交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

五條市の (旧) 下田橋 (2021. 5. 4.)

奈良県五條市にある,国道の旧橋.著名な橋ではないが,その写真を見た時からずっと行きたいと思っていた.奈良県の古橋を巡っていたこの日,その橋をついに訪問した.

目次

導入

きっかけ

この橋を知ったのは,別のことを調べている時,「五條市における社会資本」なる文書 1 が検索に引っかかったからであった.文書の主張はともかく,そこに載っていた「下田橋」という橋が気になった.鉄筋コンクリート造りだが,無骨な欄干の姿がいかにも古くて好ましい.

 

橋の場所を知るため,まず「五條市 下田橋」で検索すると,国道168号の橋がヒットした.先の文書によると,目指す下田橋は現在人道橋とのことだから,これではない.しかし地図をよく見ると,すぐ東に旧橋らしき橋があった.ストリートビューで確認すると,ビンゴであった.つまり旧橋も現橋も「下田橋」という名前なのだ.記事本文では,メインの旧橋のことを「下田橋」,現橋のことは「現・下田橋」と記すことにする.

アプローチ

「霊安寺」バス停からアクセスした.このバス停は現・下田橋の袂であり,お目当ての下田橋も目と鼻の先である.以下,そこまでの顛末を一応遺しておく.

 

本橋の前に訪問した端駈橋を後にした私は,300mほど西の国道沿いにある「御所橋」停留所からバスに乗り込んだ.実はこのバス,ただの路線バスではない.一般路線バスとして最長距離・最長運行時間・最多停留所数を誇る,八木新宮特急バスである.橿原市大和八木駅を出て南下し,紀伊山地を越えて和歌山県の新宮に至るという路線で,始発から終点までの所要時間は6時間半にもなるという.その道のりを乗り通すのも楽しそうだが,それはまたいつかにして,1時間ほど乗っただけの「霊安寺」で降車したのだった.

探索記録 (本編)

遠景

現橋の上から東を向くと,お目当ての下田橋の姿がよく見えた.

私の大好きな無骨なコンクリート橋である.その素晴らしい造形に唸った.

橋の上へ

歩いて橋上に向かう.

事前情報通り車止めがあり,人道橋となっていた.しかし幅員は広く,旧街道としての風格がある.

 

親柱.

なかなか凝った良い意匠である.そして銘板は失われていた.他の3本も確認したが,銘板はやはり失われていたり,そもそも親柱自体が藪に埋もれて発見できなかったりで,現地で得られる文字情報は皆無であった.

 

高欄.

窓は六角形となっていて,無骨な橋の中に潜む遊び心が感じられる.緑に埋もれる姿も素敵.

横から

橋の南側には,川原に降りる階段があった.そこに足を踏み入れ,下田橋を横から眺める.

何度見ても素晴らしい.

川原から

さて,階段を下りて川原に行こうと思ったのだが,ほとんど使われていないようで,泥と苔でべちゃべちゃの状態であった.注意すれば下りれないことはないかもしれないが,滑り落ちたら怪我をすることは必至であった.どうしようかと迷っていると,ふと近くの住人らしき男性が,いぶかしげにこちらを見ていることに気付いた.別に通行止めを突破しているわけでもないのだが,観光名所でもない橋を,色々な角度から眺めて撮影している余所者というだけで相当不審である.居心地の悪さを感じながら,通報されないうちにその場を後にした.

 

いったん橋から離れたけれど,やはり下からも下田橋を眺めたい.現・下田橋まで戻って周囲を見渡した結果,西側,すなわち下田橋と反対側に下り坂で伸びる道があったので,そこに進んでみた.するとそこには植物に覆われた廃屋があった.

特に立入禁止とも書いていなかった (何らかの看板はあったが錆びて文字が消えていた) が,私有地だったのかもしれない.しかし国道とそこを隔てるものはなく,余所者の私には判別が困難であった.

 

そういうわけでそのまま進むと,その先で1mほどの高さのブロック護岸となったので,そこから川原に下りた.無理なら引き返そうと思っていたが,うまい具合に岩がごろごろしていて,足を濡らさずに歩くことができた.

 

現・下田橋 (手前) との対比.

現橋もリベット打ちでやや古そうだが,それでも私は素朴な旧橋の方が好きだ.

 

そのまま進む.

良いシルエットである.

 

川原に下りてから約5分,遂に橋の下へ至った.奥に見える白い手すりが,先ほど訝しげな視線を浴びた階段である.

間近で見上げるとどっしりした印象である.ところどころ表面ひび割れて鉄筋が見えているが,もっと酷い状態の橋を見てきたからか,私にはそれほど悪い状態とは思えなかった.後で述べるように,本橋は経年劣化したコンクリート橋の見本のような扱いをされているのだが,少なくとも人道橋としては問題ないと思う.

 

これにて探索を終えた.近代土木遺産等には選ばれていない,それどころかほとんど知られていないと思われるマイナーな橋だが,私の好みの中では間違いなく上位にランクインする,素晴らしい橋であった.

橋の来歴について (机上調査編)

先に述べたように,本橋の親柱の銘板は見つけられず,現地から竣工時期の情報は得られなかった.しかし,近畿地方整備局のサイトで公開されている「令和元年度 第1回奈良県道路メンテナンス会議」の資料 2 によると,昭和20年 (1945年) 竣工だそうだ.橋の外観から私の受けた印象にも一致する. 

 

また,本橋にはさらに旧い世代の橋 (現・下田橋から見て旧々橋) が存在したようだ.戦前に刊行されていた「道路の改良」という雑誌に「奈良縣下の素人技術に廢品更生の架橋成る」という記事 2 がある.この「架橋」というのは下田橋ではなく至近の「どだん阪橋」のことだが,記事内で下田橋の架け替えが触れられている.以下,引用する.

奈良縣宇智郡南宇智村大字霊安寺領どだん阪古田川の架橋は同村でも十年來の久しい懸案であつたが、村財政の關係上遂に實現にいたらなかつた。ところがかねて村人の熱望を知つてゐた同村収入役柏田義雄(三十六年)は今春同村縣道丹生川筋下田橋の架け替へによつて約二千貫の古材を生じたのに着目、[以下略]

記事の刊行日を考慮すると,下田橋竣工の6年前,昭和14年 (1939年) には旧々橋からの架け替えが始まっていたようだ.

 

余談だが,当該記事自体の内容も面白い.下田橋の架け替えで生じた廃材に着目した村の収入役・柏田義雄氏は,自ら測量して「どだん阪橋」の設計図を作った.村長はその設計図に感心し,村直轄事業として起工した. そうして下田橋の廃材を使い,全住民と小学校児童の働きで,一人の土木経験者も加えずして「どだん阪橋」が竣工した.柏田氏は昼は現場監督,夜は村の仕事と昼夜兼行の働きぶりだっだが,完成の折にも「村長が土木に明るいので」と功を語らず,またその村長も「いや柏田君の全く熱意です」という謙遜ぶりだったという話である.その「どだん阪橋」についても気になるところだが,残念ながら上の文献を知ったのは後日であり,未だ訪問できていない. 「土壇坂橋」という橋が付近にあるので,それのことだと思う.さすがに "素人技術に廢品更生" の橋は残っていないだろうが.

 

下田橋のことに話を戻す.先ほど私は,下田橋のことをマイナーな橋だと書いたが,実は奈良県の土木関係者にはある程度知られているのではないかと思う.本橋を知るきっかけとなった文書 1 や近畿地方整備局の資料 2 でも本橋は経年劣化が酷い橋として名指しされてしまっているが,「奈良県コンクリート診断士会」の資料 4 によると,本橋を対象として橋梁の点検・診断の実地研修が行われたりもしているそうだ.さながら経年劣化の見本である.今後もそういう扱いをされていくとしたら不憫なものだ.しかしそれでも,解体されてしまうよりは良いとも思う.下田橋は現在人道橋だが,現・下田橋にも歩道はあるから,実は人道橋としての役割は重複している.残す価値がなければ,たちまち解体されてもおかしくないだろう.

 

いずれにしても,下田橋が今後も,周辺住民の方の近道としてそのまま残り続けることを願うばかりである.

参考文献

  1. 山口耕司 (2012) "五條市における『社会資本について』" 2021年5月12日閲覧.
  2. 国道交通省近畿地方整備局 (2019) "令和元年度 第1回奈良県道路メンテナンス会議 - 国土交通省近畿地方整備局" 2021年5月30日閲覧.
  3. 道路改良会・編 (1939) "奈良縣下の素人技術に廢品更生の架橋成る" 道路の改良,第21巻7号「地方通信」 pp. 138-139,2021年5月31日閲覧.
  4. 奈良県コンクリート診断士会 (2018) "現地研修会:五條市 - 奈良県コンクリート診断士会" 2021年5月31日閲覧.