交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

新和歌浦第一隧道・第二隧道 (2021. 6. 5.)

大阪からもほど近い,風光明媚な和歌浦.観光開発のために明治期に掘られ,現在は残念な状態で放棄されている廃隧道を訪れた.

目次

はじめに

和歌山市の南西部に広がる和歌浦 (わかのうら / わかうら) は,万葉集の時代から知られた景勝地である.古くは天皇や都の貴族も挙って訪れ,また江戸時代には和歌山城を構えた紀州徳川氏がその景観を保全していたという.一方,今回焦点を当てる「新」和歌浦というのは,和歌浦の西側,近代になってから観光目的で開発されたエリアである.

 

新和歌浦の観光開発を立ち上げたのは,かつらぎ町出身の森田庄兵衛という人物である 1, 2文久2年 (1862年) 生まれの実業家で,銀行の頭取や新聞社,紡績会社などの社長を務めたほか,学校を私設して後進の育成にも貢献したという 2.そんな森田は,病気療養のために滞在した和歌浦の景観に感銘を受け,明治42年 (1909年),多額の私財を投じて和歌浦西部~雑賀崎の山林45haを買収し,水族館や旅館を初めとする観光地「新和歌浦遊園地」の開発に乗り出した 1, 2

 

今回レポートする2本の隧道は,この観光開発の一環として開かれた周遊道路のものである.ただし近年の研究では,これらの隧道は車道用というよりも,将来的には路面電車をここまで延伸させることを見込んで掘られたとされている 3.つまりこれらは一種の未成線でもある.

 

なお本記事の写真には,本来は立入りの許されない場所から撮影したものが含まれている.そのため,撮影地点に長居することができず,また曇り空の夕方ということもあり,結果として手ブレ・ピンボケの酷い写真が多いことはご容赦願いたい.

新和歌浦第一隧道

毛見隧道と鵬雲洞の探索を終えた私は,バスを乗り継いで「新和歌浦」バス停にやってきた.漁港に面したこのバス停から,探索を開始する.

 

県道は漁港を左に見下ろしながら高度を上げてゆく.横から見るとコンクリート製の高架橋となっていたから,後年に付け替えられた道であろう.明治期の当初は盛り土だったのか,それとも木橋だったのか.

 

坂を登り切ると,

右に見えるトンネルは昭和46年 (1971年) 竣工 (現地銘板より) の新和歌浦隧道で,森田の開いた明治隧道に引導を渡した存在である.「トンネルを見たら脇を探せ」というのはこの趣味における鉄則で,ここでも左にバリケードで塞がれた分岐があり,その向こうには怪しい暗がりが見えている.

 

分岐地点に駐車してある軽自動車は無人だった.漁港の関係者なら専用の駐車場がありそうなものだから,釣り人のものだろうか?いずれにしても,持ち主が戻らないうちに探索を済ませないと面倒なことになりそうだ.周囲に人気がないことを確認した上で,バリケードの奥を見てみると,

見つけた.

 

バリケードは脇が甘かったので,失礼させていただいた.道は未舗装だったのか草藪に埋もれている.その先に,煉瓦造りの坑門が見えた.

新和歌浦第一隧道,明治44年 (1911年) 竣工,近代土木遺産Bランク 4

 

藪蚊に食われながら接近して見上げると,

非常に装飾的である.アーチの最上部には要石がはめ込まれ,その上には3段の帯石ラインがある.扁額の内容は読み取れないが,「和歌山県の近代化遺産」1 によると「新和歌浦」と刻まれているそうだ.わかりにくいが,笠石の下には小口の角を手前に出したギザギザの装飾,いわゆる雁木もある.そして最も特徴的なのは笠石の上で,住宅の屋根のような三角形の飾り (破風というそうだ) がある.時期が悪く,藪に覆われてよく見えないので,「森田庄兵衛による新和歌浦観光開発について」5 の写真1を引用させていただく.

破風部分には丸に十字の轡という森田家の家紋が掲げられている.ここまで来ると少々自己主張が過ぎるのではないかと思ってしまう.なお,「日本の近代土木遺産4 は

笠石上に小破風(丸に十字の紋=森田家の家紋),笠石下に雁木,黒タイルや巨大な楔石など極めて装飾的だが統一感に欠ける

とやや辛辣な評価を下しており,また永富謙氏 6

確かに個々の構造なり仕上げなりはとても手の込んだものなのだが,それぞれが互いに結び付いていないように見受けられる.これでは寄せ集めと取られても仕方ないだろう.例えば破風をもっと大きくしてペディメントにし,柱とアーチを煉瓦ではなく石にしたら,もっと荘厳な印象を与えただろうに───そうする必要はないかも知らぬが.だがこれが,明治45年という時期に,新観光地である新和歌浦への入口として作られたことを加味すれば,納得行かないものでもない.

と評している.

 

アーチの下部を見ると,

石造りだが,迫受はピラスターとアーチ環の両方を支えている.というより,坑口の脇にスペースがないのに,無理やりピラスターを設えたように見える.少なくとも,長手1個分ほどの幅しかないピラスターは,坑門の倒壊を防ぐ本来の役割で設置されたものでない.装飾目的のピラスターは珍しいものではないが,これには少々「詰め込み過ぎ」という印象を受けた.

 

その左には,素掘りの岩盤が露出している.いかにも堅そうで,特に崩れた様子もない.しかしそれだけ強固な地質だとすると,隧道を掘るのは難工事であったのではないかと予想される.そういえば,ここはバス停や港のあった場所と比べると,かなり高い位置である.古い隧道にはありがちなことだが,少しでも掘りやすい地質を求めた結果,ここまで高度を上げたということであろう.穏やかな景勝地というイメージの和歌浦だが,存外難しい土地だったのかもしれない.

 

内部に入ってみると,

煉瓦アーチはすぐに途切れ,明らかに後補のコンクリートの巻き立てとなる.その先は素掘りのようだが,やはりここもいかにも堅そうに見える.洞内は向こう側にある旅館の倉庫として使われているらしく,色々なものが置いてある.奥には関係者のものと思しき車も止まっており,いつ人が来てもおかしくない状態である.そもそも私は懐中電灯を照らしているが,この明かりは向こうから見ればよく目立つだろう.………長居は無用だ.

 

撤退のタイミングは絶妙を極めた.現道に戻り,現役の新和歌浦隧道を通って反対側に向かったのだが,その最中,後方から車のエンジンを始動する音が聞こえた.振り向くと,先ほどの旧道分岐のところに駐車していた車が発進するところだった.撤退があと1分遅ければドライバーと鉢合わせしていただろう.危ないところだった.

 

さて,第一隧道の反対側に回ってきた.こちらの坑門も,現・新和歌浦隧道の真横に位置している.

右に写る白い車は,先ほど隧道の中から見えた旅館関係の車である.

 

第一隧道の西口は,旅館の駐車場内に口を開けている.宿泊客の車は停まっているし,旅館の建物からも丸見えである.藪に踏み込む必要はないが,これはこれで探索しにくい.

見ての通りコンクリートで改修されている.改修後にも扁額は残っており,また要石風の悪くない意匠のはずだったのだが,時期が悪く,蔦が全てを覆い隠してしまっていた.しかし洞内には,反対側で見たのと同じ煉瓦アーチと石の側壁が見えていた.

 

宿泊客でもないのに駐車場でウロウロして怪しまれては困るので,そそくさと現場を後にした.

幕間 海岸の風景

次に目指した第二隧道も,既に現役を退いている.ただしこちらは新しいトンネルがあるわけではない.現道は第二隧道が潜った山を登り,そのまま尾根を進んでゆく.旧道がトンネルで現道が切通しというパターンは時折見られるが,このパターンは珍しい.

 

第一隧道を出てしばらく西に進むと,上り坂の途中で左に分岐する道がある.

どう見ても私有地だが,ここが旧道の入口である.写真にもあるように,ここから砂浜や海岸沿いの遊歩道に下りられるので,部外者でも大手を振って入ることができる.

 

海岸に下りるにはこの先で左手前に曲がるのだが,旧道は直進だ.そしてその目の前に,予習していた通りにコンクリートで改修されたその姿が見えていた.見えてはいたのだが…

んん?トラックが止まっている??

 

第二隧道も私有地となっていることは事前にわかっていた.ただこのトラックが関係者のものなのか,それとも配達のために一時的に止めているだけなのか,部外者の私には知る余地もない.もし配達なら,まもなくドライバーが戻ってくるだろう.探索中に鉢合わせしたら大変だ.とりあえず場所はわかったので,いったん退いた.別ルートで向こう側に回り込むことができるならそうしようと考えた.

 

別ルートを探すべく,まずは海岸に下りてみた.

穏やかな海である.

 

中央左手に見える穴が気になって近付いてみると,

海蝕洞.人が造ったトンネルではなく,自然にできた穴である.穏やかな海とは対照的な,凄まじい力が感じられる.Googleマップによると,蓬莱岩と呼ばれているようだ.

 

そこから右を向くと,

クリーム色の建物は現役の旅館だが,そのルーツは森田庄兵衛の興した旅館「仙集館」であったという 1

 

その真下に,恐ろしい量の崩土に埋もれながらも,煉瓦の壁が見えている.「和歌山県の近代化遺産」1 によると,これは大正9年 (1920年)頃,仙集館の付属施設として建設された水族館だそうだ.2007年刊行の当該資料には,斜面が崩れるより前の写真が「現状」として掲載されているので,ここ10年~15年以内の崩落と思われる.

 

さらに下のコンクリートアーチを連ねた桟橋は,この写真にあった「遊歩道路」である.そこを通って行けば煉瓦の壁を間近で見られるし,ひょっとすると第二隧道の西側にも回り込めるかもしれない *1.そう思って遊歩道の入口に行ってみたのだが,

物々しく封鎖されていた.あれだけの崩落があれば無理もない.しかし右手には,紀州青石を積み上げた擁壁である.こういう部分も見栄え良く造られているのは,さすがの観光施設という感がある.

 

封鎖を無視して進むこともできたが,海岸には釣り人が多数いて,また真上の旅館からも丸見えだったので,ここはぐっと堪えた.再訪時の課題としたい.

新和歌浦第二隧道

海側からのアプローチを断念した私は,次に山側から回り込めないかと画策した.いったん現道に戻り,旅館の前を通り過ぎる.森田が知ったら喜びそうな「新和歌遊園」というバス停付近から,左側の崖下を覗くと,

見つけた!切り立った擁壁の数メートル下に,新和歌浦第二隧道が口を開けていた.

 

どうにかしてここから下降できないかと考えた.跳び下りるにはあまりにも高度差が大きい.そもそも隧道があるなら,その西口に繋がる道路もあるはずだと思ったが,どうにも見当たらない.この点については次節でも考察するように,第二隧道から先の道路は,おそらく完成しなかったものと思われる.いずれにしても現地では結局どうにもならず,先ほど見つけた東口から進入する覚悟を決めたのだった.

 

東口に戻ってみたが,トラックも含めて変化はなかった.周囲に人気がないことをよく確認して,坑口に近付いた.

コンクリートの先に煉瓦が見えている.新和歌浦第二隧道に間違いない.それにしても,現代のトラックを余裕で収めることのできる断面というのは,明治~大正期の隧道としては随分大きい.やはり路面電車用と考えると納得がゆく.

 

人目に触れないように素早く入洞する.洞内は暗く,テニスコートのネットのようなものが張ってあったりしたが,ライトを点ければ容易に通り抜けられた.振り返ると,

煉瓦アーチがその姿を留めていた.無人のトラックが,不気味にこちらを見ている.

 

そのまま素早く西口から脱出する.

新和歌浦第二隧道,近代土木遺産Bランク 4.第一隧道と比べると控えめな装飾だが,要石や迫受石,そして取ってつけたようなピラスターなどは第一隧道と共通の意匠である.

 

見上げると,

大きな要石が好ましい.その右に写っているのは碍子だろうか?坑門左半分の壁面は崩壊し,右側も一部削り取られている.県道の工事や旅館の建て増しによるものと思われるが,あまりに勿体ない.それからよく見ると,残っている壁面にも大きなヒビが入っている.

 

近付いてみると,

アーチは長手積みのようだ.しかしこちらもヒビ割れが多く,明らかに状態が悪い.

 

さて,これ以上の長居は無用だ.西口の真上は旅館の客室で,何人もの宿泊客の姿がこの写真の位置から確認できていた.そそくさと,しかし転ばないようにきちんとライトは点けて,再び隧道を通り抜けて東口から脱出した.

 

東口付近には森田庄兵衛の功績を讃える石碑があったはずなのだが,早くこの場を後にしなければとの思いから,観察するのを忘れていた.これもまた,再訪時の課題である.

 

この日の探索はこれにて終了し,バスと電車を乗り継いで家路についた.

考察 第二隧道の先の道について

新和歌浦第一隧道と第二隧道の現存は確認できたが,その先に続く道路はどうなっている (いた) のだろうか.現地ではこの写真の位置から見下ろしたわけだが,未舗装路がまっすぐ続いた先は藪に覆われ,行き先は判然としなかった.第二隧道に進入した際も,早く撤収しなければと焦っていたため,その道の行く末を確認することはかなわなかった.

 

後日調べてみると,どうやら第二隧道が竣工した後しばらくの間,その先の開発は中断していたようだ.「和歌山市史」7採録されている大正6年 (1917年) 9月1日付「和歌山新報」は,

往つて見て物足らぬのは、第二隧道のその前が、手前の文明開化に比して、丸で太古未開の地のようであるんだから、アヽポカンと丸で狐につままれたと同んなじやないか、「新和歌浦」やのうて「新化け浦」か、それとも「新馬鹿浦」やとは、悪口と洒落とで通つた大阪人の電車中の毎度の棚下ろしである

と散々に酷評した後に,

今度愈々和水では新和歌浦の設備完成を思ひ立つて【中略】第二隧道より向ふの太古蒙昧の地を開拓して大阪人をアツと言はし【中略】其経費は約二三万円で、先ず第二トンネルから向ふ雑賀崎の尖端、最も風光絶佳の頂辺までウンと高襟(ハイカラ)つて自動車道をブツ通す【中略】目下一応新和歌浦と関係の深い南海へも既に交渉を開始してゐるので、其返事を先ず俟つた上で、南海と共同か、それ共水力単独何れかにせよ、今年中には是非とも設備完成する筈だとは、和水某有力側の漏す所である

と報じている.つまり,第二隧道から先の道路は,大正6年時点でまったく完成していなかった.

 

この記事でまず気になるのは,第二隧道の先の開発を計画しているのが和水 (水力),つまり和歌山市内で路面電車を経営していた和歌山水力電気であったということだ.「森田庄兵衛による新和歌浦観光開発について」5 によると,森田は当初,和水と南海電鉄とも協同で新和歌浦の開発を進めようとしていたが,多額の資金を要することや,ライバル同士である両者の折り合いがつかないという事情から,結局森田の興した「新和歌浦土地」が単独で事業に乗り出した.それが大正6年時点では,第二隧道の先の道路を和水が計画していたという.「新和歌浦土地」は晩年,第一次大戦後の不況や関東大震災の影響によって経営が行き詰まった 5 というから,どこかのタイミングで和歌山水電が事業を引き継いだのかもしれない.

 

その第二隧道の先,「雑賀崎の尖端までブツ通す」という道路がどうなったのか,残念ながら詳しい情報は見つけられなかった.しかしながら,これはおそらく完成しなかったのではないかと思う.現在,新和歌浦から雑賀崎方面には県道151号が通じているが,これは第二隧道をこの写真のように見下ろしながら,高い尾根の上を進んでゆく.もし第二隧道の先の道路が完成していれば,それを拡幅することはあるとしても,わざわざ山越えの道を新たに造るというのは不自然に思われる.

 

ところで,執筆日時点でWikipediaの森田庄兵衛のページには,

第三トンネルを着工したが病のため完成を見ることはなかった

とある.もう少し良い情報源が欲しいものだが,当該ページで出典とされる資料のうち,「和歌山県史 人物」2 には第三隧道に関する記述はなかった.もう一方の資料は現在手配中である. (2021. 8. 7. 追記) 入手した資料に記述があったので引用する.「郷土歴史人物事典 和歌山」8 には.

道路と第一、第二トンネルを完成し、仙集館を建て、【中略】つづいて第三トンネルの開削を始めたが、その途中で病魔に倒れた。 

とある.Wikipediaの情報通り,第三のトンネルも着工していたようだ.

 

ともかく,第三隧道の存在は見逃せない.名前からして,第二隧道の先の道路上に計画されたことは間違いないだろう.新和歌浦第三隧道に関する情報は乏しく,具体的な場所は推測に頼る他はないのだが,おそらく,新和歌浦観光ホテル跡地の真下の岩山だと思われる.

東側の「和歌の浦温泉」の真下の第二隧道から出た道は,そのまま西に延びている.県道との間にはこの写真のように相当の標高差があるから,この先で両者が合流しているとは考えづらい.だとすると,第二隧道西口からの道は,どうしてもピンの位置の岩山に突き当たる.ここに隧道を掘り,西側の田ノ浦漁港を経由する計画だったのではないだろうか.地質不良か財政的な問題かはわからないが,その計画が頓挫した結果,県道として新たに開く道は尾根の上を通るようにルートを変更した,というのがありそうなストーリーだと思われる.

 

いずれにしても,最も興味深いのは第三隧道が「着工した」という情報である.おそらく完成はしなかったのだと思うが,どこまで工事は進んだのだろう.何か遺構が残っていたりしないだろうか.今は時期が悪いが,冬枯れの季節にでも,改めて探索してみたいと思う.

おわりに

今回は,森田庄兵衛が多額の私財を投じて掘りぬいた,新和歌浦の2本の隧道を探索した.晩年の森田は病気がちだったらしく,大正13年 (1924年),一連の事業の完成を見ずして62歳で没している 2.しかしその後も開発は進められ,昭和以降,新和歌浦は一大観光地に成長した.今回の探索では,隧道の意匠については色々思うところはあるものの,新和歌浦の観光開発にかけた森田の心意気を,確かに感じることができた.

 

しかしながら,これら貴重な土木遺産が,まるで蓋をするかのように放棄されているのは勿体ない.2本の隧道は,現代においても景勝地として名高い新和歌浦の,開発の歴史を伝える生き証人である.新和歌浦のメインストリートである県道からも容易にアクセスできる場所にあるのだから,きちんと整備すれば,観光スポットとして名を馳せることも可能だろう.何より,新和歌浦の開発の礎を築き,夢半ばでこの世を去った森田庄兵衛も,あの世でそれを望んでいるのではないだろうか.

参考文献

  1. 和歌山県教育庁・編 (2007) "和歌山県の近代化遺産:和歌山県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" pp. 104-105 / 227,  和歌山県教育庁
  2. 和歌山県史編さん委員会・編 (1989) "和歌山県史" 人物,p. 484,和歌山県
  3. ニュース和歌山 (2015) "新和歌浦 隧道は路面電車用 | ニュース和歌山" 2021年7月20日閲覧.
  4. 土木学会 (2008) "和歌山県 - 日本の近代土木遺産(改訂版)" 2021年7月17日閲覧.
  5. 田中修司 (2009) "森田庄兵衛による新和歌浦観光開発について" 日本建築学会計画系論文集,74巻,635号,pp. 291-297,2021年7月20日閲覧.
  6. 永富謙 (2005) "旧道倶樂部活動報告書・新和歌第一隧道" 2021年7月20日閲覧.
  7. 和歌山市史編纂委員会・編 (1979) "和歌山市史" 第8巻 (近現代史料2),pp. 841-842,和歌山市. 
  8. 阪上義和 (1979) "郷土歴史人物事典和歌山" p. 99,第一法規出版

*1:実際,「和歌山県の近代化遺産」1 によると,第二隧道の西口と水族館を結ぶ道も造られていたそうだ.