交通遺産をめぐる

関西を中心に隧道,橋梁,廃道などの交通遺産を探索しています.各物件の場所は,トップページのレポートマップをご参照ください.

新逢坂山トンネル・山科側坑門 (2021. 5. 16.)

京都と大津を隔てる逢坂山.その下を貫く,大正生まれにして現役の鉄道隧道を訪れた.

 

逢坂山といえば

これやこの行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関

夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ 

名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人にしられで 来るよしもがな 

などの和歌に登場するように,古くから東海道中山道が峠を越える,交通の要衝であった.現在も国道1号名神高速道路,JR琵琶湖線,京阪京津線,そして琵琶湖疎水と多くのトンネルが通っている.今回訪れたのは,そのうちJR琵琶湖線,正式には東海道本線の「新逢坂山トンネル」である *1

 

この日は宝池隧道を出て,京都府立図書館での調べごとを終えた夕方,それまで降っていた雨が止んでいたので,急遽寄り道をすることにしたのだった.山科駅まで移動して京阪バスに乗り,10分ほどの終点「藤尾・小金塚」で降りると,そこが新逢坂山トンネルの山科側 (西側) 坑門のすぐ横である.

 

道路から線路を見下ろす.

ここは琵琶湖線複々線に,湖西線の上下線が立体交差するという錯綜ぶりだ.隠れた部分も含めて6本の線路が通っている.

 

その中で,私の目当ては一番右側,最も古い2本の線路である.

新逢坂山トンネル,大正8年 (1919) 年竣工 1,近代土木遺産Bランク 1土木学会選奨土木遺産 2.盾状迫石に煉瓦と切石を組み合わせた重厚感のある坑門が素晴らしい.煉瓦が真っ黒になっているのは,蒸気機関車の時代の排煙によるものだろうか.

 

特に印象に残ったのは,扁額の脇を固める煉瓦が,角を手前に向けて波打つように積まれていることだ.「日本の近代土木遺産1

パラペット: 飾り積

と記しているが,このような意匠は珍しいと思う.そして,その間に掲げられた扁額は,向かって左側 (当時は上り線,現在は下り内側線) が「其益无方」,右側 (当時は下り線,現在は下り外側線) が「夷険泰否」で,いずれも当時の鉄道院・古川阪次郎副総裁の揮毫だそうだ 3

 

ここで,扁額に関する私なりの解釈を述べておく.「其益无方」は易経の六十四卦のひとつ「益」に付随する一節で,「其の益すところは際限なし (方无し) 」といった意味である.一方の「夷険泰否」のうち,夷険とは平ら (夷) なところと険しいところを表す.そして面白いことに,「泰」と「否」については,これらもまた六十四卦のひとつで,前者は「天地が交わり万事が治まる」,「否」はその逆で「万事が混乱する」といった意味である.つまり全体としては「隧道を穿つことで険しき道を平らにし,ひいては世の混乱を治めて安泰をもたらす」といったニュアンスではないだろうか.隧道が開かれた大正9年という時代は,第一次大戦後の反動不況,いわゆる戦後恐慌のまっただ中である.深読みしすぎかもしれないが,隧道開鑿という一大事業に,鉄道の利便性の向上だけでなく,国内の混乱の沈静化という大局的な願いをも込めたのではないだろうか.それにしても,いずれの扁額とも先人の心意気を垣間見るようで,思わず居住まいを正したくなる.

 

坑門を真横から.

藪が邪魔だが,どっしりとした石積みのピラスターは存在感がある.

 

大正生まれの隧道を,現代の電車が通過する.

この面影のまま,末永く活躍してほしいと思う.

 

既に日没を過ぎているので,この日の探索はこれにて終了した.今回訪れなかった大津側坑門については,後日探索する予定である.また,ここまで触れてこなかったが「新逢坂山トンネル」という名前から推察されるように,旧トンネルが存在する.旧トンネルは廃止されているが,大津側坑門は保存されており見学もできるようだから,こちらも訪問を予定している.

おまけ: 上り内側線の謎の構造物

上の写真で電車がいる線路のひとつ向こうは,大津方面に向かう上り内側線だが,隧道手前に,謎のコンクリート構造物が存在する.

真上から見ると,隧道本体とは離れていることがわかる.

これはいったい何だろう.

 

ひとつの説は,蒸気機関車時代の排煙用設備だ.SLというのはもちろん煙を吐き出して走るが,隧道内では乗務員が排煙にまかれ,窒息する事故が発生していた.これを防ぐため,列車が隧道に入った直後に幕を下ろして隧道に蓋をしたり,坑口付近に巨大な送風機を設置することがあったという 4.当該構造物は,そういった設備の遺構ではないだろうか.

 

しかし,ここの線路が上下2本ずつの複々線になったのは1970年 5 で,それ以前には,当該構造物が跨ぐ線路はそもそもなかったはずだ.そしてその頃には,既にSLの時代は終わりを迎えつつあったから,その下の線路の敷設と同時に造られたとも考えづらい.だとすると,もともとは大正の隧道に隣接していた排煙設備を,1970年に敷かれた線路の上に移設したという可能性が出てくる.なぜそんなことを,という疑問が生じるが,1974年,ちょうど当該構造物の屋根くらいの高さに,立体交差で湖西線が開業している 6 .つまり,その工事のための足場として,無用の長物となっていたSL時代の排煙設備を活用したのではないか,というのが私の見解である.

 

この推測が正しければ,湖西線のおかげで,本編でレポートした新逢坂山トンネルの坑門が完全な形で視認できるようになったことになる.風が吹けば桶屋が儲かる的な話だが,もちろん憶測の域を出ないので,何か情報があればぜひご教授ください.

参考文献

  1. 土木学会土木史研究委員会・編 (2005) 土木史研究 (10), 211-222, 1990"日本の近代土木遺産―現存する重要な土木構造物2800選―" pp. 172-173,土木学会.
  2. 土木学会選奨土木遺産選考委員会 (2005) "東山トンネル・新逢坂山トンネル | 土木学会 選奨土木遺産" 2021年6月14日閲覧.
  3. 小野田滋,山田稔井上和彦,松岡義幸 (1990) "わが国における鉄道トンネルの沿革と現状 (第3報)―旧・官設鉄道長浜-神戸間をめぐって―" 土木史研究,第10号,pp. 211-222,土木学会,2021年6月14日閲覧.
  4. 瀧川郷三 (1931) "隧道内列車に對する排煙装置の改良に就て" 機械學會誌,34巻169号,pp. 731-743,日本機械学会,2021年6月14日閲覧.
  5. 日本建設業連合会 (刊行年不明) "日本鉄道請負業史" 2021年6月14日.
  6. JR西日本京都支社 (2014) "JR湖西線 開通40周年記念イベントの開催について:JR西日本" 2021年6月14日閲覧.

*1:竣工時期を考えると「新逢坂山隧道」と呼びたくなるが,いずれの資料も「トンネル」表記だったため,ここでもその呼称に合わせている.