交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

(旧) 国道168号の交通遺産【6/6】宮川橋と八郎橋 (2021. 7. 22.)

奈良県大塔村 (現・五條市大塔町) の中心地・辻堂に架かる,旧国道のポニートラス橋を訪ねた.

目次

はじめに

6回に渡る西熊野街道の交通遺産のレポートもいったん完結となる.「いったん」というのは,執筆時点で2度目の探索が完了しているからであり,そちらの成果はまた後日記事にする予定.

 

さて,瀧谷橋の南詰で合流した西熊野街道の現道と旧道は,その先でまたすぐに分岐する.現道は「新猿谷トンネル」で山を貫いた後,熊野川の対岸に渡る.ここからは辻堂バイパスと呼ばれる五條新宮道路の部分開通区間で,高速道路のような快走路となっている.一方の旧道は地形に沿って進み,猿谷ダム管理事務所から「猿谷隧道」で岬をショートカットして大塔町辻堂に至る.この旧道はダムの関係者や見学者が利用するため現役だが,この日は時間の関係上,立ち寄ることがかなわなかった.第2次探索では訪問しているので,いずれレポートする.

 

辻堂は,五條市役所大塔支所 (旧大塔村役場) のある旧大塔村の中心地.現道は対岸に迂回したが,集落や官公庁,商店は旧道沿いにあるので,旧道ももちろん現役だ.本記事では,辻堂集落を通る旧道上の,2本の橋をレポートする.

探索記録

宮川橋

宮川橋は,五條市役所大塔支所の目の前に架かる橋.橋の袂に消防署があって駐車スペースが確保しにくいが,50mほど北に軽自動車ならギリギリ入る路肩があったため,そこを利用した (この日はカーシェアでハスラーを借りていた).

 

正面から.

私の大好きな,左右の弦材同士が上部で繋がっていないポニートラス橋だ. 

 

近景.

順に北詰からと南詰から.構造は一般的な鉛直材付きのワーレントラス.びっしり打たれたリベットが好ましい.

 

親柱.

宮川橋,宮谷川.残り2基は「みやがわはし」「みやだにがわ」.残念ながら現地では竣工時期が明らかにならなかったので,机上調査の項で報告する.芝崎橋や瀧谷橋,後述の八郎橋でもそうだったが,このあたりでは支流の名前によく「谷」が入っている.ダムの名前も「猿谷」だ.支流がいずれも,川というより谷と呼びたくなるほど深いということだろうか.

 

下流側は歩道橋が並行していて眺めにくいので,上流側から.

幅広の谷を一跨ぎする,爽やかなスカイブルーのポニートラス橋.

幕間 「橋の辻」大塔

次の目的地である八郎橋に向かうため,車は宮川橋手前の路肩に停めたままにして,歩いて南に進む.その途中,右側に分岐して熊野川の対岸に渡る道があり,何気なくそちらを見てみると,

世代の違う3本の橋が一堂に会する,圧巻の光景が広がっていた.

 

奥は平成30年 (2018年) に開通した国道168号の現道・辻堂バイパスの「堂平大橋」1.高架橋によって険しい地形に平場を造っている.

 

その下のアーチ橋は,

市道の「堂平橋」.現地にはこんな題額も掲げられていた.

昭和42年度

山村振興法指定により架橋する

昭和44年4月1日 大塔村

違う角度から.

緑の中に赤いアーチが映える.

 

一番下は県道734号高野辻堂線の「仙水橋」で,平成19年 (2007年) 竣工の鋼箱桁橋 2.後述のように八郎橋の探索中,この橋で対岸に渡ってみた.すると,

ガードレールが途切れる怪しい区間を見つけた.そこから対岸 (つまり元々いた左岸側) を望んでみると,

石垣の上に建っているのは吊橋の主塔と思われる.もしそうなら,先代の橋の遺構に違いない.

 

まだ終わらない.本項最初の写真の付近から右を向くと,

右奥にも橋が見える.あれは「辻堂新橋」で,辻堂バイパスと国道168号旧道を連絡している.私も旧道へのアプローチに利用した.

熊野川を高々と跨ぐ優美なRC開腹アーチ橋で,平成28年 (2016年) 開通 3

 

ここ大塔村辻堂は,多種多様な橋が交錯する,橋の名勝である.

八郎橋

八郎橋は宮川橋から300mほど南に架かる橋.不思議な名称だが,「奈良県の近代化遺産」4 は鎌倉・南北朝時代の当地の武将,竹原八郎に由来するのではないかとしている.大塔支所の西には彼の墓があるそうだ 4

 

まずは近景.

順に北側,南側.白塗りの曲弦ポニートラスで,宮川橋と同様,リベットがびっしり打たれている.

 

北詰の親柱.

「はちろうばし」「やんだに」.やんだにというのがこの下を流れる川の名で,柳谷と書く 4

 

南詰の親柱のうち,上流側のものは失われていた.下流側は,

こんな具合に,目の前にゴミ庫が設置されていた.隙間を無理やり覗くと,

「八郎橋」の刻字がなんとか確認できた.

 

奈良県の近代化遺産」4 によると銘板があるらしいのだが,見付けられなかった.路面からは見えない場所だろうか?

 

本橋の最大の特徴は,少々珍しいトラス構造にある.

端部以外の上弦材が2パネルにわたって直線となっており,通常のボウストリングトラスに比べて角折れが少ない.初見ではワーレントラスだと思ったのだが,角折れの部分が格点になるので,これはプラットトラスに分類されるそうだ.こういった構造はキャメルバックトラスと呼ばれ,国内での類例は非常に少ないとされる 4.宮川橋とは異なるこの形式が採用された理由が気になるところだ.

 

さて,横からも本橋を眺めたいのだが,北詰・南詰ともに視点場が乏しい.そこで,いったん車に戻って熊野川の対岸に「仙水橋」で渡り,そこから本橋を眺めた.

橋の真下の急斜面に驚いた.これは川と言うよりもまさに「谷」である.道床や背後の砂防ダムは真新しいが,おそらく平成23年の大水害の後に修復されたものであろう.

机上調査編

今回取り上げた宮川橋と八郎橋は,親柱に刻まれた情報が橋名と河川名のみで,また銘板等も見つからなかったため,現地で竣工時期は明らかにならなかった.しかし,困ったときの土木学会「橋梁史年表」5 である.検索すると見事にヒットして,いずれも昭和30年 (1955年) 竣工だそうだ.

 

大塔村史」6 によると,八郎橋は昭和28年 (1953年) 7月18日頃,紀伊半島を襲った集中豪雨で流出し,その2年後に架替えられた.紀州大水害や南近畿水害とも呼ばれるこの災害による被害は極めて大きく,村内だけでも

死者三名(阪本)負傷四名【…中略…】国県村道決潰二百カ所、橋梁流出二九【…中略…】山林崩潰三百カ所、農地潰滅及地表流出十町歩

と伝えられる.「村史」6 は宮川橋については言及していないが,架設されたのが八郎橋と同時期であることから,こちらも流出した29橋のうちのひとつと考えられる.

 

そもそも現在旧道となっている国道168号の道筋にも水害が関わっている.十津川大水害として知られる明治22年 (1889年) の暴風雨は,当時川床近くに立ち並んでいた人家,役場,郵便局などのほとんどを埋没・流出させた 6.その教訓から,集落は10メートル以上高所に復旧され,(旧) 国道168号も嵩上げされたと伝えられる 6

おわりに

五條市大塔町 (旧大塔村) 辻堂,(旧) 国道168号上の宮川橋と八郎橋を訪ねた.水害との闘いの結果生まれた両橋は,まもなく現役70年を迎える.記憶に新しい平成23年台風第12号による紀伊半島大水害では,集落内でも大規模な土石流が発生し,現場一帯の国道168号 (当時は現道) は不通となったが,宮川橋と八郎橋は無事だった.戦後,高度成長期の始まる昭和30年頃の,国内の技術力を示す土木遺産と言えるだろう.

参考文献

  1. 株式会社ピーエス三菱 (2018) "工事概要|堂平大橋工事|株式会社ピーエス三菱" 2021年10月7日閲覧.
  2. 奈良県土木部道路管理課 (2010) "奈良県橋梁長寿命化修繕計画 計画対象橋梁一覧" 2021年10月4日閲覧.
  3. 奈良県県土マネジメント部道路建設課 (2018) "一般国道168号 五條新宮道路(地域高規格道路)辻堂バイパスの全線開通" 2021年10月7日閲覧.
  4. 奈良県教育委員会・編 (2014) "奈良県の近代化遺産:奈良県近代化遺産総合調査報告書" p. 143,奈良県教育委員会
  5. 土木学会附属土木図書館・編 (2008) "橋梁史年表" 2021年10月7日閲覧 *1
  6. 大塔村編集委員会・編 (1959) "大塔村史" pp. 46-55,大塔村

*1:藤井郁夫(1992) "橋梁史年表 BC-1955" 海洋架橋調査会,および,藤井郁夫 (2000) "橋梁史年表&世界の長大橋(CD-ROM版)" を元に藤井郁夫氏による改訂が加えられた平成20年1月版のデータを利用して作られたデータベース.