古くから漁港として発展した水橋町.集落内の用水路に架かる2本の旧橋を訪ねた.
目次
琴平橋
現地探索
永代橋より続く.富山を旅していたこの日,最後に向かったのが富山市の北東部,旧水橋町のエリアだった.越中中島駅から路面電車の富山港線に乗り,富山湾に面した終点の岩瀬浜でフィーダーバスに乗り換える.海に沿って東に進み,水橋町に入って終点の水橋漁港前で下車.白岩川の対岸に渡り,川沿いに歩くこと3分,
目当ての橋が見えてきた.明るいオレンジで塗られているため,遠くからでも矢鱈と目立っている.
接近して.
構造は2径間のコンクリート単純桁橋.高欄は矩形の窓を連ねたシンプルなもの.ちょっと塗装が鮮やかすぎる気がしないでもない.
ストリートビューで確認したところ,2014年時点では後述の陸橋と同じく,赤茶色に塗られていた.
個人的には以前の塗装の方が好みである.
親柱.
高欄と同じく,飾り気の一切ない簡素なもの.文字情報も確認できないが,もともとなかったのか,厚塗りの塗装に隠れているのかは定かではない.他の親柱も同様であった.
渡って対岸から.
やはり色がビビッドすぎると思う.桁や橋脚の色に比べて目立ちすぎており,まるで床板から上だけが宙に浮いているかのようだ.
確かに古びてはいるのだが,全体的に平凡で,はっきり言って面白みがない.ここはもういいから,反対側を一目見たらサッサと次の橋に行ってしまおう.そう思って上流側に回ってみると……
ん!?
写真では驚きが伝わらないかもしれないが,上流側は桁や橋脚の外観がずいぶん異なっている.しかもこちらは3径間である.向かって左の側径間は非常に短いことから,水防事業か何かで川幅が狭まったのかもしれない.
近景.
あちこちでセメントが剥がれて骨材が露出している.先ほど見た下流側よりも明らかに古いものである.桁の形状はわずかに変断面となっている.桁と橋脚の間に支承のないラーメン構造だが,支承が塩害にやられることを恐れたためだろうか.
上流・下流側での不可解な断面の変化.いったいどういうことかと思い,カメラのみ足元に下ろしてシャッターを切った.
手前が上流,奥が下流.見ての通り2種類の橋脚が並んでいる.明らかに拡幅の痕跡である.ちなみに,橋上に継ぎ目のようなものは見受けられなかった.舗装でカムフラージュされているらしい.
上流側の少し離れた位置から.
わずかに変断面となっている桁など,個人的には下流側よりも好ましい.第一印象は微妙だったが,予想外に面白い橋であり,嬉しい気持ちになった.やはり橋はあらゆる角度から観察せねばならない.
机上調査
Q地図によると本橋の名称は「琴平橋」.橋の南詰に鎮座する金刀比羅宮に因んだ名称であろう.そして同じくQ地図には,大正9年 (1920年) 竣工と記されている.しかしこれについては疑義がある.旧水橋町が編纂した「水橋町郷土史」1 の「橋梁」の節に,
の記述があるからだ.どちらが正しいかは定かではないものの,個人的には大正9年というのは木橋が架けられた年であり,それが昭和8年に現在の姿になったという説を推したいと思う.根拠は直感である.
下流側の拡幅の時期も不明だが,見た目からは戦後のような印象を受ける.先に引用した昭和41年 (1966年) 発行の郷土史に記載がないので,それ以降である可能性もあるが,だとすれば気になるのは高欄だ.既にガードレールが普及していた時代,本橋の高欄背の低い高欄が新しく設けられたとは考えにくい.もしかすると,昭和8年あるいは大正9年当初の高欄を,拡幅時に移設したのかもしれない.
陸橋
現地探索
琴平橋から上流側を望むと,
好ましい赤茶色に塗られた大きな橋が見えている.
接近する.まずは左岸側.
惚れ惚れするほど立派な造形だ.とりわけ目を引くのが高欄に比べて非常に背の高い親柱で,目測では高さ2メートルを超えていた (コンベックスを持って行けばよかったと思う).
その親柱には,
「陸橋」「下条川」.川を跨ぐ橋にもかかわらず陸橋とは不思議な名称だ.橋下の川は土地改良区によって造られた用水路だから,元々は陸続きであった場所に架かるという意味でのネーミングかもしれない.あるいは土地の名士の名前か?
上流側から.
構造は3径間RC桁.奥 (右岸側) の側径間部分は後年に埋め立てられているように見える.桁の形状は先ほど見た琴平橋上流側と同じくわずかに変断面だが,底部に鋼材による補強が入っている.ただし塩害のせいか,当初の桁よりも劣化が進んでいるように見えなくもない.橋脚上には桁隠しがあり,ここにも意匠へのこだわりが感じられる.
橋上に戻って,高欄の近景.
細長い窓が連なっている.単なる矩形ではなく,上辺がごくわずかに曲線を描いているのが面白い.
渡って,対岸の親柱.
素晴らしいことにこちらもオリジナルのものが残っている.橋名の読みは「りくばし」,りっきょうではない.そして重要な情報として「昭和七年竣工」の銘板が掲げられている.まもなく御年90歳を迎える旧橋が,それなりに交通量の多い住宅地の中で,大戦やモータリゼーションを経てなお,優れた意匠を保ちながら現役で働いている.
下流側から.
やはりこの塗色が好ましい.昭和7年当初の色は定かではないが,もし違ったとしても良いセンスだと思う.桁隠しなど含め,きちんと塗り直されているのも素晴らしい.直前に訪ねていた永代橋も,このくらい綺麗に塗ってあげれば良いのにと思った.
この日の探索は以上.陸橋の袂にある「水橋児童館前」から富山地鉄バスに乗り,滑川駅からあいの風とやま鉄道線,新幹線,特急サンダーバードと乗り継いで京都まで帰った.2日間の充実した旅が終わった.
机上調査
国道上の、陸橋(田町―西出町) 昭和七年 水橋をコンクリート橋に架橋替
と記している.「水橋を」は「木橋を」の誤植と思われるが,いずれにしても先代の橋が存在したことは確かなようだ.しかしそれ以上に重要なのは「国道上の」である.
この時代の国道といえば,大正9年 (1920年) 制定の道路法で定められた,東京と各地方を結ぶ路線群であり,富山県を通っていたのは第11號 (東京市ヨリ石川県庁所在地ニ達スル路線 (甲)) であった.これは現在の国道8号だが,現道は当地よりも4kmも南を通っているし,また旧道 (現・県道135号) も2.5km以上離れている.しかし,そのルーツである古の北陸街道は水橋町を含む富山湾沿岸を経由していた.近代以降,県庁の置かれた富山市街地にすり寄るように,街道筋が内陸に移っていったのだ.
そこまで考えたところで思い出したのは,高岡大橋の記事で引用した昭和9年 (1934年) の「北国紀行」2 である.改めて読んでみると,
路面は新潟縣の夫れよりも良い線形も亦可なりだが、省鐡道線と交叉してゐて物騒な踏切も尠くない、魚津や滑川、夫れから東西水橋町、何れ北國の漁師町だと豫想したのは間違であつた、矢張り旅して見なければ圖面だけでは認識を缺く、と誰やらが言つてゐた、成る程と賛成する。
の記述がある.少なくとも著者である丹波浪人 (のペンネームを使った内務官僚) の一行が旅をした時点で,まだ国道は水橋町を含む沿岸部を通っていたらしい.おそらく彼らも陸橋を渡ったのではないか.いずれにしても,陸橋が旧国道の橋であったとすれば,その装飾性の高さや幅員の大きさにも納得がゆく.
さて,本橋ほど豪華で,かつよく保存された戦前の橋が,土木学会の「日本の近代土木遺産」に選ばれていないのは少々不思議だ.私が思うにその理由は,富山県教育委員会による県下近代化遺産調査の対象から漏れていたからであろう.「富山県の近代化遺産」に掲載の調査対象リストには,琴平橋は含まれている (「石造」という誤記はあるが) にもかかわらず,そこから目と鼻の先にある陸橋の記述はない.ちょっとどうかと思う取りこぼしである.
参考文献
- 水橋町・編 (1966) "水橋町郷土史" 第1巻,p. 554,水橋町.
- 丹波浪人 (1934) "北國紀行 (三)" 道路の改良,第16巻7号,pp. 129-144,道路改良会,2021年12月31日閲覧 (土木学会附属土木図書館によるアーカイブ).