交通遺産をめぐる

隧道,橋梁,廃道などの交通に関する土木遺産を探索し,「いま」の姿をレポートしています.レポートマップはトップページにあります.

白山市の (旧) 江津橋 (2022. 7. 24.)

手取川中流部に架かる鋼ワーレントラス橋.

 

名峰白山に源を発し日本海に注ぐ手取川.県名「石川」の由来ともなったこの川の中流部,旧河内村と旧鳥越村の間に架かる石川県道180号河合江津線の橋が江津橋である.

江津橋は上下線のそれぞれが別の橋で構成されている.下流側の下り線が昭和29年 (1954) 架設の旧橋,上流側の上り線が昭和50年 (1975) 架設の新橋である 1.このうち,本記事では主に旧橋に焦点を当てる.

架橋の経緯

手取川と支流大日川の合流点の右岸,河内村 (現・白山市河内町) の江津地区は広い耕地を有する古い集落で,近隣の吉岡地区・福岡地区とともに串柿や繭,梅の生産で栄えていた.江津という地名は,2つの川 (=江) が集 (=津) うことから付けられたとも,地区の氏神牛頭天王であったためにごず → ごうずと変化したとも言われている 2

 

昭和5年 (1930) 5月,江津地区と手取川左岸にあった北陸鉄道金名線・加賀河合駅 (大正15年 (1926) 開業,昭和62年 (1987) 廃止) を結ぶ橋が架けられた *1.これが最初の江津橋であった.江津地区の田中留次翁が尽力したらしく,後述のように現地には記念碑が残されている.しかしながら,わずか4年後の昭和9年 (1934) 7月11日,未曾有の豪雨による手取川の大氾濫で跡形もなく流出した.昭和11年 (1936) 11月,福岡地区の朽木定次郎の請負により,2代目・江津橋が開通.延長30mの吊橋であり,しばらく利用されたが,昭和24年 (1949) 9月に腐朽して落橋.吉岡地区の山本二男の請負で架け換えられ,3代目の江津橋となっている 2

 

昭和25年 (1950) 9月3日,ジェーン台風 (台風第28号) が当地を襲い,開通して1年足らずの3代目・江津橋は早くも破損した.その復旧として現在の江津橋が架けられるわけだが,ここにはかなりの紆余曲折があったらしい.まず,「河内村史」2 には

昭和二十五年九月三日のジェーン台風にて、架替後一年に満たない新しい橋が落下し、建設省の災害査定の承認を得て、災害復旧費七二〇万円を認められたが、昭和二六年六月この橋について中傷するものがあり、取り調べの結果事なきを得たが……(略)

とある.「この橋について中傷」とは何だろうと思って調べてみると,昭和26年 (1961) 6月23日の「北国新聞」に、次のような記事が載っている 3

江津橋(天狗橋の上流)爆破に疑い

補助金獲得のためか鉄骨の横領か 金沢地検取調べに着手

金沢地検では手取川天狗橋上流の江津橋(石川郡河内村江津と同郡鳥越村河合とを結ぶ木のつり橋)が昨年九月のジェーン台風で破損後ダイナマイトで橋を爆破し、新橋架設のため七百四十万円の国庫補助金を県へ申請した事実を探知し詐欺、横領、往来妨害罪、建造物損壊、窃盗罪などを構成するのではないかと取調べに着手した

つまり,江津橋を架け換えるために橋を意図的に破壊し,直前にあったジェーン台風のせいだと主張して国庫補助を詐取しようとしたのではないか,という疑いである *2.同記事に記されている地検の調査結果では,ジェーン台風による江津橋の被害は,

振止ワイヤーが切れたほか橋板がずれて、このままでは歩行が困難なほどに破損した

となっている.確かにそれだけであれば,少なくとも吊橋の主塔や下部工は無事なわけだから一切を架換える必要は薄い.だからこそ

十一月はじめごろ朽木昭巳氏らが中心となつて橋の木材部を全部取りはずしたうえ、二間あまりの鉄筋コンクリート製橋脚をダイナマイトで爆破し

たのではないかという.ちなみに朽木昭巳氏の父親は朽木定次郎,つまり昭和11年開通の2代目江津橋を請け負った人物だが,当時は村長として村政の中心にいた.

 

なお,先に引用したように,取調べの結果は「事なきを得た」,つまり不起訴となっている.もっとも爆破の疑いが本当に「中傷」,つまり根拠のないデタラメだったのかは定かではない.というのも,「中傷」だと述べている河内村自身が疑惑の当事者であったからだ.新聞記事の方には朽木村長と息子昭巳氏が取調べを受け,また村関係者も鉄骨着服の疑いをかけられていることが記されている.当事者である村が「事なきを得た」とは言っても,本当にシロだったのかは不明である.

 

ともかく,江津橋は跡形もなく損壊し,新たな橋が架けられることになった.しかし「中傷」騒動の間に朝鮮戦争が進み,金属高騰によって予算不足が深刻となった.結局町村道として架換えることは困難となったが,関係者の運動の結果昭和27年 (1952) 4月に県道編入を果たしたため,県の手で架換えが進められ,昭和29年 (1954) 10月,松尾橋梁の請負によって4代目の江津橋が完成した 2

 

4代目・江津橋は主径間が支間68.5mの曲弦ワーレントラス桁であるものの,側径間は旧態依然の木橋であった 1.全てを永久橋としなかったところに厳しい財政事情が窺える.しかしながら昭和36年 (1961) 9月16日,石川県を襲った第二室戸台風により,江津橋右岸側の木桁部分は流出した.トラス部分も水流に洗われ,流木で欄干が破損する事態となった.これを受けて木桁部分もプレートガーダー3連 (右岸側2連,左岸側1連) に架換えられ,同時に橋全体を2m嵩上げする工事が行われた 2.これにより,現在の江津橋 (旧橋) の姿となった.

 

昭和後期にモータリゼーションが進むと,自動車同士の離合ができない江津橋の幅員が問題となり,昭和50年 (1975),上流側に新橋が架設された 1.現在,下流側の旧橋は東向きの一方通行,上流側の新橋は西向きの一方通行となっている.

現地探訪

2022年7月24日,現地を訪ねた.旧橋の西詰で道幅が広くなっており (対面通行であった時代の待避所と思われる),駐車スペースには困らなかった.

 

左岸から見る江津橋,昭和29年 (1954) 竣工,昭和38年 (1963) 復旧.昭和29年当時の堂々たる下路トラスが目を引く.

 

左の親柱には「ごうずばし」.

 

右は「昭和三十八年四月架」と復旧工事の時期を刻んでいる.

 

まずはいったん歩いて橋を渡ってみることにする.

 

トラスの近景.おびただしい数並んだリベットが美しい.

 

橋門構.

 

内部の景.意外とスッキリした印象.斜材や鉛直材,上弦材の裏側 (と呼んでいいのかわからないが…) がレーシングになっていないのが戦後っぽい.

 

下流側を望む.直立した2つの巨岩はめおと岩と呼ばれているようだ.

 

トラス部分を過ぎて右岸側からの振返り.

 

こちら側には銘板.

昭和29年          (1954)    
石川縣建造 
内示 (昭和十四年) 二等橋
製作     松尾橋梁株式会社

確かにこのトラスが昭和29年 (1954) の架設当初のもので,昭和38年の復旧後もそのまま利用されていることがわかる.

 

さらに進み,渡り切って振り返り.

 

親柱.左は「昭和三十八年四月架」,右は「ごうずばし」.それぞれ親柱・題額の材料も醸し出す古さもまったく違うのが気にかかる.たぶん左の親柱が昭和38年当初のもので,右の親柱は後補ということだろう.そう考えると,左岸側の親柱も後補と思われる.

 

そのまま進んでいくと,新橋経由の上り車線と合流する.その直前,上下線の間のスペースに建つものがあった.

田中留次感謝之碑.初代・江津橋を架けた江津の田中留次翁を讃える石碑である.

 

しかしながら残念なことに,碑文が刻んであったと思しき下部の枠内は,石版が剥がれ落ちたのか判読不能となっていた.

 

夏草がひどく近付けないので,上り車線側から見た石碑の裏側.

 

こちらの「枠」には複数の人名が連なる.寄付人か発起人の一覧であろう.

 

さて,そのまま上り車線の新橋を通って西側に戻ろう.

 

(新) 江津橋,昭和50年 (1975) 竣工.昭和後期らしい無個性な桁橋だ.

 

親柱には「江津橋」,「昭和五十年七月架」.

 

新橋の一番東 (右岸側) の径間に見つけた銘板.内容は納得なのだが,なぜか若干異なる2枚が同じ桁に仲良く掲げてある.片方は別の径間の桁から移したのかもしれない.

 

旧橋を眺めながら新橋を渡る.

 

旧橋の右岸側のプレートガーダー.溶接の無個性・無機質な桁.

 

旧橋主径間のトラス.

 

下部工と支承.

 

このリベットの質感がたまらない.

 

旧橋越しに望遠で下流側を望む.

 

新橋を渡って左岸側の親柱のうち,左 (下流) 側には「昭和五十年七月架」.

 

右 (上流) 側には「ごうづばし」.

 

この親柱をよく見ると,路面と反対側の面に何やら書かれているのが目に入った.「読ませる気ないだろ」と思いながら,無理やり腕を伸ばしてカメラに収めてみる.

工事銘板であった.先ほどの桁の製造銘板でもそうだったが,旧橋が二等橋で設計されていたのに対し,こちらの新橋は一等橋となっているのが興味深い.

 

そのまま旧道分岐まで歩いて旧道を引き返し,旧橋の西詰に止めた車まで戻ってきた.ふと見ると,下流側に夏草に埋もれつつある入川道のようなものがある.せっかくなので河原からも橋を眺めたい.マダニや蚊がうようよいそうだったので,虫除けを足先から頭までしっかりかけた上で踏み込んだ.

 

思惑通り旧橋の下に立つことができた.写真は左岸側のプレートガーダー.右岸側と同じくのっぺりした新しい桁.

 

嬉しいことに旧橋のプレートガーダーにも銘板を見つけた.

1963年3月
石川縣建造 
荷重 建示 (1955) 二等橋
製作 名古屋造船株式会社
   材質   SS41   SM50

 

トラス部分を下から.やはり無橋脚で高々と超える姿はかっこいい.

 

新橋とのツーショット.

 

反対の下流側から.

 

水際を歩く.「石川」と呼ばれた手取川らしく,様々な石がごろごろしている.足をぐねらないように慎重に進み,トラス全体を眺めた.

広い本流部分を一気に越える見事な橋だ.

 

これで満足して引き返した.

参考文献

  1. 土木学会附属土木図書館・編 (2008) "橋梁史年表" 2023年1月23日閲覧.
  2. 河内村編集委員会・編 (1981) "河内村史" 上巻,pp. 488 / 502-503,河内村役場.
  3. 明治大正昭和新聞研究会・編 (2002) "新聞集成 昭和編年史" 二十六年版III,p. 720,新聞資料出版.
  4. 1986年2月1日付北國新聞 "手取川 扇状地の苦闘1: 天狗橋はなぜ落ちた".
  5. 1986年2月2日付北國新聞 "手取川 扇状地の苦闘2: 「地元のため」の強い思い",

*1:河内村史」には大日川駅と書かれているが,当時未開業なので,加賀河合駅のことと思われる.

*2:このような疑いが生じた背景として,同じく手取川に架かりジェーン台風で破損した「天狗橋」について,わざと落橋させて災害復旧補助金を詐取したとされる「天狗橋事件」がある.天狗橋事件は無関係の通行人が崩落に巻き込まれて死亡する惨事となり,のちに事件に関与した石川県職員が実刑判決を受けている 4, 5