交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

伊勢参宮街道の宮川橋 (2021. 8. 30.)

三重県伊勢市伊勢参宮街道の最後の難所,宮川を渡る長大RCゲルバー橋を訪ねた.

 

宇治山田駅から三重交通バスに乗り込み,5つ目の「山田上口」で下車.少し北にある参宮線の同名の駅から線路に沿って歩く.この道筋は古の伊勢街道で,全国各地から伊勢神宮を目指した旅人が歩いた往還である.今は車道になっているが,自動車交通にはやや無理がある狭小な幅員が,旧街道らしさを醸し出している.

 

伊勢神宮から帰る旅人のように西に歩いてゆくと,1kmほどで一級河川宮川を渡る.ここに架かる宮川橋が本記事のレポート対象だ.すぐ隣に架かる参宮線の橋の方が有名だが,そちらは次回取り上げる.

 

まずは川辺から観察するため,橋の手前で北に折れる.そこにかつての「桜の渡し」の解説板が建てられていた.明治元年,初代の宮川橋によって取って代わられた渡船であり,解説板によるとその最初は「江戸時代のもっと昔」にまで遡るという.

▲「桜の渡し」の解説板.

少し進むと参宮線に行き当たる.川に下りるにはその手前で左に折れれば良い.この先は未舗装だが,釣り人や川遊びの車が頻繁に通るらしく,轍は明瞭で路面状況も悪くない.特に迷うことなく,右岸側の水際に到着したと記憶している.

▲右岸側から見たる宮川橋,昭和28年 (1953年) 竣工.はるか向こうの対岸までRC桁が連なる.水位の関係で橋脚の基礎がはっきり見えているのも格好いい.

上の写真は逆光なのでわかりにくいが,1スパンおきに2箇所ずつ,桁に継ぎ目が入っていることに気が付いた.私の大好きなRCゲルバー橋だ.

▲近景.左側のスパンには2箇所の継ぎ目があり,L字型に切り欠かれた吊桁が同じくL字型の受桁に載っている.

 

▲桁裏.主桁は2本.ヒンジ部の仰々しい補強具が,酷使されてきた歴史を示しているかのようで痛々しい.

上2枚の写真にも写っているように,補強具の添えられていない継ぎ目もあった.しかし,それもよく見ると受桁・吊桁を貫通するように金属棒が差し込まれていた.現状はほとんど連続桁に近いのかもしれない.

▲真下から見たるゲルバーヒンジ部.わかりにくいが,3本の金属棒で両方の桁が連結されている.

 

右岸側からの観察は以上.次は橋を渡って対岸へ行こう.「桜の渡し」の解説板のところまで引き返して旧街道に復帰し,橋に向き合った.

▲宮川橋東詰.

上の写真からわかるように,右岸側 (手前)から橋本体へは,やや不自然な形状のスロープで登っている.このあたりは両岸で堤防の高さが異なっており,橋の高さはより高い左岸堤防に合わせてあるからだ.聞くところによると,右岸側は伊勢神宮を守るために江戸期から治水工事が行われていたが,それによって左岸側の洪水被害が大きくなったという.左岸側の高い堤防は,その結果を踏まえて近代以降に嵩上げされたものであろう.

 

また,右岸側取り付けスロープの頂上では,相当急なカーブで橋に進入するようになっている.地図で見ても,その線形は強烈だ.

これは,橋を流路に対して斜めに架けることが嫌われたためと思われる.橋より東の道筋との兼ね合いで,どうしてもこのような曲線が必要だったのだろう.現代なら自動車が走りやすいようにもっと緩やかな線形になると思われるが,このあたりが昭和28年という,自動車がまださほど普及していなかった時代らしさなのかもしれない.

 

なお,この取り付けスロープは桁裏からも目視で確認したのだが,愚かなことに写真を撮り忘れてしまった.新しそうなI型桁で,この部分は後年の改築だな,と感じたことだけは覚えている.おそらく昭和28年の架設当初,この部分は木造の桁だった.というのも,「橋梁史年表」1 にある本橋の記事の形式欄に,

カンチレバープレートガーダー n=13 木桁橋 n=8

とあるからだ (「カンチレバープレートガーダー」は「RCカンチレバー桁橋」の誤りと思われる).後半の木桁8連というのが当初の取り付け部だったのだろう.

 

さて,渡橋しよう.橋上の幅員は「橋梁史年表」1 では5.5m,「全国橋梁マップ」では6.1mと若干異なっているが,いずれにしても普通車同士の離合が精一杯で,しかも交通量は多い.歩道などないから,橋の端を車に気を遣いながら歩くほかなかった.

▲橋上の景.高欄がガードレール化されてしまっているのは残念だ.手前に見えている継ぎ目がゲルバーヒンジ部.

▲橋上から北を望むと,隣に架かる参宮線の鉄橋がよく見える.

私が歩いている所為で車が離合に苦労するのを申し訳ない気持ちで見ながら,足早に渡り切る.左岸側には袖高欄と一体化した親柱が残されていた.上流側に「宮川橋」,下流側に「みやがわばし」「昭和二十八年九月架換」の銘板.

▲宮川橋西詰の親柱.順に上流側,下流側.

西詰は背の高い堤防の上に直結している.伊勢街道筋は右折 (北) で,ほどなく「桜の渡し」の左岸側跡地となる.一方左 (南) に折れると,熊野三山に詣でるための熊野街道に連絡する.当地が古くから交通の要衝であったことは想像に難くない.

 

堤防に立ち,渡ってきた宮川橋を振り返る.あの伊勢湾台風にも耐えた,堅牢なる永久橋の姿がそこにあった.

▲左岸から見たる宮川橋.

最後に,本橋の歴史を簡単に紹介しておく.「桜の渡し」に代わる初代・宮川橋が賭けられたのは明治元年 (1868年) のこと.この橋は長さ1,004尺 (≈304m),幅員12尺 (≈3.6m) の仮橋だったが,翌2年7月13日の洪水で早くも流出した.そのため,しばらくは渡船がふたたび街道往来の役割を担うこととなった.明治12年5月,ようやく仮橋が復旧され,15年12月にこれが架換えられたのち,17年頃には三重県の事業として架換えられている.21年4月以降は,

平常は假橋の保存修理に注意し、洪水の場合は板敷並に高欄向等を取外し、平水以上八尺に達したらば速に渡船を開き、平水に復したなら即時原形の如く架橋する

という「仮橋保存請負」によって橋が維持されてきたようだ.その後大正8年 (1919年) 3月,木橋として架換えられている 1, 2

戦前絵葉書に見る宮川橋.奥に参宮線の列車が写っているので,明治30年 (1897年) 以降の写真であることは間違いない.非常に立派な橋なので,30年近く現役で活躍した大正8年の橋かもしれない.

大正8年木橋は長く利用されたが,戦後の昭和21年 (1946年) 7月29日に流出したとの記録がある 1.この日,大型の台風 (Janie) が豊後水道から中国地方を縦断しており,その影響で出水が発生した可能性がある 3.その後,昭和28年9月に架けられたのが現在の宮川橋である.このとき初めて所謂永久橋となり,架設直後のテス台風,34年の伊勢湾台風,36年の第2室戸台風激甚災害に指定された平成16年 (2004年) 台風第21号など,数多の水害に耐えてきた.

 

そんな宮川橋も,遠からず現役を退くことが決まっている.詳細なスケジュールは定かではないが,令和3年 (2021年) 3月26日付「建通新聞」に,

伊勢市は、三重県が事業を進める宮川橋の架け替えに伴い市道高向小俣線の整備を計画している。工事着手時期は調整中で、宮川橋の設計が完了する2022年度8月以降となる。

という短い記事 4 が掲載されているのだ.無理もないとは思う.車両交通や歩行者の安全が確保されるなら,それに越したことはない.また,三重河川国道事務所の資料 5 によると,架換え後,現在の宮川橋は撤去される見込みである.残念だが,そうなる前に訪ねることができたのは良かったと思う.

参考文献

  1. 土木学会附属土木図書館・編 (2008) "橋梁史年表" 2022年4月13日閲覧.
  2. 宇治山田市・編 (1929) "宇治山田市史" 上巻,pp. 657-660,宇治山田市
  3. 四国クリエイト協会・編 (刊行年不明) "昭和21年の台風 | 四国災害アーカイブス" 2022年4月13日閲覧.
  4. 建通新聞社 (2021) "伊勢市 宮川橋架け替えで道路新設|建設ニュース" 2022年4月13日閲覧. 
  5. 国土交通省三重河川国道事務所 (2017) "第4回宮川右岸堤防改修景観検討委員会資料6" 2022年4月13日閲覧.