交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

大東市の四条橋と竜望橋 (2021. 7. 28.)

大阪と奈良を結ぶ幹線道路,阪奈道路に残る貴重な古橋を訪ねた.

目次

はじめに

大阪府道・奈良県道8号大阪生駒線,通称・阪奈道路は,大阪府東部から急峻な生駒山地を越え,奈良県生駒市奈良市方面の県道1号に接続する主要地方道である.

 

阪奈道路の山越え区間,いわゆる狭義の「阪奈道路」は,高度成長期の昭和34年 (1959年) に開通し,その後大阪方面ゆき車線が昭和45年 (1970年) に分離されて完成した 1.一方,西麓の大東市寺川より西の区間はもう少し歴史が長い.もともと,近鉄の前身である大阪電気軌道 (大軌) が当地に「四条畷線」という鉄道路線を計画・着工していたのだが,昭和恐慌などの影響を受けて未成に終わっていた.現在の阪奈道路は,その路盤を道路に転用したものだ 1

 

今回の探索のターゲットは,この大軌由来の区間に連続して架かる2本の橋である.生駒山地を越えて大東市に入った阪奈道路は,市街地に入った直前,寝屋川の支流とJR片町線 (学研都市線) を跨ぐ.

川とJRに別々の橋が架けられており,前者を跨ぐのが四條橋,後者を跨ぐのが龍望橋である.阪奈道路は大阪・奈良間の大動脈で,しかも戦後,大阪市の衛星都市として急速に宅地化・都市化が進んだ大東市である.古い交通遺産が残っている可能性は低いと言わざるを得ず,これまで探索の対象としたことはなかった.

 

なお,私がこれらの橋の存在を知ったきっかけは「大阪府の近代化遺産」2 だった.やはり持つべきものは都道府県の近代化遺産調査報告だと思う.

四條橋

この日の探索は,大阪府立中央図書館での資料調査を終えた夕方に実施した.最寄りの荒本駅から新石切駅まで近鉄けいはんな線で移動し,住道行きのバスに乗車.大東市寺川で阪奈道路西行き車線に入り,2つ目の「平野屋」で降りると四條橋は目前だ.

 

まずは東詰から.

あまり橋らしい感じのしない景観である.よほど注意して見ないと,橋であることすら気付かずに通過してしまうだろう.

 

本橋の一番の魅力は,

昭和初期に典型的な,アーチ型の窓を連ねた高欄!都市化の進む大東市の市街地にあって,よくぞこれを残しておいてくれたものだと思う.

 

親柱.

石製の柱に「四條𣘺」そして「昭和十四年三月竣功」と刻まれた石板が埋め込まれている.残り2基についても同様だった.事前情報,そして見た目から期待された通り,昭和初期生まれの古橋であることが確定した.名称は旧地名 (四条村→四条町) 由来と思われる.

 

西詰から.

ひっきりなしに車が行き交う幹線道路の中ではある種異質とも言える古色が素晴らしい.車道の両脇に増設された歩道橋は目障りだが,これがなければ旧状を留めることは叶わなかったに違いない.

 

さて,路面上からの印象では十中八九RCの桁橋だと思ったのだが,それを確認するための視点場がない.両脇には近接して歩道橋が架けられているし,周囲は工場の敷地などになっており川床に下りるのが難しい.仕方がないので後日,隣の龍望橋を潜るJR学研都市線の車内から観察することにした.

動くものを撮るのは苦手な私だが,良いタイミングでシャッターを切ることができた.注目すべきは歩道橋の奥に見えている桁で,意外なことにプレートガーダー だった.それほど広い川幅ではないのだが,鉄橋にすることで高水敷も含めて一気に跨ぐことにしたようだ.大東市は古くから,この川の合流先である寝屋川の水害に悩まされてきた土地である.

龍望橋

さて,次の橋へ行こう.

こちらの高欄は無装飾・無機質なもので,四條橋とは随分印象が異なる.この理由については後ほど考察する.

 

親柱のうち,南東側のものは大型車が衝突したのか,土台を残して失われていた.

一方,残りの親柱は健在だった.

「龍望橋」「昭和十四年三月竣功」.隣接する四條橋と同時期に架けられたようだ.現存するもう1基の親柱も竣工時期だった.当地の東で阪奈道路生駒山地を越えるが,この道筋は古くは竜田峠 (竜田越) と呼ばれていたそうだから,それに因んだ名称だろう.

 

西側からの振り返り.

無個性ではあるが,高欄の背の低さには古色が感じられて悪くない.

 

こちらも後日,下を通るJR学研都市線の車内から観察した.

写真に写っているのは龍望橋の東側半分で,跨いでいる線路は大阪方面行きの下り線だ.実は龍望橋は橋脚を有する2径間の橋で,学研都市線の上下線を別々の径間で跨いでいる.

 

接近して.

下部工・橋桁ともにコンクリートで,比較的新しいものに見える.

 

西側,つまり学研都市線木津方面行きの上り線を跨ぐ径間を南側から.

こちらの桁は鋼のIビームである.リベットの丸い突起がいかにも古そうだ.

 

本橋がこのような複合的な構造になっているのは,学研都市線 (という愛称が付く前の片町線) が当初単線だったからに他ならない.「大東市史」 1 によると,この区間が複線化されたのは,龍望橋の架設から30年が経った昭和44年 (1969年) 3月である.つまり複線化に合わせて,新たに敷かれた線路をまたぐ径間が新設されたのだ.1枚上の写真では右手の橋脚の太さがやけに目立っているが,これは複線化以前の橋台だったからに違いない.

 

このように考えると,龍望橋の高欄が,同時期に架けられたはずの四條橋とは打って変わって無装飾だったことにも納得がゆく.橋が拡張された昭和44年頃以降に交換されたのだ.

 

では,2径間のどちらが昭和14年当初のものだろうか.結論から言うと,西側のIビーム桁の方だと考えている.

左は最新の平成25年 (2013年),右は昭和9年 (1936年) から昭和17年 (1942年) 頃の間に撮影された航空写真である.中央の十字は現在の学研都市線下り線だが,右の写真ではその位置に線路がない.従って,複線化のために増設されたのが現在の下り線で,それを跨ぐ東側の径間が新しいものだと考えられる.見た目から受ける印象とも一致する.

おわりに

大阪と奈良を結ぶ大動脈たる阪奈道路に残る,貴重な古橋を訪ねた.四條橋は上部工全体に昭和初期らしさの溢れる逸品で,また龍望橋は古いだけでなく,戦後の人口増加に伴う片町線の複線化の歴史を物語る交通遺産だった.

 

本調査で明らかにならなかった疑問が一つある.「大阪府の近代化遺産」2 やおなじみ土木学会の橋梁史年表では,龍望橋の竣工が四條橋より早い昭和7年となっており,親柱の「昭和十四年三月竣功」と矛盾しているのだ.単なる誤植かもしれないが,もう少し夢のある想像をしてみると,龍望橋は昭和7年には竣工しており,何らかの事情 (たとえば大軌四条畷線からの計画変更) によって車道橋として改築されたのが昭和14年,という可能性も考えられる.

参考文献

  1. 大東市教育委員会・編 (1980) "大東市史" 近現代編,pp. 403-406,大東市教育委員会
  2. 大阪府近代化遺産 (建造物等) 総合調査委員会,日本建築家協会近畿支部,編集工房レイヴン・調査・編集 (2007) "大阪府の近代化遺産 : 大阪府近代化遺産 (建造物等) 総合調査報告書" p. 379,大阪府教育委員会