋 (2021. 8. 7.)

塩小路橋を後にして,塩小路通を西に歩いて京都駅に向かう途中,「塩小路高倉」バス停付近で唐突に「それ」は現れた.

お,親柱!?しかも「塩小路橋」?

 

それだけでなく,その先には欄干ともう一基の親柱が続いている.

「昭和三年十二月」.現役の橋としては相当の古さである.ただし銘板は後付けに見える.鉄パイプ製の欄干も然り.

 

地図を見ると確かにここには川が描かれている.高瀬川の付替え前の旧流路である.しかし上流側は暗渠化されており,また上2枚の写真を撮った下流側についても,探索時点では高い壁に囲まれた工事現場となっており,まもなく暗渠となるらしかった.そうなれば,もはや本橋は橋としての役割を失う.既に道路管理者である京都市も橋梁として扱っていないようで,令和3年4月の橋梁点検リスト 2 にその名は登場していない.かろうじて橋であったことを物語っている親柱や欄干も,いずれは撤去されてしまうかもしれない.

第二次探索 (2022. 1. 26.)

第一次探索は中途半端な結果に終わったので,本記事を書く段になって再訪した.まずは前回接近を断念した,右岸側の水際から.

半年前と変わらぬ姿に取り敢えず安堵した.

 

1枚上の位置から振り返って,橋台.

今回初めて気づいたのだが,RC橋台の脇に,石張りを有する立派な橋台らしきものが見える.旧橋時代のものと思われる.

 

今回の再訪にあたっての最大の目的は銘板を探すことだった.本橋はそれなりに古い鋼橋であるから,鋼材のどこかに銘板があるのではないかと思っていた.果たして,上の写真のちょうど反対の下流側に見つけた.

1961年3月

京都市架設

建示(1955)一等橋

製作 日本橋梁株式會社

材質 SS41,SM41A,SM41B

読んでみて「あれ?」と思った.事前調査によってわかっていた本橋の架設は昭和28年 (1953年) であり,銘板にある1961年にはとうに完成していたはずだったからだ.塗装の上塗りは激しいが,それでも1961という数字は読み違えようもない.

 

不思議に思って桁をじっくり眺めてみると,合点が行った.

リベットがびっしりと打たれた中央4本の主桁に対し,左右それぞれ最も外側の主桁は溶接主体ののっぺりしたものとなっている.明らかに異なる時代の作である.

 

つまり,昭和28年の架設当初は中央4本の主桁だけだった本橋は,わずか8年後の昭和36年,外側に1本ずつ主桁を追加することで拡幅されたのだ.先ほどの銘板は,新しい主桁に取り付けられていた.

 

対岸に渡ってみると,この推測を裏付けるように,最も上流側の主桁と次の主桁の両方に銘板が取り付けられていた.

通常,このように複数の主桁に銘板が取り付けられることはない.その必要がないからだ.これも拡幅のために主桁が増設された痕跡と言って良いだろう.

 

外側の銘板は上の写真と同様.一方の内側は,

昭和28年(1953)

京都市建造

鋼示(昭和14年)一等橋

製作 日本橋梁株式會社

納得だ.

 

同じ場所から振り返って.

新旧の主桁の形状はほぼ同一で,いずれもゲルバー構造であることから,じっくり観察しないと拡幅の事実には気が付きにくい.拡幅によって不自然な外観を生まない,良い仕事だと思う.

 

これにてようやく塩小路橋の探索にケリを付けた.以下,本橋の来歴についての机上調査の成果を報告する.

机上調査

「橋梁史年表」1 によると,先代の橋としては昭和3年 (1928年) 頃,同名の鋼橋が鴨川に架けられたという記録がある.ただし特記事項に「架替え」とあるので,創架はそれ以前である.そもそも塩小路通 (三哲通) 自体は近世以前から存在した道であり,また明治10年 (1877年) に京都駅が開業してからは駅に通じるメインストリートであった.昭和3年まで橋が架かっていなかったはずはない.

 

現在の塩小路橋は水害からの復旧事業として架けられた.以下,特記しない限り出典は市建設局小史 3

 

昭和26年 (1951年) 7月,梅雨前線による集中豪雨が京都を襲い,多くの河川が一気に増水した.橋梁の被害は著しく,

鴨川筋の出町橋,正面橋,東山橋など12橋が流出し,また桂川筋では松尾橋の流出,渡月橋の破損があり,合計124橋が流出または損壊

と記録される.この「流出または損壊」した橋に塩小路橋も含まれていた.なお京都市外でも水害が発生しており,特に亀岡市の農業用貯水池が決壊した事故は「平和池水害」として語り継がれている.

 

同年11月,京都市土木局は復旧事業を進め,さらに将来の防災体制を整えるため,新たに土木・農林技術職員51名を採用し,災害復旧事務所を設置した.当時,これら担当職員の中には1か月以上も旅館に泊まり込み,疲労回復の注射を打ちながら奮闘した者もいたと伝えられる.

 

被害を受けた塩小路橋は,早い段階で木造の仮橋が設けられ,新橋架設まで交通の便に供された.しかしながらこの頃は,台風や前線による豪雨が毎年のように京都を襲っており,また河川改修も道半ばであったため,頻繁に出水被害がもたらされてきた.果たして塩小路仮橋も,翌27年 (1952年) 7月の豪雨によって流出した.

写真は市建設局小史 3 のp. 50より.

 

厳しい財政事情の中,昭和28年 (1953年) 8月になって,ようやく新しい橋が完成した.これが現在の塩小路橋である.現地探索で考察した通り,その後36年頃に拡幅がなされ,また時期は不明なるも歩道部が添加されている.

 

塩小路橋は架設から約70年が経過した今も現役で利用されている.ただし状態は決して良好とは言えないらしく,平成29年 (2017年) の点検で「早期措置段階」と判定されている 2.なお,賀茂大橋,九条跨線橋,二条大橋など市内の鋼ゲルバー橋は,最近相次いで連続桁橋に改造され,ゲルバー構造を失っている 4塩小路橋については今のところ架換え計画などの情報は見つからないが,遠からぬうちに何らかの措置が取られてしまう可能性は高い.

参考文献

  1. 土木学会附属土木図書館・編 (2008) "橋梁史年表" 2022年2月6日閲覧.
  2. 京都市建設局 (2021) "京都市橋りょう長寿命化修繕計画 別冊資料 京都市管理橋りょう一覧【令和3年4月現在】" 2022年2月6日閲覧.
  3. 建設局小史編さん委員会・編 (1983) "建設行政のあゆみ ―京都市建設局小史―" pp. 42 / 48-51 / 314,京都市建設局.
  4. 井手迫瑞樹 (2016) "京都市 2860橋、19トンネルを管理|道路構造物ジャーナルNET" 2022年1月27日閲覧.