交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

伊賀市霧生の中西橋 (2021. 7. 11.)

伊賀市の橋シリーズ第4弾.農村集落の中に残る古橋をレポートする.

 

今回レポートする中西橋は相当マイナーな橋である.私の知る限り,執筆時点でWeb上に先人の訪問記録は存在しない.しかし良い橋であることは確かで,さらにおまけで述べるような思わぬ発見もあった.ちなみに,私が本橋を知るきっかけとなったのは,三重県教育委員会による「三重県の近代化遺産」に掲載の近代化遺産一覧 1 だった.やはり持つべきものは都道府県ごとの近代化遺産調査報告書である.

 

中西橋は,前回レポートした落合橋の上流約700mの地点に架かっている.橋の北詰に目をつけていた駐車スペースがあったのだが,そこには既に地元の方のものと思われる車が停まっていたので,南側の「霧生上出」バス停付近に駐車した.この日は日曜日で全便運休だったから,駐車違反にはあたらないはずだ.

 

さて,橋と対面する.

古色溢れる親柱と高欄.この時点で,私にとっての優良物件であることが確定した.

 

南側の親柱.

中西橋,なかにしはし.菱形を埋め込んだような装飾も良い.

 

「なかにしはし」の親柱の手前には,正体不明の石の柱が立っていた.

上下2箇所に何かを取り付けるような凹みがある.同じものを落合橋でも見たが,一種の地域性だろうか.

 

高欄.

昭和初期に典型的な,アーチ型の窓を連ねた意匠.

 

南詰からは側面を眺めるのは難しい.左は農地を囲う柵,右も木が迫っている.結局,右側の路肩斜面にへばり付くようにして撮ったのが次の一枚だ.

鋼の桁に見えるかもしれないが,後で別の写真を示すように,これは桁裏の補助材と思われる.

 

渡って,北側の親柱.

中西橋,昭和七年十■■■ (読み取れず).

 

下流側から.

こちらは日当たりが良すぎるために植物の繁茂が激しい.コンクリートの桁の裏に鋼材?で補強が入っているのは落合橋と同様だ.

おまけ: 道路開鑿記念碑と道標

私が車を停めた「霧生上出」バス停の隣には,興味深いものが保存されていた.まずはこれ.

巨大な石碑.オリジナルの画像 (画像をクリック) は大きいサイズのままアップロードしてあるので,全文はそちらをご参照頂ければと思うが,石碑に面した現在の三重県道29号 (主要地方道) 松阪青山線 *1 の開鑿を記念したもので,その経緯が刻まれている.

 

曰く,伊賀と伊勢を連絡する本道路は長年の宿望であったところ,農村振興事業の企画を契機として,県営林道・矢持境線として開通したという.矢持はこのあたりの旧地名だが,境がどこを指しているのか私にはわからない (どこにでもありそうな地名ではある).起工は昭和11年 (1936年) 1月,竣工は同年11月.官選の第30代三重県知事・富田愛次郎の時代である.碑文を著した人物については不明だが,

羊腸崎嶇ノ小徑ヲ坦々タル車道トナシ運輸交通ノ便ヲ開キ殖産興業ニ資セラレタルハ

の部分など,センスが光る.

 

その手前に建っていたのは,

道標.右は「やちわかみや」(矢持村内の神社?矢持は「やもち」と読むので疑問は残るが) だろうか?その下に「奥ヨリ六リ■下」(■は読み取れず) とも刻まれている.左は「しをない汀 (?) 松坂」と読める.松坂は伊勢国松阪市のことと思われる.いつ頃のものかはわからないが,背後に建つ昭和の開鑿記念碑よりは古いものであろう.

 

さらにその左には,別の石碑が建っていた.

上の金弐千圓也はわかるが,その下は解読が難しい.右側の最初の2文字は「林道」,左側の最初は「堀」か?左右2行に渡って文字が刻まれているということは,これも道標だろうか.また,側面にも文字が刻まれていた.

「明治五壬申六月十一日 荷屋清秀■■菩提」と読める.明治5年ということはおよそ140年も前のものである.その頃からこの霧生の地が交通の要衝であったことを示しているといえるだろう.

 

3本の石碑は,真夏にも関わらず植生に埋もれたりはしていなかった.草刈りなどのメンテナンスも含め,地域で大切に保存されていることが窺える.私にとっては交通の歴史を感じられる素晴らしい展示で,これらを見ることができたのはまさに僥倖だった.

参考文献

  1. 三重県教育委員会・編 (1996) "三重県の近代化遺産"  pp. 6-11,三重県教育委員会

*1:本記事の主題である中西橋とは異なる路線.