交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

田辺市・みなべ町の小野坂隧道 (2021. 8. 10.)

芳養川流域と南部川流域を結ぶ,現役県道上の古隧道を訪ねた.

目次

現地探索

泉養寺橋と堂前橋を後にして北に進む.中芳養トンネルを抜けた先は (旧) 中芳養村の小野地区で,次に目指すのは当地と西方の南部 (みなべ) を結ぶ県道200号中芳養南部線上にある隧道だ.

 

県道200号に入って集落を抜けると峠道が始まる.

線形は直線的でいかにも古い峠道だが,勾配は存外緩やかなので,車道化に際して多少なりとも切り下げられたものと思われる.最後の民家を過ぎてからおよそ300m,呆気なく目指す隧道に到達した.

 

正対.

見ての通り改修されている.笠石らしきもの以外は特段の意匠もない.現役で供用し続ける以上改修は仕方がないとしても,もう少し何とかならなかったのかと思ってしまう.

 

しかしそれ以上に大きな違和感を覚えたのは,坑口右に掲げられたプレートである.

「小野坂道」.「道」が一般的な表記で,「道」も時折見かけるが,墜落 (→落盤) を想起させるのであまり用いられないと聞く.しかし「道」は見たことがない.自治体の台帳を基にした「全国トンネルマップ」でも「小野坂道」の表記となっているし,おそらく誤植であろう.間違いは仕方がないとしても,それを隧道の「顔」たる坑門に恒久的に掲げておくのはちょっとどうかと思う.

 

ともかく,内部.

かつては美しいコンクリートブロック (Cブロック) アーチだったそうだが,改修によってひどくつまらない内装になってしまった.しかしそれも現役で供用し続けるためには仕方のないことだったのだろう.

 

ここまでの写真は坑口手前に車を停めて撮影した.一応離合のために道幅が広くなっている場所ではあったのだが,私の車を避けようとした大型車と隧道から出てきた車が鉢合わせし,離合に苦労する場面があった.考えてみればここは旧道ではなく現役県道だ.しかも平日夕方で,交通量は決して少なくない.田舎道だからと高を括っていたのがいけなかった.なんとか離合してこちらにやってきた車の運転手に一言謝ってから私も車に戻り,さっさと通り抜けた.

 

隧道西口 (南部側) に抜けて50mほどのところで一気に道幅が広がっていたので,そこに車を停めた.ここなら私が駐車しても四輪車同士の離合は可能である.最初からここに駐車しておけばよかった.

 

ともかく,南部側に正対.

小野坂隧道,昭和11年 (1926年) 竣工,近代土木遺産Bランク 1.Cブロック積みの格調高い坑門意匠がよく保存されている.

 

扁額には,

風化が進んでいるが,右書きで「天門開通」.天への門を開く通 (道).隧道によって開通した車道に対する期待の大きさが顕れている.その左にもスペースがあり,竣工年月か揮毫者の署名が入っていると思われるが,文字は読み取れず.

 

そして意匠として特徴的なのはピラスターだ.

帯石より上だけに「新古典主義風」とされる装飾.この意匠は和歌山市毛見隧道に共通するが,それ以外の類例は知られていない.通常のピラスター (柱) を配するほどの幅がない坑門において,格調高さを演出する秀逸な工夫である.

 

内部は坑口に至るまで改修し尽くされており,見どころはなさそうだった.しかも交通量がそれなりに多い割に幅員は4m (1車線強) しかない.とても徒歩で入る気にはなれなかった.そういうわけで探索はここまでとし,次の目的地に向かった.

机上調査・考察

本隧道の歴史については,「南部川村戦後五十年史」2 に簡潔にまとめられている.それ以上の情報は今のところ得られていないので,本稿では同書を引用して解説に代えさせていただくこととする.

上芳養と南部地方は明治時代より交易が盛んで、上芳養で製炭された備長炭もこの隧道のあるルートを通り、南部町へ出荷されていた。峠の工事にあたっては、掘り下げという案もあったが山の頂上を晩稲(黒栖)よりの道路が縦断していたので、隧道工事となった。また、工事は朝鮮人労働者が従事し、落盤事故により一名が死亡したという。

文中にある晩稲 (「おしね」と読む) は隧道から見て南西方向のみなべ町の字である.地理院地図を見てみると,確かに隧道の真上を晩稲からの黒線 (軽車道) が通過している.

また,晩稲からの道は隧道の北東で,東西方向の道と交わっている.「東西」の道は隧道経由の県道とほぼ平行に田辺市中芳養の小野地区とみなべ町の冷谷地区を結んでいるので,隧道に取って代わられた旧道と思われる.いずれも部分的には農道として使われていそうな雰囲気だが,今でも通行可能かどうかは不明.

 

小野坂隧道の設計や工事の概要は「本邦道路隧道輯覧」3 に掲載されている.それによると,起工は昭和9年 (1934年) 3月2日,竣工は同11年7月10日.実に2年4ヶ月の工期を要したことになる.そのうち323日 (約11カ月) が掘削,186日 (約半年) がCブロックによる巻立てにそれぞれ費やされている.また,地質の欄には泥板岩と記されている.泥板岩は頁岩とも呼ばれる崩れやすい岩質で,岡阪隧道の工事も同様の地質に苦しめられていた.小野坂隧道では,先に引用したように工事中の落盤事故で一名が命を落としたことが記録されているが,その一因は地質の悪さにあったに違いない.

 

完成した隧道は府縣道上芳養南部線の一部となった 3.戦後も路線変更 (県道秋津川南部線→中芳養南部線) を経て引き続き現役県道として働き続けている.ただし経年なりの老朽化は進んでようで,平成29年 (2017年) には内部アーチがPCL (プレキャストコンクリートライニング) 工法で改修され 4,当初のCブロックアーチは隠されてしまった.また,中芳養側の坑門はそれより前の時点で改修されていたようだ.その結果,現状としては南部側の坑門のみ,当初の格調高い意匠を維持している.廃止されたり拡幅されたりするより良いが,できればこれ以上の改築は遠慮願いたいところだ.それから「遂道」は直しておいてほしいと思う.

参考文献

  1. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) "日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 190-191,土木学会.
  2. 南部川村戦後五十年史編さん委員会・編 (2001) "南部川村戦後五十年史" 上巻,pp. 1104-1105,南部川村
  3. 内務省土木試験所 (1941) "本邦道路隧道輯覧" p. 85,内務省土木試験所,2022年2月27日閲覧 (土木学会附属土木図書館によるアーカイブ).
  4. PCL協会 (2017?) "小野坂トンネル - PCL工法施工実績" 2022年2月27日閲覧.