交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

(旧) 奥羽本線 大釈迦トンネル (2023. 12. 10.)

青森・弘前間の最難所,大釈迦峠.国道直下で誰からも見捨てられ,静かに崩壊を続ける鉄道トンネル.

 

はじめに

福島市から奥羽山脈を縦断し、山形市秋田市を経て青森市に至るJR奥羽本線の歴史は古く,特に青森側は明治27年 (1894) に青森・弘前間がそれぞれ最初に開通している.この区間津軽平野のど真ん中であるから基本的に平坦な地形であるが,旧新城村・浪岡町の境には津軽半島から山地が伸びている.標高100-130m程度の丘陵ではあるものの案外急峻で,山越えの道は古来より羽州街道最後の難所・大釈迦峠として知られていた.

 

奥羽北線開業にあたり,この地には延長274mの大釈迦トンネルが造られた.もちろん奥羽本線最初のトンネルである.以来半世紀以上に渡って利用され続けたが,昭和38年 (1963) に輸送改良のための新線が開通したため廃線となった.

 

今回はそんな初代・大釈迦トンネルの遺構を訪ねた.

場所: [40.775919063900325, 140.6009341540262] (世界測地系).

歴史

大釈迦峠前史

旧新城村と旧浪岡町 (いずれも現在は青森市の一部) を隔てる大釈迦峠.福島県から奥羽山脈を越え,山形・秋田・弘前を経て青森に向かう羽州街道の最後の難所として,古くから知られていた.峠道は江戸時代後期まで津軽坂と呼ばれていたが,いつからか鶴ヶ坂と呼ばれるようになったらしい 1

 

明治に入ると,大釈迦峠にも荷車・馬車を通す道が求められるようになり,明治天皇のご巡幸に間に合わせるよう「鶴ヶ坂新道」の工事が進められた.牧の沢と呼ばれる小川を煉瓦造りの拱渠で跨ぎ,その先に隧道を穿つ革新的な新道であった.しかしながら工事は難儀を極め,結局明治14年 (1881) のご巡幸には間に合わず,鶴ヶ坂集落の若者が車籠を押して旧道を上ったという.その後新道は,通行量を徴収する有料道路として開通したものの,わずか数年後の明治19年 (1886) に火災で崩落し (隧道内部には木の支保工が設けられていた),切り通しに改築された 1.これに幾度もの改良を加えたのが,現在の国道7号となっている.

絵に描かれた鶴ヶ坂新道の姿 1.中央右寄り下部にアーチ渠,左に矩形断面の隧道が見える.

 

現在の国道7号・大釈迦峠.ここに隧道や煉瓦アーチ渠があったとは,正直信じがたい.

奥羽本線 大釈迦トンネルの開通

明治25年 (1892),鉄道敷設法が公布され,福島と青森を内陸経由で結ぶ奥羽本線が国の手で建設されることが決まった 2.青森からの南下経路は大釈迦峠経由,王余魚沢 (現在の青森空港付近) 経由 3,英漢沢経由 (現在の東北道に近いルート?) 4 等が考えられた.さらに黒石を経由するかも含め,様々な利害関係者から運動がなされた.しかし結局,青森・弘前間を最短距離で結ぶという軍事上の要請もあり,大釈迦峠から浪岡に南下し,黒石ではなく常盤村 (藤崎町) を経由する直線的な経路が採用された 3.この結果,大釈迦峠を潜る大釈迦トンネルが建設された.

 

青森・弘前間の工事は明治26年 (1893) 7月に開始されたが,大釈迦トンネルの建設は容易ではなかった.地質は崩れやすい細砂で,しかも同年11月の豪雨,そして冬季の豪雪が作業を阻んだ 2.特に明治27年 (1894) 3月の落盤事故 5 は致命的であった.既に導坑が貫通し,順次拡幅と煉瓦による巻立てが進められていたところ,青森側坑口から約50mの地点で上部が崩壊し,土砂と地下水が坑内を埋め尽くしたのだ.幸い工夫はその場に居合わせず,人的被害は出なかったものの,工事は一時中断を余儀なくされた.

 

調査の結果,崩落部の上方に幅3.6m,高さ15m余りもの空洞が生じていた.これを完全に埋めないことには,いつまた再び崩落が起きるかわからない.幸い,隧道の西側上方に街道の掘割が通っていた.その法面から長さ約56mの横穴を掘って空洞に繋ぎ,大量の土砂を運び込むことで充填された.

 

ようやく工事が再開されたのは明治27年 (1894) 7月下旬のことであった.隧道の竣工は10月.そして12月1日には青森・弘前間で列車が走り始めた 2.工事を請け負ったのは吉田組で,難航を極めた碓氷峠の工事に携わった工夫が呼ばれたとされている 6

廃止と新トンネルへの切換え

苦労の末に開通した大釈迦トンネルであるが,この区間は25パーミルの急勾配を有する難所であり,列車は補機を,特に長大貨物列車は重連の補機を連結して通過することを強いられていた.速度の低さと補機回送の必要もあって,戦後には輸送力が限界に達し,線路の改良が急務となっていた 7

 

昭和36年 (1961) 3月,勾配を10パーミルに緩和するための新線の工事が開始された 7.新線には延長1,768mの新トンネルが設けられた.工事は昭和38年 (1953) 5月に竣工,同年8月に新線の使用が開始され,旧線は休止状態となった 8

線路切換え直前に撮影された写真 9.手前に写るのは新トンネルの弘前側坑口 (に接続されたスノーシェッド) で,奥の旧線を列車が走っている.

 

なお,この新トンネルの工事中の昭和36年 (1961) 12月1日,坑口から522m付近で作業員12名が生き埋めとなった.その後3日間,直径15cmほどの通気孔を通じて連絡や食料の送り込みを行い,迂回坑を掘削することで12月4日にようやく全員が救出された.工事完了までに落盤3回,土砂流出8回,異常湧水2回を数え,まさに難工事であった 10

 

その後,さらなる輸送力増強のため,この区間の複線化が決定された.当初は休止状態であった旧線を活用する方針であったが,結局は新トンネルに平行してさらに新しいトンネル (延長2,240m) を建設することとなり,昭和55年 (1980) に工事が開始された.当時最新のNATM工法が使用され,昭和59年 (1984) 9月に開通した 10.しかしながら結局,当面は単線で十分という結論に至り,2代目大釈迦トンネルは僅か20年あまりで休止状態となった.その後現在に至るまで,3代目トンネルのみ単線で利用されている.

 

初代トンネルは放棄され,弘前側は道路建設のために埋め戻されて地中に戻った.現存するのは青森側のみで,ほとんど誰にも忘れ去られたまま,ひっそりと崩壊を続けている.

探訪

本隧道を訪ねた記録は多くはなく,特に内部まで探索したのはあの有名サイトくらいと思われる.しかしそれも20年近く前のことであり,最近の状況はわからなかった.

 

2023年12月10日,現地を訪ねた.この年は雪が少なく,当日も少し地面に残ってはいたものの一面真っ白という状況には程遠かった.藪も雪も少ない時期を見計らったのである.

 

自宅のある弘前から国道7号を北上する.藤崎,常盤,浪岡と進み,大釈迦峠の坂を登り切る.峠を越えて下り始めたところで,左に廃業したコンビニとドライブインの広い空き地があるので,そこに車を停めさせてもらった.雪国仕様の長靴を履き,ヘッドランプ,懐中電灯,剪定鋏などの装備を整え,探索を開始した.

 

ひっきりなしに往来する車に注意して国道の反対側に渡る.前情報では,ここの路傍から下を見れば隧道のポータルがあるということだったので,まずは道路脇の笹藪に踏み込んでみる.しかしどうしたことか見つからない.腰ほどの高さの笹に遮られ,そもそも下方を覗き込めないのだ.足元も見えない中,これ以上進むのは滑落の危険があると判断し,いったん撤収した.

 

別の進入路を探し,峠を下る方向に少し歩いてみる.ほどなく笹薮が途切れたので,再び崖の方に足を踏み入れる.するとそこは,木が何本も立っているものの見通しは悪くなかった.そして,眼下に見覚えのある構造物があった.

コンクリート製の粗末な小屋の残骸である.これはまさに,前述のレポートの終盤で出てきた保線小屋跡に違いない.しかも,筆者はこの斜面を登って現道に復帰したという.

 

ここを降りることにした.幸い土はさほど脆くはなく,手掛かりになる木も沢山あった.

保線小屋跡.特に危険なく下りてこられた.

 

そこから弘前側を向くと,

あったぞ…!!

 

奥羽本線 大釈迦トンネル,明治27年 (1894) 竣工,昭和38年 (1953) 廃止.明治らしい冠木門タイプの煉瓦坑門である.谷を埋めるように幅は広い.特別な装飾などはないが,堂々たる姿に心を奪われる.

 

 

苔に覆われているが,立派な要石もある.

 

近くで見ると煉瓦アーチの損壊が著しい.坑門付近は本来4枚巻きなのだが,右手側は一番内側が剥落して3枚しか残っていない.

 

さて,中に入ろう.

坑口付近には何かが積み重なっている.よく見るとこれは全て隧道から剥がれ落ちた煉瓦である.酷い状況だ.やはり地質がよくないせいか.豪雪地帯だけあって地下水も多いだろう.

 

壁面はこの有様.これらの煉瓦はいつ落下してもおかしくないだろう.

 

閉塞しているので内部は真っ暗だ.ライトをつけても心もとない.少し先のアーチがコンクリートで改築されている.現役当時から状態は良くなかったということであろう.

 

崩落が著しいが,アーチ部は長手積み,スプリングラインより下はイギリス積み.標準的な組積である.

 

振返り.アーチが崩れて歪な形になっている.

 

側壁がコンクリートブロックで改修されている箇所があった.場所打ちコンクリートでないところからして,昭和初期以前の補修であろう.その頃から危険な兆候があったということか.

 

 

謎の落とし物.一瞬犬釘かと思ったが違うだろう.

 

少し進むと左側に退避坑が現れた.鉄道トンネルには必須の設備である.

 

次の退避坑は右側.綺麗な3枚巻煉瓦アーチがその姿を保っている.

 

だんだん私のカメラでは撮影が苦しくなってきた.

 

そのさらに次に現れた退避坑には少々驚かされた.煉瓦アーチではあるのだが,側壁がデンティル (歯飾り) のように凹凸になっているのだ.そして幅も少し狭いようだ.

 

思うにこれは開通後に追加された退避坑なのではないだろうか.壁面の煉瓦はイギリス積みであるから,普通に煉瓦を除去すればこのような形になる.既に完成した壁面に後付けで穴をあけたとすれば辻褄が合う.もしかすると,これは退避工というより物置きのような役割だったのかもしれない.物置きであればわざわざ凹凸を均す必要もないだろう.

 

その後に現れた退避坑は普通の姿.側壁が歯形状になっているのは先ほどの1ヶ所だけであった.

 

もうほとんど私のカメラでは撮影ができない.それなりの明るさの懐中電灯とヘッドランプを点けていたのだが歯が立たなかった.

 

また退避坑.これも状態は良い.

 

先人の記録にもあった,生活感を感じるゴミがまだ残っていた.ここに暮らしていた者がいたのだろうか.

 

突然土が盛られた場所に出た.これこそが,本隧道の閉塞点である.写真を撮りながらゆっくり前進していたため,入洞から15分が経過していた.

 

閉塞点付近ではコウモリが鈴なりになって冬眠していた.

 

ここまでひたすら暗い道のりであったが,水没やひどい泥濘はなく,長靴で十分歩いてこれた.来た道を引き返し,青森側坑口から脱出した.

記念にもう一枚.崩落は著しいが,やはり立派な隧道であった.

 

この後,青森方面に向かって路盤を歩いてみた.

最初は明瞭であったが…

 

ほどなく,笹薮に埋もれてよくわからなくなった.

 

路盤を見失った.あわよくば現役線との分岐点まで行けるかと思ったのだが.

 

保線小屋跡まで戻り,写真の斜面を登って現道に復帰した.探索開始からおよそ1時間,濃密な時間を過ごした.

おわりに

明治27年 (1894),奥羽本線で最初に開通した初代の大釈迦トンネルを訪ねた.工事中から苦労が絶えなかったという難しい立地にある隧道は,経年劣化もあって崩壊が続いているが,訪問時点では堂々たる姿を留めていた.また崩壊は坑口付近が主で,内部はコンクリート補修もあったため比較的健全な状態に見えた.

 

大釈迦トンネルは国道と並行しているものの,路肩のかなり下方に位置しているため目立たない.今回は冬の訪問であったにも関わらず,国道から坑門を見下ろすことはできなかった.しかしながら,青森県の貴重な近代化遺産であり,非常に勿体ないと思われる.斜面を降りることや内部を探索することは危険かもしれないが,立派な坑門を見れるように展望台を造るとか,せめて草刈りをして見やすくするといった整備が望まれる.

参考文献

  1. 青森県教育庁文化課・編 (2000) "青森県の近代化遺産:青森県近代化遺産総合調査報告書" pp. 65 / 83,青森県教育委員会
  2. 逓信省鐵道作業局建設部 (1905) "奥羽鐵道建設概要" pp. 1-2 / 31-32,逓信省鐵道作業局建設部.
  3. 浪岡町史編纂委員会・編 (2004) "浪岡町史" 第四巻,pp. 131-134,浪岡町.
  4. 日本国有鉄道・編 (1971) "日本国有鉄道百年史" 第3巻,pp. 598-609,日本国有鉄道
  5. 遠武勇熊 (1919) "隧道工事中の障碍實例(大正五年)" 鐵道工事野業の研究,pp. 59-67,鐵道時報局.
  6. 鉄道建設業協会・編 (1967) "日本鉄道請負業史" 明治篇,pp. 184-185,鉄道建設業協会
  7. 森誉一 (1961) "奥羽本線大釈迦鶴ヶ坂間の線路増設計画" 交通技術,16(2),pp. 25-27,交通協力会.
  8. 石原巌・編 (1963) "フォト・ニュース ― 新大釈迦トンネル開通" 交通技術,18(11),p. 27,交通協力会.
  9. 中園裕・監 (2010) "保存版 青森・東津軽今昔写真帖" pp. 146-147,郷土出版社.
  10. 日本鉄道建設業協会・編 (1990) "日本鉄道請負業史" 昭和(後期)篇,pp. 184-186,日本鉄道建設業協会