交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

(旧) 奥羽本線 唐牛トンネル (2024. 4. 6.)

青森県大鰐町奥羽本線で2番目に開業した区間に残る廃隧道.

 

歴史

福島市から山形,湯沢,秋田,大館,弘前を経て青森に至る奥羽本線の青森側は明治26年 (1893) に着工し,翌明治27年12月には大釈迦トンネルを含む青森・弘前間が開通した.次いで弘前から,青森・秋田県境の矢立峠の麓にある碇ヶ関までの工事が進められた 1明治27年 (1894) 7月である.この区間は基本的に津軽平野を走る平坦な路線であるが,ひとつだけ小高い丘を潜る隧道が建設されている.温泉地の大鰐から6kmほどの地点の唐牛トンネルである.

場所: [40.49924, 140.62028] (世界測地系).

 

工事について,明治27年度の逓信省年報 2 では

唐牛隧道工事ハ地質上部ハ玉石交リノ硬質土砂ニシテ間々大玉石ヲ混スルヲ以テ往々爆砕ヲ施シ湧水モ幸ニ少ナカレシニ依リ導坑掘鑿ハ一日一方平均九呎四吋ニ及ヒ下部ハ土炭質ナルヲ以テ七呎七吋ニ減シタリ

とあり,翌年度の年報 3 では

唐牛隧道ハ前年度報告後別ニ異狀ナク本年度ニ於テ竣工ヲ告ケタリ

とあり,明治28年 (1895) に無事竣工したことがわかる.なお,同年10月には弘前碇ヶ関間の工事が全て完了し開通している.

 

60年以上が経過した昭和46年 (1971),複線化に合わせて新トンネルが建設され,初代の唐牛トンネルは放棄された.

探訪

2024年4月6日,廃止から半世紀以上が経過した (旧) 唐牛トンネルを訪ねた.

 

自宅のある弘前から国道7号を南下し,大鰐町唐牛へ.集落を通り抜けて真っ直ぐ東に向かう道に入り,しばらくすると唐牛トンネルの真上を通り過ぎる.おそらくこの道や沿道の家屋があったために,切り通しではなくトンネルが掘られたのであろう.トンネル上を通過すると急勾配で丘を下り,東北自動車道の下を潜る.その先の杉渕橋を渡ったところに駐車した.

 

来た道を歩いて引き返す.丘を登ると,眼下に奥羽本線の複線の線路が見えた.

あの向こうに旧線跡があるはずだ.目の前に見える踏み跡を伝って,現役線の脇まで下りた.

 

現・唐牛トンネル.昭和46年 (1971) 竣工.

 

なお,今いるのは隧道の碇ヶ関側である.弘前側は隧道直前に平川が流れているので近付けない.

 

現役線の向こうの旧線跡.枯れ藪に覆いつくされている.夏場は大変なことになるだろう.しかし,写真ではわかりにくいが,既に目指す隧道が見えている.

 

かつて線路があった谷底には雪解け水が流れ,川のようになっていた.そこを踏まないように,藪をかき分けて進んだ.

 

よし着いた!

 

唐牛トンネル,明治28年 (1895) 竣工,昭和46年 (1971) 廃止.堂々たる冠木門タイプの坑門である.

 

ピラスターは手前に向かって傾斜した形.

 

端正な要石も残っている.煉瓦の巻き厚は4枚.

 

左のピラスターは崩壊が著しい.

 

煉瓦アーチもかなり崩れている.特に内側2枚分が酷い.

 

内部を覗く.足元は崩落した煉瓦がうず高く積み重なっている.しかしそれでも,奥の光ははっきりと見え,この隧道が未だ貫通していることがわかる.

 

コンクリートで補強していた跡も残る.

 

さて,内部へ.

煉瓦の山を越えて振返り.煉瓦の剥落のせいで断面がいびつだ.

 

正面を向く.坑口付近を過ぎると比較的穏やかな状況になった.

 

側壁はイギリス積み,アーチは長手積み.

 

煉瓦2枚巻の退避坑.状態は良い.

 

少しばかり状態が良い区間が続いたが,また悪化した.

コンクリート補修が,その下の煉瓦ごと剥落している.

 

手ブレが酷く申し訳ないが,アーチ部の煉瓦が一気に剥がれて積み上がっている箇所もあった.

 

再び退避坑.状態は良好.

 

少し進むと,また様相が変化した.

壁面が全面的にコンクリート補修されている.

 

退避坑もコンクリート製である.

 

ほどなくして,再び煉瓦積みが見える区間に入った.

弘前側坑口はすぐそこである.

 

碇ヶ関側の振返り.美しい煉瓦アーチを留める.

 

弘前側坑口直前.またもやコンクリート補修が,その下の煉瓦ごと崩壊している.

 

脱出.

唐牛トンネル,弘前側坑門.

 

碇ヶ関側坑門と同じ側の損傷が激しい.ピラスターはコンクリートで改築されている.現役当時から問題があったのだ.

 

左側のピラスターは健在.

 

左側には空積みのいかにも古そうな石垣.明治当初のものではなかろうか.

 

一方右側の石垣はもっと新しい時代のものに見える.

 

 

弘前側には大きな木が育っているが,この先に平川を渡る橋 (第三平川橋梁) の旧橋台が残っている.

 

慎重に崖を下り,橋台を下から眺めてみた.

(旧) 第三平川橋梁,碇ヶ関側橋台.立派な石積みの橋台である.

 

対岸を望むと,弘前側の橋台も見えた.後で行ってみようと思う.

 

そして川の中には3本のレール!これが線路として使われていたのか,橋脚の部材として使われていたのかはわからないが,鉄道由来であることは間違いなさそうだ.いったいいつ頃のものだろう?

 

右を見ると,現在線の第三平川橋梁.PC桁橋である.

 

特急列車が通過していった.

 

もう一度隧道を通って引き返した.

山越えの道からの景.架線柱が見えているところが現在線.旧線はそこから手前に分かれてきているが,藪に覆われている.

 

車に戻る.せっかくなので,第三平川橋梁の弘前側に行ってみる.唐牛集落の中を通る旧国道から,平川を富岡橋で渡る.

川沿いの細い道を進む.

 

約5分で第三平川橋梁の弘前側に着いた.

(旧) 第三平川橋梁,弘前側橋台.こちらも石積み.

 

対岸の碇ヶ関側橋台.先ほどまであそこに居た.

 

隧道もかすかに見える.

 

現在線の第三平川橋梁と唐牛トンネル.

 

旧線の築堤が弘前側橋台から続いていたので辿ってみた.

 

築堤の上は草ぼうぼうである.

 

石造りの伏樋が残っていた.良い発見だ.

 

現在線と合流.

 

探訪は以上.切り上げて車に戻った.

参考文献

  1. 逓信省鐵道作業局建設部 (1905) "奥羽鐵道建設概要" pp. 31-32,逓信省鐵道作業局建設部.
  2. 逓信大臣官房 (1896) "逓信省第九年報" p. 128,逓信大臣官房.
  3. 逓信大臣官房 (1897) "逓信省第十年報" p. 72,逓信大臣官房.