明治期に開かれた,京都と丹後国・宮津を結ぶ車道.その最後の難所に掘られた隧道を訪れた.
目次
はじめに
京都府は南北に長い.東西間の距離が平均40kmほどであるのに比べて,北端である丹後・経ヶ岬から南端の名張川中流までの南北距離は150kmもある 1.これは廃藩置県よりも後の府県統廃合によるところが大きく,特に北部の丹後地方が京都府に編入されたのは,豊岡県が廃止された明治9年 (1876年) であったという 2.
丹後地方が京都府となったからといって,府庁のある京都市への距離が縮まるというはずはなく,天橋立で知られる丹後の中心地・宮津から京都までは片道でも2泊3日を要したという 3.この状況を打開すべく,京都府は明治14年 (1881年),京都と丹後を結ぶ道路開鑿を計画する.いわゆる「京都・宮津間車道」で,現在の国道9号~国道173号~国道178号に相当する.時の知事は京都の近代化に大きく貢献した北垣国道.計画は5月に府議会において満場一致で可決され,同年11月に着工した 4.
工事は容易ではなかった.距離の長さもさることながら地形が険しく,「京都府誌」5 は
其の里程三十六里餘、【中略】沿道芋峠、大枝峠、観音峠、大朴峠、兎原峠、長尾峠、栗田峠の七大峠あり。其の他大小の峻坂多く平坦なる道路は僅に五、六里に過ぎず
と評している.このうち京都と亀岡の間に聳える大枝山 (大枝峠) には明治16年 (1883年) に老ノ坂隧道 (初代) が掘られ,その西の峡谷には田邊朔郎設計の王子橋が架けられている.一方,最後の難所とされたのが宮津市の栗田 (くんだ) 峠で,「京都府誌」5 によると「之を普通の切下工事とせんこと非常に困難なるを以て」隧道を掘るに至ったという.
ただし,栗田隧道の計画自体はそれ以前から存在した.地元の人々にとっても栗田峠の道は険しく,特に貨物は人が肩に担いで運ばねばならなかったという.そのため明治12年 (1879年) 頃,上司町の隣の波路村の当時30代半ばの売間 (うるま) 九兵衛が,京都・宮津間車道に先んじて隧道開鑿を提唱した.また,その準備として少しでも山を切り下げるため,同年には栗田峠の頂上から谷底に向かって水路を建設した.とはいえ,売間を中心とした地元の人々には工事資金の調達が大きな障壁であった.売間自身もかなり無理をしていたようで,後年には多額の負債を抱え,所有財産をほとんど失う結果となっていたようだ 6.
そんな中,京都府直轄の京都・宮津間車道が事業化され,栗田隧道もその一部となった.売間らにとっては渡りに船で,北垣知事と府議会の尽力によって国庫からの補助も受けた結果,明治19年 (1886年) に栗田隧道が竣工,その3年後に京都・宮津間車道が全線開通した 6.
栗田隧道は明治10年代という古さでありながら,現役で使われ続けている.今は新トンネルの開通によって旧道となっているが,行政としても廃止するつもりはないようで,例えば2016年時点で落石の恐れありということで通行止めになっていた 7 ものの,その後対策がなされたらしく,探索日時点では何事もなかったかのように通行できた.同じ事業で造られた老ノ坂隧道 (初代) は拡幅によって消滅,王子橋や岡田橋は車道としては廃止という中で,明治期の姿を留めたまま供用し続ける姿勢は称賛に値する.
探索記録 (本編)
京都縦貫道で宮津天橋立ICまでやってきた.日曜日の午後に観光に向かう車は少ないのか,道は空いていて快適なドライブとなった.しかし,せっかく今回焦点を当てる京都・宮津間車道が改良を経て国道9号〜国道178号として残っているのだから,その道を通ってくれば良かったと思う.コロナ対策でETCの休日割引が適用されない日だったことも,そう思う理由の1つである.
ともかく,下道に入ってからは海側に向かって北進し,国道178号に入る.しばらく行くと右手に京都丹後鉄道の線路が並走するようになる.波路集落の辺りで右折し,踏切を越えてすぐ左折,旧道に入る.あとはまっすぐ進むだけだ.ただし隧道のことばかり考えていたせいか,左手に見えていたはずの,売間の功績を讃える石碑を見落としてしまったのは遺憾である.
旧道に入ってからわずか2分.目の前に現れたのは,
栗田隧道,明治19年 (1886年) 竣工,近代土木遺産Bランク 8,国登録有形文化財 9.御年135歳,総切石造りの迫力ある坑門である.
両脇には,
重厚感たっぷりのピラスター.
扁額には,
「撥雲洞」.隧道自体がこの名前で呼ばれることも多い.雲を払う (取り除く) 洞ということで,険しい峠道を格段に改良する隧道への期待が現れているものと思われる.揮毫は北垣知事だそうだ 6.額も単なる長方形ではなく,かといって装飾的すぎるわけでもないのが素晴らしい.
後年の補修で,内部はコンクリートで覆われている.
残念ではあるが,それでも廃止されてしまうよりはよっぽどいい.
向かって左側の側壁には,
何かケーブルを通していた跡だろうか?
坑門の少し手前には,
解説板もあった.地域の宝として大切にされていることが窺える.
さて,内部に進入する.もちろん車に乗ったままである.中盤で様子の変化があり,
下半分だけはコンクリートかモルタルの吹き付け,アーチ部分は巻き立てとなっていた.おそらく元は全て素掘りだったのだろう.ごつごつした吹き付け部分に難工事の香りが感じられる.
東側に抜けて,振り返る.
明治,大正,昭和,平成を経て,令和のいまもその立派な姿を留めている.
こちら側の扁額には,
「農商通利」.意味は解説するまでもないほどわかりやすく,こちらも車道開通に対する大きな期待が現れている.揮毫は西側と同じく北垣知事 6.
東口の傍には,
古くからの峠らしく,小さなお地蔵様が佇んでいた.月並みではあるが今後の旅の安全を祈り,手を合わせておいた.
探索後はそのまま直進し,再び踏切を越えて現道に復帰した.旧道は隧道内以外は断続的に改良されているらしく,概して1.5車線以上が確保されていた.東側の運動公園への車が通るためか路面の堆積物もほとんどなく,走りやすかった.135年という年月を経て未だ現役で,その上これほど手軽に訪問できる物件も珍しい.願わくば今後も同じ状況であり続けてほしいものだ.
参考文献
- 京都府環境部自然環境保全課 (2015) "地形の概要|京都府レッドデータブック2015" 2021年7月23日閲覧.
- 宮津市社会教育課社会教育係 (2021) "Re : inKyoto Miyazu 第83回 宮津藩から京都府へ - 宮津市ホームページ" 2021年7月23日閲覧.
- 宮津市社会教育課社会教育係 (2021) "Re : inKyoto Miyazu 第87回 京都・宮津間車道の開通 - 宮津市ホームページ" 2021年7月23日閲覧.
- 京都府教育庁指導部文化財保護課・編 (2003) "京都府の近代化遺産:京都府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書" pp. 59-62,京都府教育委員会.
- 京都府・編 (1915) "京都府誌" 下,p. 210,京都府 / 国立国会図書館デジタルコレクション (コマ番号153),2021年5月10日閲覧.
- 宮津市史編さん委員会・編 (2004) "宮津市史" 下巻,pp. 597-606,宮津市.
- 宮津市役所 (2016) "宮津市役所 - 【旧栗田トンネル(栗田側)の通行規制のお知らせ】| Facebook" 2021年7月23日閲覧.
- 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 180-181,土木学会.
- 文化庁 (2008) "撥雲洞トンネル - 国指定文化財等データベース" 2021年7月23日閲覧.