交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

大和郡山市の百寿橋 (2021. 8. 28. / 2022. 3. 6.)

城下町・大和郡山の堀跡に架かる装飾的なRC橋を訪ねた.

目次

第一次探訪 (2021. 8. 28.)

この日私は,午前中から資料調査のために国立国会図書館関西館に籠もった後,日没までの時間を利用して奈良県大和郡山市の百寿橋を訪ねることにした.大和郡山市は柳沢氏の城下町で,市役所は旧生駒郡役場の時代から旧城の中堀沿いに建っている.百寿橋はその中堀を跨いで市役所に通じる橋である.橋自体の調査は専門の方々によって既になされている 1 ので,ここでは写真を中心に現状を簡潔にレポートするに留めておく.

 

近鉄郡山駅前の三の丸駐車場に車を停め,徒歩で現地に向かった.まずは西側から.

百寿橋,昭和11年 (1936年) 竣工,土木学会選奨土木遺産 2

 

近景.

下部工から高欄まで一切がRC造りの重厚かつ装飾的な橋である.桁は僅かに弧を描いているのでアーチ橋であるとされるが,アーチの支持力を期待したというよりも美観的理由が大きかったものと思われる.

 

橋の南詰には解説板と選奨土木遺産のプレート.

ちなみに選奨年度は2016年で,選奨理由は

地元住民の寄付を受け、郡山城中堀に架けられたRC橋で、特徴的な高欄等をもち、域内道路として活用されている貴重な土木遺産である。

とされる 2

 

解説板の本文後半にある親柱がこれだ.

柱頭の装飾が,市民の手で復元されたものである.素晴らしい仕事だと思う.題額には「百壽橋」と刻まれているが,東側と西側で書体が異なっている.

 

また,親柱それぞれの路外側には,寄付者や工事関係者の名が刻まれていた.

順に南東,北西,北東の親柱.南西の親柱にも文字があったように思うのだが,なぜか撮っていなかった.

 

橋上.

幅員は4m.道路構造令で規定された1車線の幅員が3.5mだからさすがに狭いが,市役所だけに通じる橋で,東側に迂回路もあるからなんとかなっているのだろう.バリケードが置かれているのは閉庁日ゆえである.

 

高欄.

RCという材料の自由度を喜ぶかのように装飾に富んでいる.開口部にはめ込まれた鋳鉄のグリルは市章である.

 

ただ,経年ゆえの傷みは隠しきれない.

随所でコンクリートが剥がれて鉄筋が露出している.水に浸かっている部分はもっと劣化しているのではないか.美観的にもよろしくないので補修が望ましい.

 

渡って対岸からの振返り.

役所側の親柱は題額を有していない.2つの集落を結ぶような一般的な橋ではなく,あくまでも役所を訪れる人を迎えるための橋であるという特異性ゆえか.

 

東側から.

逆光でパッとしない写真になってしまったが,こちらも管路が添加されたりすることなく,古色蒼然たる当初の外観を維持している.

 

本橋の東には中堀に流れ込む水路があり,そこにも小さな橋が架かっていた.

大手橋.いかにも城跡の橋らしい名称だ.対岸の親柱に刻まれていたのも橋名で,現地では竣工時期が明らかにならなかったが,道路管理者である市の資料 3 によると昭和12年 (1937年) 竣工.こちらも戦前生まれである.ただ,高欄は百寿橋とは違って和風の意匠となっている.

 

最後に,橋の西側で中堀をせき止める,郡山城の柳御門跡の石垣から全景を眺める.

完成から85年.当初の雰囲気をよく保つ土木遺産だった.

 

この日の活動は以上.帰る前に,近鉄郡山駅前の「コロッケのはやし」に寄り道した.

実は私は,かつて大和郡山市内の学校に通っていたことがある.このチキンカツは,学校帰りによく買い食いした所謂思い出の味なのだ.卒業からウン年経つが,味は記憶と変わっておらず,懐かしい気持ちに包まれた.

第二次探訪 (2022. 3. 6.)

現地の解説板には,親柱の装飾について

夜間にはLED照明が自動点灯し、往時の風景をかもし出します。

と記されていた.それを見たいと思って再訪した.2022年3月6日,19時半ごろのことである.

 

果たして期待通り,装飾内部の照明は光を放っていた.

まさに常夜灯である.

 

正面からの景.

順に南からと北から.日曜日の夜,当然市役所は休みである.にもかかわらずその入口を照らすというのは,「お役所」らしからぬ粋な仕事だと思う.

 

ついでに,前回撮り忘れた南西の親柱の側面も記録しておいた.

やはりここにも文字が刻んであった.4基の親柱全てに題額とは別の情報が記されているのも珍しい.

 

再訪によって予想外の「変化」も見つかった.中堀と歩道との間は,前回訪問時点では植え込みで隔てられてた (この写真の右のように) のだが,再訪時点ではそれが刈られて代わりに金属の柵が設けられていた.

ちょっと風情がないような.しかも,橋の南詰で番人のように佇んでいた松の木も,跡形もなく失われている.もっときちんと記録しておけばよかった.

 

さらに,橋の袂にあったはずの解説板 (この写真) と選奨土木遺産のプレート (この写真) が撤去されていた.

さすがにこれは一時的な措置と思いたい.カラーコーンは選奨土木遺産のプレートを戻す位置か…?

 

現地には「歩道改良工事」が進行中であるとの看板が立っていた.

ここまでで述べた「変化」は,この工事の影響とみられる.工期は今月15日までとなっているが,果たして完工後はどのような姿になっているのか…?

参考文献

  1. 川原賢史,岡田昌彰,服部伊久男 (2005) "大和郡山・百寿橋の系譜と現況に関する研究" 第3回日本都市計画学会関西支部研究発表会講演概要集,日本都市計画学会,2022年3月2日閲覧.
  2. 土木学会選奨土木遺産選考委員会 (2016) "百寿橋 | 土木学会 選奨土木遺産" 2022年3月2日閲覧.
  3. 大和郡山市都市建設部管理課 (2020) "大和郡山市 橋梁長寿命化修繕計画" 2022年3月2日閲覧.