交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

津市美杉町のおちあい橋 / 中電めがね橋 / 中電橋 (2021. 5. 30.)

三重県津市,旧美杉村.清流に架かる奇天烈な橋を訪れた.

目次

探索開始まで

二雲橋の探索を終えた私は,JR名松線家城駅まで徒歩で移動した.二雲橋があまりに美しく,探索に思った以上の時間をかけてしまったため,駅に着いたのは列車が出る直前だった.駅員は窓口を空けており,券売機などはない.この列車を逃すと2時間後まで列車は来ないから,仕方なくそのまま乗り込んだ.ワンマン列車だが,整理券は出ていなかった.

 

一駅隣の伊勢竹原駅で下りる.整理券はないが,運転手氏に「家城から」と申告するだけでよかった.ずいぶんのんびりしている.

 

伊勢竹原駅自体も見どころがたくさんあったのだが,そちらは次回レポートする.今回の目的地へは,古い家が立ち並ぶ駅前通りを右に進む.10分ほどで道は線路から離れて左に逸れてゆく.その先の分岐を右へ進むと,

高欄はガードレールに交換されており,平凡に尽きる風景だが,この橋が目的地である.

接近

横から見ようとするも,

むむ,時期が悪かったか.実はこの写真でも橋の特徴は写っているのだが,わかりにくい.足元の斜面は,降りようと思えば降りられないことはなかったが,やや不安があったので,別の場所を探すことにする.

 

橋を過ぎて川沿いに進んでいく途中,木々の間から対岸に見つけたのは,

巨大なコンクリートの壁である.外見と立地からして,橋台に見える.しかし,旧橋の遺構ではないと思う.今回の橋は大正〜昭和初期頃の架設だから,この橋台の方が明らかに新しい.未成に終わった橋の架替え計画でもあったのかもしれないが,謎のままである.

 

少し話は逸れるのだが,その先で

JR名松線の八手俣川橋梁にぶつかった *1.この写真は帰りに撮ったものだが,写っているのは乗る予定だった列車である.いつものごとく探索に長時間を要したため,2時間に1本しかない列車を見送ってしまったのだった.また,銘板も確認できた.

塗装の上塗りでほとんど読めないが,一番上の行は「鐡道省」,上から3行目は「㍿横河橋梁製作所東京工場製作」と思われる.

 

その八手俣川橋梁の袂から河原に下りた.反対側から見るとわかりやすいのだが,

写真右手中央にガードレールの切れ目があり,その付近に古びた階段がある.JRの保守用通路か,右手奥にある中部電力原発電所の管理通路のどちらか (あるいは両方) とは思うが,入るなとも書いていなかったので,ありがたく利用させていただいた.

 

岩場を伝って歩いていくと,また気になるものを見つけた.

色は自然石にも見えるが,明らかに人工物の形状で,釘も刺さっている.何かを立てていたのだろうか.これについても,未だ謎のままである.

観察

飛び石伝いに歩いてゆき,ようやく橋の全体を拝むことができた.

おちあい橋,別名・中電橋 (中電めがね橋),橋長41.1m,幅員2.7m,高さ8m 1,近代土木遺産Cランク 2.石積みの橋脚2本に支えられたアーチ橋である.

 

本橋の一番の特徴は,

アーチの根元,橋脚真上のまん丸な開口部である.「日本の近代土木遺産2

中世フランスの石アーチを思わせる円形開口部付のRCアーチ=日本で唯一

と評している.そう言われれば,有名なアヴィニョン橋 (サン・ベネゼ橋) に似ている気もする.いずれにしても日本では全く見慣れない構造で,強烈な印象を受ける.

 

しかし時期が悪く,蔦が絡んでいるせいで開口部がいまいちわかりづらいのは残念だ.冬枯れの時期に再訪したいと思う.その際は長靴も持参しよう.今回は諦めたが,長靴があればもっと近くまで接近できるし,アーチ部分や石積みの橋脚を見上げることもできるはずだ.

 

次が,可能な限り接近したところからの写真である.

良い景色だ.

 

「また来るね」と呟いて,再び岩場を跳び跳び道路に復帰した.

机上調査編 

謎の多い本橋だが,机上調査によって面白い事実が判明した.以下,特記しない限り出典は「三重県の近代化遺産」1 である.

 

まず架設の時期について.「日本の近代土木遺産2クエスチョンマーク付きで「大正12?」としているが,おそらくこれは隣接する中部電力原発電所の竣工年 3 からの推測と思われる.しかし「三重県の近代化遺産」1 によると,実際の竣工はそれよりやや遅れて,昭和5年 (1930年) だったようだ.

 

架設当初の関係資料は残っていないようで,本橋の奇抜な意匠が施された経緯や工法は不明である.しかし「中電橋」や「中電めがね橋」という通称から推察されるようにに,竹原発電所へのアクセス路として架けられ,当初は中部電力保有する私道だったようだ.

 

架設から50年が経過した昭和55年 (1980年),転機が訪れる.当時の美杉村 (現・津市美杉町) が本橋を通学路として活用するため,前後の道路も含めて買収した.その後は「村道おちあい橋」として公道となり,私のような部外者でも問題なく通行できるようになっている.

 

さて,橋を買収した美杉村は,その整備の一環として路面の舗装工事を行った.その際,関係者が床板を外すと,コンクリート製の橋脚の中には鉄筋がなく,土が詰められているだけだったという.つまり本橋はRC (鉄筋コンクリート) 橋ではなく,無筋コンクリート橋だった.RCと比べると格段に強度が弱く,現代ではまず用いられない橋脚構造であるが,当時はまだまだコンクリートの黎明期で,戦後恐慌や第二次大戦に向かいつつある世情の影響もあったものと思われる.その後そのままでは,自動車が通行することを考えると強度に不安があるということで,橋脚内部にコンクリートを混入し,また床板内部には鉄筋を配することで,一応の補強をしたそうだ.

 

また高欄については,現在はガードレールだが,それ以前は鉄パイプ製だったようだ.具体的な意匠などはわかっていないが,鉄パイプ製と聞くと,どうも工事用の仮橋のような印象を受ける.私道だからそういうこともあるかもしれないが,だとしても奇天烈な下部工との落差が大きすぎる.むしろ,元々は高欄などなかったが,買い取った美杉村が鉄パイプ製の高欄を設置した,という可能性の方が高いと思われる.もちろん,橋脚に穴を穿つという摩訶不思議な設計をするくらいだから,鉄パイプを使いつつ,私などには想像が及ばないような高欄を造っていた可能性はある.

 

余談だが,机上調査の資料とした「三重県の近代化遺産」の閲覧にはやや苦労させられた.「日本の近代土木遺産」の主要な出典となっている各都道府県の近代化遺産調査票は,大抵は大きな図書館 (私の場合は京都府立図書館や大阪府立図書館をよく使う) に行けば閲覧できるし,そこになくてもほとんどの場合は国立国会図書館に所蔵されている.しかし三重県に限っては,そのいずれにも所蔵されていなかった.三重県立図書館の蔵書にはあったものの,公式サイトには昨今の情勢で「県外からの来館は自粛を」と書いてある.どうしようかと悩んでいたが,偶然,奈良文化財研究所に所蔵されていることを知った.図書室は予約すれば部外者も利用できるということで,結局その手を使ったのだった.

 

しかし苦労して閲覧した甲斐はあり,本節で述べた面白い発見があっただけでなく,近代土木遺産に選ばれていない素晴らしい土木遺産を知ることができた.主に古い道路橋だが,その数は50を超えている.いずれ時間をかけて探索していくつもりだ.

おまけ: 竹原発電所の導水隧道

河原に下りる際に利用した階段の真下を見ると,

水路隧道である.発電所の竣工が大正12年 (1923年) 3 だから,その頃のものと思われる.コンクリート造り (コンクリートブロック積みかもしれない) だが,要石風の意匠がとても好ましい.

参考文献

  1. 三重県教育委員会・編 (1996) "三重県の近代化遺産" pp. 89-90,三重県教育委員会
  2. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 144-145,土木学会.
  3. 中部電力 (刊行年不明) "水力発電所一覧 - 中部電力の水力発電所|中部電力" 2021年7月10日閲覧.

*1:橋梁名は橋桁に記された塗装履歴で現認した.写真略.