交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

(旧) 国道160号 中村隧道 (2022. 7. 9.)

石川県七尾市.坑口脇の石碑が歴史を語る隧道.

 

国道160号は,能登半島の中心に位置する石川県七尾市から,富山湾に沿って富山県高岡市に至る一般国道である.このうち,七尾市から富山湾西岸に突き当たるまでは,崎山半島の山岳地帯を横断する山岳区間であり,殿隧道,郷橋隧道,沢野隧道の3本のトンネルが掘られている.

 

今回レポートするのは,郷橋隧道 (昭和59年 (1984)) 竣工) の旧道上に現存する中村隧道である.昭和29年 (1954) 竣工,延長96m,幅員5.5m.

場所: [37.05072024472537, 137.02457570542768] (世界測地系).

 

2022年7月9日,石川県内の探索の折に立ち寄った.ここを訪ねた理由は2つあり,ひとつは坑門の外観が割と好みであったこと,もうひとつは隧道東口にある石碑が気になっていたからであった.

ストリートビューでもはっきり視認できるこの石碑だが,さすがに内容は読み取れない.隧道の建設に関する石碑であるなら,ぜひ読んでみたいと思っていた.

 

七尾市の有名土木遺産である (旧) 長生橋と此の木隧道 (レポート未了) を訪ねたのち,国道160号をひた走り,2つ目のトンネルである郷橋隧道の直前で右折して旧道に入った.ほどなく中村隧道である.いったん通り抜けてから,東口付近に車を停めた.

 

東口からの景.ストリートビューで見た通り,隧道の脇に石碑が建っている.

 

ひとまず石碑は後回しにして,隧道本体を見ていく.

中村隧道,昭和29年 (1954) 竣工.控えめな装飾が謙虚な印象で,悪くない.

 

コンクリート製の坑門だが,溝を切って迫石風に仕上げてある.

 

要石にあたる部分は洗い出しでより石らしくしてある.こだわりを感じるポイントだ.扁額は左から「中村隧道」.

 

向かって左側 (南側),草木に埋もれるように縦長の額がある.写真ではわかりづらいが「昭和弐拾九年参月」とある.

 

内部の景.旧道ながらそれなりに使われているようで,照明も点灯していた.

 

坑口付近はコンクリートで巻き立てられていたが,中央部は素掘りにコンクリート吹付けであった.

 

東口を振り返る.付近は旧い住宅が残る.

 

西側でまた覆工.それなりに傷んでいるようだ.

 

西口を望む.こちらにも集落がある.

 

西口から出て振返り.

 

坑門工は東口とほぼ同様だが,竣工時期を示す額はなかった.

 

西口付近に建つ碑.昭和44年 (1969) に地元業者?によって何らかの工事が行われたらしいが詳細不明.時期を考えると舗装工事かもしれない.

 

引いた位置から.確かに険しい地形であり,ここには隧道が必要だったのだと強く感じさせる.

 

来た道を戻って東口へ.今度は石碑を見る.

酒井恵萼師紀功碑

自中村拒殿絶路越小山經隘阪峻埼嶇羊腸來往
殊難眞證寺恵萼師夙憂之率先唱開鑿之議奔走
従事郷民願之有投資者有致力者而得有志十有
七人同心戮力洞開山脚作隧道大正十年六月起
工數月而告成今也阪夷而路直交通至便郷人長
受其利者實由師之力也乃勒石記功以圖不朽云

 大正十二年九月 従六位田保橋四郎平識

(あまり自信はない...)

 

当地は山がちな崎山半島の中央に位置しており,どこに行くにも峻険な小径を通るしかなかったため,地元真證寺の僧侶が率先して隧道を含む道路開鑿運動を展開したという.重要なのはその時期で,大正10年 (1921) 6月に起工,数ヶ月で竣工を告げ,この石碑自体は大正12年 (1923) に建立されている.

 

つまり,本隧道には大正11年 (1922) 頃に竣工した初代の隧道があったということである.しかし周囲に旧隧道らしき痕跡は見られないので,おそらく現在の中村隧道はこれを昭和29年 (1954) に拡幅・改築したものであろう.ちょうど前年の昭和28年 (1953) に路線が二級国道160号七尾高岡線に認定されており,これを契機として改修されたと考えられる.

 

最初の開通から1世紀が経過した中村隧道は,新隧道の開通後も生活道路として,また路線バスの交通路として,現在も地域交通の重要な役割を担っている.