奥羽本線で最初に開通した青森・弘前間の旧線跡に残る,2つの煉瓦アーチ渠.
はじめに
福島県の福島から山形,湯沢,秋田,大館,弘前を経て青森に至る奥羽本線のうち,青森側の端にあたる青森・弘前間は明治27年 (1894),同線で最初に開通した.この区間のうち,青森・浪岡間の大釈迦峠には延長274mの大釈迦トンネルが造られた.この隧道は昭和38年 (1963),勾配を緩和した新線の開通によって廃止された.
今回訪ねたのは,隧道と同時に廃止された弘前側の旧線の跡に残る暗渠,大釈迦川橋梁と中坪堰橋梁である.2つとも明治27年 (1894) 開通当初のものと思われる煉瓦拱渠で,無用の存在となった現在でも比較的良好な状態で保存されている.
2023年12月10日,初代大釈迦トンネルの後に現地を訪ねた.
大釈迦川橋梁
大釈迦峠の弘前方で左折して旧道 (国道101号) に入る.約1km進むとさらに旧道分岐があるので右に折れ,もう一度右折すると畑の中を行く道となる.すぐに大釈迦川を昭和58年 (1983) 竣工の「向田二号橋」で渡る.旧奥羽本線の大釈迦川橋梁はその上流側にある.
場所: [40.76476, 140.59048] (世界測地系).
少し先の道幅が広くなったところに駐車する.農地の真ん中だが,12月の夕方とあっては人っ子一人いない.
向田二号橋から上流側を見る.見にくい写真だが,枯草の向こうに煉瓦アーチがある.
接近.大釈迦川橋梁,明治27年 (1894) 開通.装飾は頂部の笠石風の飾りのみで,最低限という印象だ.
巻厚は6層.壁面の組積は標準的なイギリス積み.
長靴で問題ない水位だったので川に降りてみた.
正対.
内部の景.美しい煉瓦アーチを留めている.
途中で水深が深くなっていたのか水流が強かったのか忘れたが,いったん引き返して陸に上がり,築堤を回り込んで反対側へ.
こちらも,色褪せてはいるものの当初の姿をよく留めている.
中坪堰橋梁
大釈迦川橋梁の弘前側20mほどの場所にもうひとつ小さな煉瓦アーチが残っている.大釈迦川から取水して農地に排水するものと思われる水路を跨ぐものである.
中坪堰橋梁,明治27年 (1894) 開通,近代土木遺産Bランク 1.赤煉瓦と黒い焼過煉瓦を巧みに配したポリクロミーがまことに美しい.「日本の近代土木遺産」1 では,
ポータル,アーチ環の外側リングに焼過煉瓦を用いた模様(最も美しいポリクロミーの例)
と評されている.
アーチは2層巻き.内側は焼過煉瓦,外側は赤煉瓦と焼過煉瓦を交互に並べている.壁面はイギリス積みで,長手の段が赤煉瓦,小口の段が焼過煉瓦.笠石も焼過煉瓦である.
内部も綺麗な状態.
築堤を回り込んで反対側へ.
上半分がコンクリートで補修されている.先ほど見た南側と同じ姿を期待していたのだが残念だ.
しかしそれでも,残っている煉瓦積みは美しいポリクロミーを保っている.もっとも,何故か2層のアーチは南側のようにくっきりと色分けされていないが.
おわりに
明治27年 (1884) に開通し,昭和38年 (1963) に廃止された奥羽本線大釈迦・鶴ヶ坂間の旧線に残る,2つの煉瓦暗渠を訪ねた.両者とも明治期の技術を今に伝える貴重な存在で,特に中坪堰橋梁は小規模ながら美観にも優れていた.現在築堤は無用の存在となり,両橋梁ともほとんど放置されていると思われるが,重要な土木遺産としての保存・活用が望まれる.大釈迦トンネルと違って訪問に危険が伴うわけでもないので,廃線跡ウォークの道として整備できないかと思う.
なお,この日の探索はこれで終了したが,少し驚くことがあった.農道をそのまま真っ直ぐ辿って,現奥羽本線のトンネル坑口の真上に架かる仮設橋みたいなポニートラスを渡り,国道7号バイパスのガードを潜ろうとすると,こんなことになっていた.
こんな封鎖の仕方ってある…?ここまでに「この先通行止め」のような看板も何もなかったので面食らった.
幸い跨線橋の脇が丁字路になっていたのでそこで向きを変え,来た道を戻って国道101号に出ることができた.