交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

(旧) 国道168号の交通遺産【5/6】(旧) 芝崎橋と (旧) 瀧谷橋 (2021. 7. 22.)

小代下トンネル旧道の続きとなる旧道上の,2本の廃橋をレポートする.

目次

はじめに

猿谷貯水池を横目に南進する国道168号 (西熊野街道).小代下トンネルの南口で,現道と前回レポートした旧道が交差する.

正面が昭和52年 (1977年) 製の現道「小代下トンネル」.写っていないが,旧道は昭和31年 (1956年) 製の「小代下1号・2号・3号トンネル」を抜けて左 (西) からやって来る.

 

ここから南に振り返ると,

現道上に2本の橋が架かっている.貯水池に流れ込む沢を跨ぐもので,手前のワーレントラスが芝崎橋,奥のランガーが瀧谷橋という.本編では個別に紹介するが,両者とも現道の「小代下トンネル」と同じく,昭和50年台初頭に造られた橋である.

 

では,「小代下1号・2号・3号トンネル」からやってきた旧道は,これらの沢をどうやって越えていたのか.もうおわかりのように,旧道にも橋が架かっていた.以下本編では,それら旧橋を含む旧道の現状をレポートする.その後,前回レポートした小代下トンネル旧道も含む机上調査の結果を報告する.

探索記録

(現) 芝崎橋

まずは手前 (北側) の橋から見て行こう.現道はワーレントラス橋.

順に北詰,南詰から撮影した写真.部材はボルト接合で,接合部も少ない.一目で新しいとわかる橋だ.

 

親柱には,

「芝崎橋」.残り3基は「しばさきはし」「芝崎谷」「しばさきたに」で,親柱から竣工時期は明らかにならなかったのだが,北西側の斜材に銘板が貼り付けてあった *1

昭和51年 (1976年) 10月製,小代下トンネルと同時期だ.

(旧) 芝崎橋

さて,ここからが本題だ.現道の芝崎橋の途中で東を向くと,

ボロボロに朽ち果てた旧橋が,辛うじてその姿を留めていた.

 

旧橋へのアプローチには南側を利用した.

どうも建設会社の私有地になっているようで,バリケードが組まれている.脇も甘くはない.それに背後ではひっきりなしに車が通過している.

 

例によって詳細は書けないが,いつの間にか私は旧橋の上に立っていた.

舗装はボロボロ,高欄も半ば失われており,もはや国道としての威厳はまったくない.

 

現道からは丸見えだから素早く探索しなければならない.まずは親柱チェックだ.手前左側,つまり南西側の親柱は完全な形で残っていた.そして,そこに刻まれていたのは,

「昭和三十年十月竣功」!!このズタズタの廃橋で,よくぞ文字情報,それも最も重要な竣工時期が残っていたものだ.

 

本橋の竣工は昭和30年.昭和31年竣工の小代下1号・2号・3号トンネルと同時期である.また,昭和32年には猿谷ダムが完成している.一連の旧道はダム建設に伴う付替え道路だったのだ.

 

南東側は,

「失われているか」と落胆しそうになったが,よく見ると…

下半分が残っていた!!「きはし」ということは「しばさきはし」に違いない.現役橋と同じ名称だったのだ.

 

対岸に渡って北東側の親柱.

「芝崎谷」.残り1基は「芝崎橋」だったはずだが,失われていた.

 

上流側.

ここから先は斜面となっている.可能な限り上流側に橋を架けることで,橋長を短くしたのだと考えられる.

 

目線を下げると,

高欄のコンクリートはほとんど失われ,残った鉄筋が無残に曲がっている.豪雨で増水した川に呑まれたのだろう.

 

下流側.

ボロボロになった廃橋と,絶えず車の通過する現役橋が並んでいる.高欄の意匠はアーチ型の窓に鉄格子をはめたものだったようだ.

 

それにしても,RCの短い桁橋である旧橋に比べ,トラス橋の現橋のスケールは段違いに大きい.単に沢を跨ぐだけならば短い桁橋で充分だが,敢えて支間を広く取っているのは,防災面を考慮したものと思われる.平常時は歩いてでも越えられる川幅だが,大雨が降ると暴れ川になることは,破壊された旧橋の高欄が物語っている.紀伊半島は昔から度々豪雨災害に見舞われており,特に平成23年 (2011年) の台風などは記憶に新しい.

 

満身創痍の (旧) 芝崎橋.5年後には上部工は残っていないかもしれない.現状をしっかり目に焼き付けてから,現道の車から怪しまれない内に素早く撤収した.

(現) 瀧谷橋

芝崎橋の南でいったん旧道と現道が合流する.ただし完全には重なっていないようで,旧道に由来する路盤が広い路肩となっている.今回の探索ではそこを駐車スペースとして利用させていただいている.

 

200mほど先に架かるのが瀧谷橋だ.

(現) 芝崎橋と同じ色に塗られた下路アーチ橋.こちらもボルト接合だ.

 

親柱.

「瀧谷橋」.他3基は「たきたにはし」「瀧谷」「たきたに」だった.

 

県の橋梁長寿命化修繕計画 1 によると,竣工は昭和52年 (1977年) だそうだ.予想通り,小代下トンネルや (現) 芝崎橋と同じ時期である.

(旧) 瀧谷橋

芝崎橋と同様,(現) 瀧谷橋から東側を望むと,

立派な旧橋の姿が見える.実は今回の探索の最大のきっかけは,ストリートビューで見たこの姿に魅了されたことだった.

 

旧道分岐は (現) 瀧谷橋の北詰・南詰それぞれにあるが,南詰には食事処が建っており,以下のような現状だった.

探索日は営業していなかった.営業していれば食事のついでに旧道に関する話が聞けるかと思ったのだが.しかし無人とはいえ,ここから立ち入るのはちょっと憚られたので,北側に回った.

 

(現) 瀧谷橋の北詰にはお地蔵様.

手を合わせてから,左を向くと,

チェーンで封鎖された旧道があった.

 

ここでも私が何をしたか定かではないのだが,気が付いた時には旧道上を歩いていた.

おそらく私有地となっているのだろう.コンクリートブロックやコルゲートパイプなど色々なものが置かれていた.

 

少し進むと,

路面が瓦礫に埋め尽くされてしまった.倒木も放置されている.ここから先は資材置き場としても使われていないようだ.

 

カーブを曲がれば,橋はもうすぐそこだ.

振り返ると,

錆びたガードレールが良い仕事をしている,素晴らしい廃道風景.

 

そして,ついに

私にとっての「憧れの旧橋」に到達した.路面は荒れているものの,広い幅員は貫禄たっぷりだ.

 

手前右側の親柱には,

橋名を刻んだ銘板が残っていた!「瀧谷橋」,こちらも現役橋と同じ名称だった.

 

そして,対岸の向かって右側の親柱には,

「昭和三十年十月竣功」!! (旧) 芝崎橋から続く幸運に,私は思わずガッツポーズをした.やはり小代下1号・2号・3号トンネルや (旧) 芝崎橋と同じ世代だったのだ.

 

残り2基の親柱は土砂や藪に埋もれていた.掘り返せば出てきたかもしれないが,スコップなど持ってきていないし,既に情報は十分得られていたので見送った.おそらく「たきたにはし」「瀧谷」と刻まれていたのだろう.

 

下流側を向いて.

高欄は縦長のアーチ窓を連ねたもの.昭和初期,特に戦前に流行した意匠だが,昭和30年台までは類例を知っている.その高欄には大きな損傷は見られない.(旧) 芝崎橋と違って桁下高が大きいため,水没することはないのだろう.

 

上流側左岸から.

この古色が愛おしい.構造としては単径間のRC桁橋.支間の中央に,H鋼を組み合わせた井桁橋脚のような補強が入っている.構造はまちまちだが,H鋼による補強は同じ五條市 (旧) 下田橋立川渡橋,大滝橋永谷の旧道橋でも見られた.同時期の施工だろうか.

 

上の写真を撮った場所から上流側を向くと,

小さな御社があった.現役時代からあるのだろうか.この手前は刈払いされていた一方で,これより奥は崩れるままとなっており,道があったのかどうかすら判然としない.現役橋の袂にもお地蔵様が立っていたが,瀧谷と呼ばれているこの沢自体に何か謂れがあるのかもしれない.

 

なお,右岸は上流側に道が続いており,急斜面にぶつかる手前まで進むことができた.

本筋ではないので詳細は割愛するが,チェーンソーのオイル (スチールチェンオイル) の容器や,林道などにありがちな古びた「山火注意」の看板が落ちていたことから,林業関係者の作業道 (の跡) と思われる.ただ,行き止まり直前の川床に,気になるものがあった.

写真右奥の苔生した大きな岩盤.まるでコンクリートブロックのように直線的な形状で,人工的に見えなくもないが,単に地すべりで落ちてきたものにも見える.正体は私にはわからない.

 

旧道の続きもレポートしておく.橋を左岸側に抜けるとドラム缶,コルゲートパイプ,ビールケース,車のホイール,物干し竿,などなど生活感のある雑多なものが置かれていた.以下は渡り切ったところで先を望んだ一枚.

ネットの向こうは現道に面した食堂だ.見たところ無人だが,ネットを潜るのはやめておいた.無人の食堂の裏からコソコソと出て行くのを見られたら,空き巣などに間違えられかねない.連休初日の探索日,現道の交通量は多いのだ.

 

来た道を引き返し,旧道分岐のところのお地蔵様にもう一度手を合わせてから車に戻った.

机上調査

猿谷貯水池に水没することとなった国道168号の付替え工事については「猿谷ダム工事誌」2 が詳しく触れている.

 

同書のp. 147には,工事全体の概要として,

国道168号線の付替は工事着手に先だち従来通り十津川左岸を通すか若くは新に右岸を通すか比較検討されたが当地区最大の水没部落である阪本の移転先が左岸以外にないので之との関係から左岸案を採用することゝなり原因者負担工事として施工した

従来の国道は有効幅員3.6mであつたがダム下流の減水による流筏の陸送転換に対する補償の意味で有効幅員4.5mの道路を付替新設することゝし更に之を有効幅員5.0mにする国道改良工事として奈良県が国道改良費54,000,000円の配付を受け之が施工の委託を受けて上記の原因者負担工事と同時施工した。之が延長約5kmであるがその他ダムサイトより下流の取付道路約1.5kmと併せて延長6.5kmである。

とある.付替えによって有効幅員が3.6mから5.0mになった,と聞くととずいぶん改良されたと感心しそうになるが,そもそも現在の「道路構造令」で定められた1車線の幅員は3.5mである.有効幅員5.0mでも1.5車線ほどで,元々の3.6mが国道としては狭すぎたのだ.さらに,同書のp. 149には次のようなことも書かれている.

当地区は山の褶曲が多く工費にも自ら制限があるので曲線部が多くなり最小半径も15m緩和曲線,曲線部の拡幅等については考慮しなかつた。

厳しい予算の中でやりくりせねばならなかった苦労が窺える.猿谷ダムが建設された昭和20年代後半というと,朝鮮戦争による好景気で戦後混乱期から脱出し,高度成長期も始まった頃である.それにしてはずいぶんケチ臭いように聞こえるが,難航した地域住民への補償交渉が影響したものと思われる.

 

さて,小代下1号・2号・3号トンネルの工事について,「工事誌」2 p. 153は

小代下トンネルは延長各26.5m,24m,30.5mのトンネルで後2者は接近して存在する。地質は堅硬なる岩盤で支保工も肌落防止程度の簡単な合掌式支保工で切進み覆工も30cm程度のコンクリート巻立を行つた。

としている.同じ付替え道路上に造られた猿谷隧道や阪本隧道が軟弱な地質で難渋したのに対し,小代下の各トンネルはスムーズに工事が進んだらしい.とはいえ,その堅硬なる岩盤が (トンネル内ではないとはいえ) 大崩壊を起こしているのもまた事実.

 

一方橋梁に関しては,「工事誌」2 は唯一のトラス橋である大塔橋については紙面を割いているものの,それ以外はp. 152に次の記述を残すのみとなっている.

其他の各種橋梁は各々渓流を横断して架設されたものですべて鉄筋コンクリート構造であってその概要を表示すれば次の通りである。

表中に芝崎橋の項目が見当たらないが,比較的規模の大きな橋だけを示しているのだろう.注目したいのは,今回訪ねた (旧) 瀧谷橋 (表中では滝谷橋) が,橋長・幅員・工費・コンクリート量のすべてにおいて最大となっていることだ.

 

私は現地で,(旧) 瀧谷橋の上流側に続いていた林業用の作業道?を辿った.少し上流側に歩くだけで川幅は狭まり,(旧) 芝崎橋の下と同様の小さな沢となった.そこまで迂回すればもっと安上がりに架橋できたはずだが,谷が広く深い河口付近が選ばれたのは,線形の良さと架橋コストのバランスを考慮した結果だろうか.目と鼻の先にある (旧) 芝崎橋と (旧) 瀧谷橋だが,設計の違いが興味深い.

 

この旧道は昭和50年代に小代下トンネル・(現) 芝崎橋・(現) 瀧谷橋に主役を譲ることになるが,そのあたりの経緯を詳しく述べた文献は見つけられなかった.ただ,旧道自体の改良が,それに先立って行われていたらしい.猿谷ダム竣工30年を機に発刊された「猿谷ダム管理の歩み」3 には「新聞記事で見るダム管理の歩み」という章があり,ダムに関連する新聞記事が多数収録されているのだが,そのp. 228には昭和49年 (1974年) 12月8日付け朝日新聞の「猿谷ダムで "変な工事" 土砂捨てたり拾ったり」という記事がある.要約すると,国道168号の改良工事で発生した土砂を,施工会社がルールに反してダム湖に捨てており,それを知った県が慌ててその土砂をショベルカーですくい上げている,この奇妙な工事に県議会の予算委員会も紛糾したという内容.そしてその工事について,

この道路工事は国道168号の改良。猿谷ダム付近はS字カーブが続くうえ、幅員が狭いため、今春から、大塔村小代下付近約六百㍍にわたって、山膚を削り、六ー七㍍に広げようというもの。

としている.しかし結局,その2年後には (現) 芝崎橋,3年後には小代下トンネルと (現) 瀧谷橋が竣工し,幅員を広げた道路は旧道となる.もったいないような気がしないでもない.拡幅と言っても,3本の隧道と2本の橋の幅員は広がらないわけで,離合困難な場面は依然として発生するはずだ.そのあたりが新道の建設理由だろうか.むしろ,旧道の拡幅には新道の工事用のスペース確保という目的もあったのかもしれない.

おわりに

猿谷ダムの建設に伴う国道168号の付替え道のうち,放棄された2本の橋を訪ねた.両者は近接して架かっているが,規模やロケーションが大きく異なっていた.保存状態も雲泥の差で,(旧) 瀧谷橋は数十年後も残っていそうだが,(旧) 芝崎橋は5年後が心配になるような惨状だった.

 

なお, 机上調査編の最初の引用では,猿谷ダム建設に伴う付替え道が「延長6.5km」となっていた.これは前回と今回でレポートした区間だけを指しているわけではなく,国道が最初に熊野川と交わる大塔橋から,堰堤よりも南の大塔村辻堂までが含まれている.そのため,付替え道路全体を見ると他にも橋や隧道がある.実は本記事公開の前日,私は第2次探索と銘打って,それら交通遺産群を訪ねている.いずれその成果もレポートするが,執筆時点で記事の下書きが100件以上溜まっており,いつになるかわからないのが正直なところだ.

参考文献

  1. 奈良県土木部道路管理課 (2010) "奈良県橋梁長寿命化修繕計画 計画対象橋梁一覧" 2021年10月4日閲覧.
  2. 猿谷ダム管理史編纂委員会・編 (1961) "猿谷ダム工事誌" 建設省近畿地方建設局十津川利水工事々務所.
  3. 猿谷ダム管理史編纂委員会・編 (1988) "猿谷ダム管理の歩み : 猿谷ダム30年史" 建設省近畿地方建設局猿谷ダム管理所.

*1:この写真だけ他の写真と明らかに空の色が異なっているが,実は当日は見落としてしまっており,後日第2次探索としてこの地を再訪した時に撮影した.