交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

和歌山市の北島橋 (2021. 7. 30.)

城下町和歌山への入口に内務省直轄で架けられた「大鉄橋」を訪ねた.

目次

探索記録

紀州徳川家の城下町として発展した和歌山市.市街地の北端に流れる紀の川は,河口付近ゆえに川幅が広く,大阪方面とを結ぶ陸上交通上の難所となっていた.紀の川には現在に至るまで数多の橋が架けられてきたが,その中で今回訪ねた北島橋は古参の道路橋で,昭和11年 (1936年),国道の一部として架けられたものである (詳細な歴史については机上調査を参照).

 

この日私は大阪から南海電車に乗り込み,南海本線紀ノ川橋梁和歌山市に入った.南海和歌山市駅の300m東で北に折れ,紀ノ川7号踏切で南海の線路を越える.この道は北島橋に続く県道の側道だが,本線 (歩道なし) は線路と立体交差となっている.

細かな装飾が入ったコンクリート製の高欄が素晴らしい.全国Q地図によるとこの陸橋は「宇治高架橋」(宇治は当地の字),昭和17年 (1942年) 竣工.北島橋よりわずかに新しいが,それでも見た目から受ける印象通り戦前製だった.

 

今私のいる側道は左にカーブした先で坂を登り,宇治高架橋と合流する.

3枚目は合流地点から振り返って撮影したもので,私は右側の側道から歩いてきた.宇治高架橋の高欄の内側は白く塗られており,コントラストが良い.

 

正面を向くと,

ここからが北島橋である.親柱は和歌山らしい青石で,復元されたものだが立派な灯具も備えている.奥には低水路部分に架かるトラスも見える.

 

高水敷は運動公園になっており,容易に橋の足元に下りることができた.まずはトラスより手前の桁橋部分.

スカイブルーに塗られたプレートガーダーが緩やかな曲線を描いている.「もしかすると」と思いながら次の径間を見てみると,

期待通り,左右の橋脚から張り出した桁が中央の桁を支えるゲルバー構造だ!

 

ヒンジ部分の近景.

現存する多くのゲルバー橋と同じく,巨大な補強材と落橋防止用のワイヤーが入っている.それでも桁の継ぎ目がはっきり視認できるのは好ましい.

 

そのまま水際まで歩いて行くことができた.

北島橋,昭和11年 (1936年) 竣工,近代土木遺産Cランク 1.爽やかなスカイブルーの5連トラス橋.「北島」は対岸の字だが,おそらくその字は和歌山城から見て北方にあることが由来と思われる.

 

上流側から.

トラスの構造は曲弦ワーレン.上弦材の描く緩やかな曲線が美しい.

 

路面に戻って,南側の親柱.

「北島橋」「昭和十一年四月竣功」.

 

プレートガーダー部分には,

路面にも明確な継ぎ目が見える.ゲルバー構造だから位置は橋脚から外れている.

 

トラス部分.

ここにも灯具を伴う柱がある.

この構造物も (灯具を除いて) 竣工当初のもので,親柱と同様に青石が用いられた豪華な造りとなっている.おそらくこれは,トラス材に車両が接触するのを避ける防護工である.トラスの部分は有効幅員がやや小さくなる (当初は7.3mから6.0mまで減少 2) 上に,この写真で見たように,橋詰からトラスまでに相当の距離がある.丸い金属板が取り付けられているのは反射材と思われる.

 

向かって左側に銘板が掲げられている.

株式會社

大阪鐵工所製作

昭和十一年四月

大阪鐵工所は明治14年 (1881年) にイギリス人E. H. ハンターが創業し,日立造船株式会社の前身となった老舗メーカーだ 3

 

さて渡ろう.トラスの外側には歩道が設けられており,歩行者や自転車も安全に通行できる.

どのトラス橋にも言えることだが,一見複雑怪奇な構造に思えても,実は個々の部材の組み方は単純かつリーズナブルなところが個人的には大好きだ.古橋らしくおびただしい数の鋲が打たれているのも良い.

 

北側からの振り返り.

橋門工は南側と同様.防護工とみられる構造物も健在だ.

 

北詰の親柱のうち,下流側は失われていた.

この部分は北詰の交差点に右折車線を設けるため,昭和63年 (1988年) に拡幅されている 4.親柱が失われたのもその際と思われる.

 

一方上流側の親柱は健在だった.銘板は,

「紀ノ川」.「ノ」が戦前らしい.意匠や灯具は南詰と同様なので,違う角度から.

袖高欄と呼ぶのだろうか,親柱から外側にコンクリート?の囲いが続き,橋詰広場のようになっている.国道らしい風格ある造りだと思う.

 

橋全体の振り返り.

手前が拡幅された部分であることは一目瞭然だ.拡幅部はゲルバー構造の当初の桁と同じ支間長を,通常の鋼桁 (よく確認しなかったが鈑桁かIビーム桁と思われる) で跨いでいる.

 

現地探索は以上.再度10分かけて橋を渡り,次の目的地に向かうべく駅に戻った.

机上調査

北島橋の歴史は古い.北島と左岸の杉ノ馬場の間の最初の橋は明治7年 (1874年) にまで遡る 5.それまでは「北島渡し」と呼ばれる渡船が存在した 6.時代を考えると当然のことだが,明治7年の橋は木造で,増水によって容易に損傷するものだった.特に明治40年 (1907年) 頃には,北島から川の中央付近までしか橋が残っていない「半身ノ橋梁」となっており,そこから先はまた渡船に頼るという惨状だったとされる 5

 

その後大正7年 (1918年) に架換えられた 4 がこれも木橋で,やはり毎年のように洪水で損傷し,そのたびに巨額の費用を投じて修繕されていた.また交通量の増加にも追いつかない状態だった.当時の状況を内務省文書 2 は以下のように描いている (ルビ・強調は筆者による.以降も同様).

北島橋ハ同市 (注 : 和歌山市) ノ北ノ玄関トモ (しょう) スヘキ要衝ノ地ヲ占メ縣下第一の長橋ニシテ最高ノ交通量ヲ有スト (いえど) モ木造ニシテ有効幅員三・九〇米ニ過ギズ架設後悠ニ廿ヶ年ニ及バントシ一般交通運輸ノ不便言語ニ絶スルモノアルノミナラズ紀ノ川ノ洪水並ニ逐年激增シツゝアル交通量 (たい) シテハ到底耐エ得ベクモ非ズ年々維持修繕ニ巨費ヲ投ジ辛フジテ餘喘ヲ保チツゝアル状態

また,やはり県内随一の長大橋というだけあって,当時の写真が残されている.

上2点は内務省文書 2 から,下1点は「写真にみるあのころの和歌山」5 からの引用.コンクリートや鉄の橋に慣れた現代人の私には,これほど長い橋が全て木材で造られており,それが10年も20年も維持されてきたとはちょっと信じがたいものがある.

 

さて,そんな北島橋は,昭和に入ってから架換えが決定された.もちろん上で引用したように,幅員狭小の木橋が交通量の増大や毎年の増水に耐えられなくなってきたことも理由のひとつだが,それ以上に大きかったのは時局匡救事業としての性格だった.昭和ゼロ年代の日本はいわゆる昭和恐慌の真っ只中で,特に地方の不況は著しいものがあった.昭和6年 (1931年) から大蔵大臣を務めた高橋是清は積極的な財政支出を行い,公債を発行して多数の公共事業を実施することによって景気回復を図った.北島橋の架換えもそのひとつであったことが,竣工を前に発行された「道路の改良」地方通信 7 にある以下の記述からわかる.

紀の川にこの大鐵橋架設の工が起されたのは南國の空に灼熱の太陽がギラ〱と輝いてゐた昭和八年七月十一日であつた。デフレーシヨンの荒波は都と鄙とを問はず (かず) 知れぬ失業群をつくつた。働くに職なく……と苦惱に喘ぐ失業群を救濟すべく同年から三ヶ年繼續 (けいぞく) 工事總工費( じつ) に六十五萬圓の計劃 (けいかく) で着工された

なお,同じく時局匡救事業として,北島橋北詰から大阪府境の孝子峠までの区間の道路改良が実施されている (昭和6年着工,同7年竣工) 2.一連の道路は大正9年 (1920年) の道路法に基づく国道16号 (東京市より和歌山県庁所在地に達する路線) の一部で 8,いずれの工事も内務省直轄の事業だった 2

 

先の引用にもあったように,工事は昭和8年 (1933年) 7月11日に着手された.蒸気杭打機やガットメル (掘削機械),オレンヂピール (クレーンの先に吊り下げて土砂などをつかみ取る装置),プリストマン (浚渫船) を用いた近代的な工事で,昭和9年 (1934年) 9月21日に来襲した室戸台風の影響を受けながらも,昭和11年 (1936年) 4月,遂に竣工した 2.工費は予定よりやや増えて708,000円,従事者は延べ68,000人に及んだという 5

 

竣工した北島橋には,周辺交通の機能改善だけでなく,孝子峠より北の大阪府内の国道改良事業と併せて,京阪神地区と和歌山市の間の移動時間短縮,さらには地方産業 (例えば和歌山市は綿ネルの名産地だった) の発展をもたらすことが期待された 2.また,太平洋戦争に続く日中戦争の勃発する直前という時節柄,件の内務省文書 2

特殊國道十三號線ニ聯繫 (れんけい) シテ軍事上ニモ新ニ重要ナル使命ヲ帶ブルニ至レリ

とも記している.

 

新しい北島橋の竣工当初の写真も見てみよう.

順に「写真にみるあのころの和歌山」5 からの1点と内務省文書 2 からの2点.現在の姿と比べてみても,違いは

  • 親柱やトラス手前の防護工の上部の装飾
  • ゲルバーヒンジ部への補強材と落橋防止装置の添加
  • (写真には写っていないが) 車線増設のための北側の一部径間の拡幅 4

程度で,保存状態は良好と言える.技術力の高さはさすが国の直轄で造られただけのことはある.

 

北島橋は国道16号,昭和27年 (1962年) からは国道26号の橋として長きにわたって供用されてきた.戦後は交通量の増大に対応するため,昭和42年 (1967年) の紀ノ川大橋 (下流側),平成15年 (2003年) の紀の国大橋 (上流側,片側2車線) などバイパスの道路の建設が進んだ.それによって北島橋は旧道となったが,引き続き県道15号の橋として現役で,交通量も決して少なくない.

 

昭和11年 (1936年) 竣工,御年85歳.和歌山の近代化と発展に貢献した大鉄橋は,今も変わらぬ立派な姿でその門戸を飾っている.

参考文献

  1. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 190-191,土木学会.
  2. 内務省大阪土木出張所 (1936) "北島橋架換工事概要 附 和歌山国道(十六号線)改良工事概要" 内務省,2021年10月26日閲覧 (土木学会附属土木図書館によるアーカイブ) .
  3. 日立造船株式会社 (2021) "Hitz Story(沿革) | 日立造船株式会社" 2021年10月26日閲覧.
  4. 和歌山県教育庁・編 (2007) "和歌山県の近代化遺産:和歌山県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" pp. 91-92,和歌山県教育庁
  5. 和歌山市立博物館・編 (2009) "写真にみるあのころの和歌山" 館蔵写真図録 本町編,pp. 29-30,和歌山市教育委員会
  6. ニュース和歌山 (2015) "北島の渡しと川湊 城下町2 ㉕ | ニュース和歌山" 2021年10月26日閲覧.
  7. 道路改良会・編 (1936) "和歌山縣の大橋北島橋の竣工近し" 道路の改良,第18巻5号「地方通信」,p. 135,道路改良会,2021年10月26日閲覧 (土木学会附属土木図書館によるアーカイブ).
  8. 東京朝日新聞 (1920) "国道路線の認定" 2021年10月26日閲覧 (神戸大学附属図書館によるアーカイブ).