明治44年開通時の姿を良好に留める,JR参宮線の五十鈴川を渡る長橋を訪ねた.
明治26年 (1893年),参宮鉄道会社によって津・宮川間が開通した参宮線は,同30年の山田 (現・伊勢市駅) 延伸をもって,伊勢神宮への参詣路線という当初の目的を達成した 1.参宮鉄道は続いて,伊勢市から西に進み,戦国時代から志摩地方の中心地であった鳥羽までの延伸を計画,明治40年 (1907年) 2月に免許を得た.同年10月に参宮鉄道が国有化されると,計画は鉄道院に引き継がれ,明治42年に着工,44年に開業をみた 2.
鳥羽までの延伸区間の工事に関する重要な資料として,鉄道院が明治44年に発行した「鳥羽線鉄道建設概要」2 があり,国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧できる.それによると,伊勢市・鳥羽間の約14kmの道程には,15本の橋梁 (溝橋を除く) が含まれていた.その中で最も規模が大きいものが,汐合川 (五十鈴川) に架かる汐合川橋梁だった.70ftの鈑桁 (プレートガーダー) 7本と30ftの鈑桁1本を連ねた長大鉄橋で,工事にあたっては川床の地質が軟弱であったため,基礎工を杭打ちからウェル (井筒) 基礎に変更したことが「建設概要」2 に記されている.煉瓦等を環状に積んだ筒を造り,内部を掘削しながら筒を沈めて基礎とする工法である.
開通から1世紀余り.今も現役で働く汐合川橋梁を訪ねた.
左岸 (伊勢) 側
下流側
宇治山田駅前で借りた車で三重県南部を旅していたこの日,夕方になって伊勢市に戻ってきた.南勢バイパスから国道42号に入り,汐合川を渡る汐合大橋の西詰 (左岸) 北側の広いスペースに駐車,徒歩に切り替えた.
五十鈴川左岸沿いに歩く.旧国道の汐合橋 (後日レポート予定) を過ぎたところで,広い川幅を真一文字に横切る鉄の橋が見えた.ちょうど2両編成の列車が通過していった.
引き続き左岸沿いに歩いて接近する.橋までは残り300m.そのうち最初の100mほどは県道715号館町通線で,狭いながらも舗装されているが,その先で県道は西に折れて川から離れてしまう.川沿いに続く道は未舗装となる.
嫌な泥濘に気を付けながら未舗装道を歩く.50mほど先に水門があり,そこで轍は途切れた.しかしその先も草木の繁茂は穏やかで,さほど労せず進むことができた.たぶんJRの保線作業員が定期的に利用している通路であろう (その割に封鎖は一切なかったのが幸いだった).歩くこと約5分,線路に突き当たった.
本橋の上部工は上路の鈑桁で,最大の特徴はJ型に曲がった鉛直補剛材 (スティフナー).わが国に鉄道が敷かれ始めた明治期に,お雇い外国人のC. ポーナル氏が設計した,所謂ポーナル桁である.ポーナル桁にもいくつか種類があるが,本橋は平板の対傾構とL型鋼の横構を有する「関西補強型」である (参考: 「明治期におけるわが国の鉄道用プレートガーダーについて」3).これは関西鉄道が,官設鉄道の「作30年式」を強化して設計したもので,国有化後に各地で用いられている.また,リベットが2列で打たれている.これらの仕様は,同じ参宮線で明治42年に架設 (線路増設) された外城田川橋梁と共通する.
1枚上の写真に写っているように,今私のいる下流側では,桁に銘板が取り付けられていた痕跡が確認できた.あまりに綺麗に剥がされているので,自然に落下したようには見えない.戦時中に供出されたのか,邪な輩に盗まれたのか.いずれにしても残念に思った.
下部工は橋脚・橋台ともにイギリス積みの煉瓦造り.桁座から下の部分は川の流れの方向に伸びた楕円形となっている.中央部に切石製の水切りを備える.全体的に改築の形跡はみられず,保存状態は良好だ.
観察を進めていると近くの踏切が鳴り出し,ほどなくして鳥羽行きの快速列車が通過していった.
上流側
下流側の観察を済ませたので,次は上流側だ.左岸沿いの道は線路で行き止まりになっているが,地図を見ると線路の向こうにも道はあるようだ.線路を迂回すると現実的でない距離の移動を強いられるし,この写真の通り,橋の下を潜る道もない.
……例によって詳しくは書けないが,1分後,私は上流側に立っていた.
ここから橋を見たとき,重要な発見があった.上の写真では日陰になっていてわかりにくいが,中央の一番手前に写っている橋脚の左の径間をよく見ると,
銘板だ!!!
伊勢側第1径間の上流側に,銘板が残っていた.残念ながら手の届く距離ではないが,むしろそのことが,下流側のように失われずに済んだ理由に違いない.
以下転記.最下部の3行は材料の記述と思われるが,読み取れず.
KAWASAKI DOCKYARD CO., LTD.
HYOGO BRANCH WORKS
KOBE, JAPAN
場工分庫兵所船造崎川
造製年参拾四治明
明治四拾参年!!!明治44年 (1911年) の当区間開通 (=参宮線全通) の前年であり,その当時の桁であるとみて間違いないだろう.
また,製造者は神戸市兵庫区の川崎造船所兵庫分工場とある.明治末期のこの頃は,鉄道橋が国直営工場だけでなく,民間工場にも発注されつつある時代だった 4.ちょうどその過渡期であったらしく,同じ参宮線でも1年早く竣工した外城田川橋梁は,鉄道院直営工場の作だった.
これらのことは「歴史的鋼橋集覧」5 にも記されているので新事実ではないが,現地訪問によってその根拠を確認できたことは,私にとって非常に大きな収穫だった.
こちら側の堤防は草薮に覆われ尽くしており,下手に動くと容易に川に転落しそうな状況であった.したがって下流側のように桁に接近することはできず,もう1枚,ズームで桁座部分のみ撮影するのみに留めた.
汐合川避溢橋
今私の立っている汐合川橋梁の西詰 (伊勢側) に隣接して,細い沼地を跨ぐ単径間の橋が架かっていた.汐合川橋梁と同じく煉瓦造りの橋台を有するが,橋台の桁座部分はコンクリートで改修されており,桁もさほど古くなさそうなI型桁であった.
こちらはかなり足元が悪く,とても接近することはできなかった.せめて名称だけでもと思い,桁の側面に見える塗装履歴をズームで確認しようとしたが,上の写真のように絶妙な位置で線路横に渡された配管に遮られてしまい,無理だった.ただし「建築概要」2 の表をみると,これは汐合川避溢橋のようだ (あくまでも工事名であり,現在の管理名称と一致しているかは不明).
右岸 (鳥羽) 側
不自然な地形の考察
さて,ここまでは汐合川橋梁の西詰 (伊勢側・左岸) の風景であった.では,東詰はどうか.実はこれがまた面白い.まずは航空写真を見てみよう.
中央の十字が汐合川橋梁である.注目していただきたいのはその東側で,川幅の1/3ほどに橋と同じ幅の陸地が伸びている.よもやこれを自然地形だと考える人はいるまい.
この不自然な地形は,結果的には橋長を川幅の2/3程度に抑えることに寄与しているが,当初からその目的だった,つまりわざわざ川を埋め立てて陸地を造ったのだろうか.「建設概要」2 にそんなことは書いていないし,いくら河口近くとはいえ,素人目に見ても氾濫を助長するような工事をするだろうか.それに,本橋は70ftの鈑桁7連に,最後の隙間を埋めるように,30ftの短い鈑桁が続いている.もし人工的な陸地を造るのであれば,陸地の方をもう30ft (≈9m) だけ伸ばし,70ft鈑桁7連がキリよく収まるようにする方が自然ではないか.
むしろ私は,汐合川橋梁の全長が当時の川幅であり,後年に流路を拡幅した際,既設構造物である線路敷の部分だけが取り残されたと考えている.
この説を支持する証拠は今のところ見つかっていない.しかし,これが正しいとすると,いつ頃に川幅が拡幅されたのかが気になる.過去の航空写真を見てみると,昭和36年 (1961年) 8月21日撮影の写真では既に線路敷が取り残された状態となっている.また,約300m下流に架かる旧国道の汐合橋や三重交通神都線の橋梁の東詰も,本橋と同じく流路に飛び出すような恰好になっている.より遅い前者の架設は親柱曰く昭和12年 (1937年) 2月であり,その頃は未だ川幅が狭かったと考えられる (旧橋の橋台は別に現存しているので,それを再利用したという可能性はない).
探訪
さて,そんな不思議な東詰に接近してみよう.鉄道橋を歩いて渡るのは流石にご法度だから,引き返して旧国道の汐合橋を渡る.
右岸には三重交通神都線の廃線跡がしっかりと残っている.詳細はいずれ記事を改めてレポートするが,その路盤上は,参宮線汐合川橋梁の全景を眺めるのに最適な視点場となっていた.両者の間には遮るものがなく,また背後には霊山たる朝熊山がそびえており,素晴らしい景観が生み出されていた.
上の写真左奥が,先ほどから述べている「不自然な陸地」である.あそこに接近したいと思い,川沿いに歩いて行った.しかし,結論から書くとたどり着けなかった.川沿いの道はあるものの,線路の30mほど手前で行き止まりとなったのだ.防波堤を越えて川側に立てばもう少し進むスペースはありそうだったが,それも橋台よりも手前で途切れており,どう見ても丸腰で接近できそうには見えなかった.以下は最接近地点からの望遠写真.
西行谷架道橋
撤収する前にもうひとつ見ておきたいものがあった.本橋の東詰から150mほど東で,線路と道路が交差していることが地図からわかっていた.
この部分は汐合川橋梁に続く築堤であるから,何らかの橋があることは確実だし,実際,上の地理院地図では橋の記号が付与されている.いつ頃の橋かは地図からはわからないが,参宮線のことだから,煉瓦構造物が残っている可能性も大いにある.それをチェックしておくことにした.
川沿いの道から離脱して集落の方に歩いて行くと,難なく見つけることができた.
橋に至る道は未舗装だが,よく整備されており,日常的に使われているようだった.距離も短く,労せず接近することができた.
近寄ってみると期待通り,煉瓦橋台を有する橋梁であった.桁はおそらく後年に交換されており,また桁座の部分はコンクリートで塗り固めてあるが,橋台の大部分は美しい煉瓦積みを留めている.
塗装履歴と橋台に取り付けられたプレートから,西行谷架道橋という名称が判明した.西行谷という地名は現在の地図には現れていないが,このあたりは平安時代に西行法師が晩年の6年間を過ごした土地であり,それに因んだ古い字であろう.
なお,同名の橋梁は「建設概要」2 の橋梁一覧に登場しないが,これはおそらくスパンの短い「溝橋」(開渠および暗渠) のひとつとして扱われていたためと考えられる.「建設概要」2 は「溝橋」として,長さ6ft (≈1.8m) 以上のものは開渠が13ヶ所,6ft未満のものは開渠が5ヶ所,暗渠が5ヶ所の合計23ヶ所を数えている.
当日の私はここで散策を切り上げて車に戻った.しかし,後から地図や航空写真を見てみると,そのまま線路を潜ってまっすぐ行っていれば,汐合川橋梁の上流側に回りこむことができそうなことに気付いた.もちろん実際に行ってみる辿り着けなかったという可能性もあるが,それを確かめなかったのは迂闊だった.ただ,ここで引き返したおかげで,日没前にもうひとつ素敵な橋を訪ねることができたこともまた事実.そちらもいずれレポートする.
参考文献
- 三重県教育委員会・編 (1996) "三重県の近代化遺産" pp. 104-105,三重県教育委員会.
- 鉄道院名古屋建設事務所 (1911) "鳥羽線鐵道建設概要" 鉄道院名古屋建設事務所,2022年5月14日閲覧.
- 西野保行,小西純一,中川浩一 (1993) "明治期におけるわが国の鉄道用プレートガーダーについて" 土木史研究,第13号,pp. 321-330,土木学会,2022年5月14日閲覧.
- 五十畑弘,榛澤芳雄 (1996) "鉄・鋼橋技術の産業的成立過程について" 土木史研究,第16号,pp. 573-586,土木学会,2022年5月14日閲覧.
- 土木学会鋼構造委員会歴史的鋼橋調査小委員会・編 (1992) "歴史的鋼橋集覧" G1-015,2022年4月29日閲覧.